輪郭

真昼のトロイメライ

実存は本質に先立つ。ただ事物の形や現象があるのみで、意味は身勝手な幻想だ。我々の世界は我々の解釈の中にしか存在し得ないのである。すべては幻想、そして虚無に還る。
しかし、連続して立ち現れる一瞬一瞬を時間の一部に捉え、意味を見出す行為こそが我々の真の価値ではないか。生きる理由なんて実際は何もない。

各々居心地の良い屁理屈を作り上げ、都合の良いフィルタを通した幻想の世界を生き、塗り重ねた嘘が私の生きる理由だと決め込んで喚き散らしているだけに過ぎない。虚無のやるせなさに蓋をするように、身勝手な解釈を塗り重ねて明日を迎えてきただけではないか。

たとえば、理不尽な意味や理屈におびやかされそうになる場面もあるだろう。惨い映像を観て反射的に「気持ち悪い」と思う私の意識を切り捨てられたらどんなに幸せだろうかと何度も考えた。本当に惨いかどうかは私の意識だけでは決められないからだ。
多数大勢の人間が映像を観て「気持ち悪い」と思えば、大衆的に見て「気持ち悪いもの」だと認識が浸透するが、私もしくはその誰かにとって「気持ちのよいもの」であったときに、映像に撮した世界を理想郷だと嘲るか。
大衆が正義と謳って個人を迫害をしていても、私はおそらく快感に浸る人間への攻撃は出来ず、「普遍的に言う気持ち悪さ」から気持ちよさを見い出せる感覚の持主についての探究を始めるように思う。そういった意味では私は快楽主義者なのだろう。
快楽主義者と言っても、怠惰とは全く別物の、いかに楽に、かつ単純に、絡まった糸を解せるかの一点を見ている。純粋な世界が見える人間に出来ることと言えば幻想から現実に是正させるくらいで、おそらくその人間の視界に写る映像こそ幻想から離れた本物の世界であろう。
彼の持つ感覚によって見え、私には見えない幻想、それでいて現実であるその視界への憧憬の念はいつどんな場面においても切り捨てられる状態にはならない。

形あるどれもが、輪郭を模った薄い皮膜にエーテルが満たされた物体である。物体に針を刺せば水風船が弾けるように霧散し、たちまちあたりは甘ったれた刺激臭に包まれる。
他者の幻想への理解さえ示せば、ちょうどモナ・リザの輪郭が何度も擦られて霞んで曖昧であるように融け合うことも可能だろうが、自他との確かな境界線がある限りは難しい問題であり続ける。
林檎の味もわからない者に林檎の説明をさせてどこまで信用に足るか。

究極の美があるとするとそれはなんだろう。
個人的には、未完成さ不完全さ、または形あるものが壊れる瞬間に惹かれる場面が多い。
初めてに目を輝かせられるように、知らないことはもとより、何事も決め込みすぎないことが大切だと思う。こだわりを捨ててみるのも良い。そのときあなたの持つ指針は一体何に代わるだろう。

あなたにとっての美とは何だろうか。
あなたの見る白色は紛れもなく白だろうか。
もし一切が信じきれないときに何を見るか?

…、ちなみにこれらの文章に意味は何もない。
すべては私の幻想ですから。

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