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学びの「価値」

♪6, 3, 3 で 12年~
という文字列を見てメロディが浮かぶ人、もしくは一瞬でも
「コイズミ学習机」
という言葉が頭をよぎったひとは、50歳以上です。お疲れ様です。

いつもの、某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、前回の「古文、漢文、三角関数不要論について」の稿で、少し言い足りなかったことがあるなぁと考え、付け加える内容になります。
……全然「一度だけちょっと」じゃないな。

ここ最近、というかずっと、イヤなことばっかり書いてきたせいで、少し心がささくれだっており、Youtubeでちょっとした感動秘話を観るだけで泣いてしまうほど情緒がやられております。
ぼくはほんとうは、とても心温かい人間なのです。心温かい人間は自分からそのようなことは言いませんけど。

なので、少しいいことも言ってみようと思いました。

冒頭の「6, 3, 3」とは、義務教育である小中に、高校の3年間を足した期間。
日本人のほとんどが、この12年間を、決められた教育機関で過ごすのです。
この期間に学ぶこととはまさに「科学的思考」である、という話は前回した通りですが、その科学的思考を司るための知識。
実はそのほとんど、社会に出て役に立つかというと、正直なところ、某SNSの、ちょっと民度があれな人たちが言っているとおり、役には立ちません。
どれくらい役に立たないかというと……自分を振り返って、例えば教科書を開いてみて、覚えてる内容がどれほどあるか、を思い出してみると分かると思います。
ほぼ全て、忘れている。ほとんどの人にとっては、そういうものだと思います。

社会に出てほぼ忘れてしまう。そんなもののために、若い世代のもっとも柔軟で輝いている貴重な12年間。大学を含めれば、プラス4年の16年間。
そのような長期間を、学校という教育機関に捧げるわけです。私たちは。
まったく無駄な12年間を、無駄と知りながら詰め込んで捨てていく。なんだかとてももったいないことをしているような気がする。そんな方は少なくないと思います。

学校で教えている内容というのは、この日本社会からの要請ありきで決定されている。個人の勉強は個人ですべき。そのような話を私は前回の稿で述べました。
ですが、実際は上記のように、そのほとんどの内容は「汚部屋の袋ゴミ」扱いで脳内にうち捨てられている。そんな状況です。
いったい我々は、いくら社会の要請があったとはいえ、なぜあそこまでの努力をして、汗水垂らして、必要のないものを詰め込む必要があったのでしょうか。
普通の感覚を持っている人なら、一度はよぎる疑問だと思います。

実は。
科学的思考、というものは、社会のほぼ全ての分野で、何らかの形で利用されています。学校で教える教科は、そのエッセンスのいわば「寄せ集め」なのです。
翻訳家にとって英語が必須であり、測量士にとって数学が必須であり、法学者にとって歴史が必須であり、理学者にとって物理が必須であり。
すべて、専門分野は科学の礎によって築かれています。
私はさきほど、学校の授業内容の「ほとんど」を忘れる、と申しました。全部とは言ってないわけです。役立つ部分ももちろん、上記のように、確かにあるわけです。

ただ。
問題なのは、その逆の場合でしょう。
翻訳家にとって物理が必要か?(実際は、理学を翻訳する場合には最低限の知識は必要でしょうが)
測量士に歴史が必要か? 
野球選手に数学が必要か?
――会社員に、五教科八科目など必要なのか?

どうでしょうね。
必要かもしれないですし、必要でないかもしれません。
究極、その人次第だと思われます。
(とはいえ、例えば新聞やニュースで社会の事象を知るのに、科学の下地がある場合とない場合で理解の深度は明らかに違う、ぐらいのことは言えそうです。)

ただ、こういうことは言えると思います。
人間、まったく触れたことのない分野については、基本的に軽視する傾向にあります。
これは、実は人間がその生を生きる上で、熟知しておかねばならないことだと私は思っています。
もう一度言います。
人間は、自分の触れたことのない、よく分からない分野については、軽視する。たいしたことないと思い込む。つまらないものだと馬鹿にする。
そういう傾向がある、ということは、確かなのです。

Youtubeを観ていまして。
私は音楽は好きな方ではある、と思っており、自身吹奏楽部に中高で6年間在籍したくらいの経験はあります。
ですが、動画で辻井伸行氏のピアノ演奏を聴いて。
素晴らしい演奏だな、とは確かに思うのですが、具体的に何がすごいのか、どこに感動の要素があるのか、ほぼ言語化できませんでした。

また、大谷翔平選手のすごさも、数字によって示された結果からすごさを類推しているだけで、具体的な技術力の高さや身体能力の高さも、やはり説明できません。サッカー、バスケの選手についても同じです。

あるいは、私は絵についてはゴッホの絵がなんとなく好き、くらいで、ピカソのすごさもシャガールのすごさも言語化できません。

歴史分野では、法隆寺の歴史的価値も金閣寺の歴史的価値も、言語化できません。

改めて思うのは、自分はびっくりするほどこの社会の、世界の、ものごとを知らない、分からない、ということです。

それは、私が音楽も、スポーツも、絵画も、歴史も、専門分野ではないからです。
怖いことですが、専門分野というのは大学がその入り口で、実際に学ぶのは院生だけです(アカデミックな知識に関して、ですが)。ほとんどの人は、専門分野なんてないのです。
そして。
専門分野を修めた人でさえ、専門分野以外の分野は高校生程度の知識しかない、ということであります。

また。
専門分野の方でも、実はそんなにたくさんの「知っている」人間を求めているわけではありません。
本当に学者として、教授として、あるいは文筆家として、法律家として、専門家として、背中に専門を負って生きていくべき人間以外の人間にとって、実は学問は、「生きていく上でだけ言え」ば、まさに「無駄」そのものです。

ただ。
建前では少なくとも、全ての日本人の人間は最低9年、最長19年、「学ぶ」ことが社会から要請されております。
無駄を無駄、という言葉だけで終わらせてしまうのはあまりにも寂しいし、心苦しい。

「その他」の人。会社員とか。なんらかの労働者とか。専門外で生きる末端とか。日雇いとか。アルバイトとか。その他全ての日本人とか。
専門として究めていく必要性を持たなかった人たちにとって、「学ぶ」――学んだこと、というのは、実は何か意味があるのではないか。
私は一つだけ、思い当たることがあるのです。

私は少なくとも、知らないまでも少しだけかじった分野については、その分野で成功を修め、活躍されている方へ、「敬意」は感じることができます。
それは、自分がそこで少しでも苦しんだことがある思い出から、その分野を修めるのにどれほどの苦労があるかを、類推することができるからです。
ですからほとんど全ての人にとって、なにかを学ぶ意味とは、そこでの積み重ねの苦心を経験することで、それぞれの分野部門で活躍する方への敬意を育てるという大切な意味がある。そう、考えるのです。

上記で少し申しましたが。
人間、自分のまったくあずかり知らぬ分野においては、軽視する悪癖があるものです。
手塚作品を燃やしたり(過去そういうことがあったのですよ)、アニメやアニメ絵を嫌悪したり、性産業の従事者を低く見たり、肉体労働者への偏見があったり、障害者への心ない誹謗があったり、老人への害物意識が育ったり、差別意識の浅さがあったり、そのようなこと全てが、実は「よく知らなかった」ことによる軽視の産物であったりするのです。

ですから正直、ある程度の学問を修めた人間が、人への敬意を忘れたような発言を繰り返すこと、自分は信じられないのですよね。
(実際は、そういう人は自分の修めたはずの科学という知識を忘れ、自己の思想や原感情を優先したいという欲望に飲み込まれただけの人である、ということは以前noteで語らせていただきました)

敬意は大切です。
人を雑に扱う人の言葉はまず、心には残りません。憎まれるだけです。
もちろん、↑の言葉は私自身に向けて言っております。
そういうことをすっかり忘れてしまったのが、今の自分の姿そのものだ、ということです。肝に銘じましょう。ええ。

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