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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第3章】ブーランジェリ・アン・ドゥ・トロワ

第3章 ブーランジェリ・アン・ドゥ・トロワ


1

 孫の陽介が生まれて一か月、耕平は居場所を失くしかけていた。
 「お父さん、ソレ取って! 違うってば、ソレじゃなくてソレ、お尻拭き!」
 リビングのソファに座る真由子が、耕平に向かって叫ぶ。今日も真由子は苛立ちを隠せない。
 食卓の上にあったベビー用お尻拭きのプラスティックケースを手に、耕平がソファに近づくと、
「やだ! 見ないでよ!」
 授乳中だったらしい真由子は胸元を隠しながら、耕平に背を向け後ろ手で奪うようにケースを掴み取った。
 なんだよ感じ悪いな。耕平は心の中で舌打ちをする。産後まだ間もない娘からとはいえ、謂れのない敵意を向けられるのは面白くない。
 「もう陽ちゃんったら、おっぱい飲むとすぐにウンチなんだからぁ」
 授乳を中断してオムツ替えを始めた真由子は、怒っているんだか喜んでいるんだか判らない声色で騒いでいる。
 歳相応に成熟しているようには見えない我が娘が、こうして人の子の親となって今、必死に育児に取り組んでいるんだからな。まあ仕方ないかと、耕平は今日も娘を赦す。

 それにしても家が狭くなった。リビングには常に、真由子と陽介がいる。そして耕平が知る限りではほとんどの時間、潤子も同じ空間にいて、赤ん坊をあやしたり哺乳瓶を洗ったり、山のような洗濯物を畳んだりしている。望月家の居間は現在、人口密度が高すぎる。
 孫は可愛い。小さく、やわらかく、ああ涼太もこんなふうだったかなと、三十年も昔の日々をうっすらと想い出して甘酸っぱい気持ちに浸る。
 しかしまだ自分に笑いかけてくるわけでもない、うにゃうにゃと動き寝ているばかりの赤ん坊は、今のところ耕平にさほどの幸福をもたらしているとは思えない。それよりは失ったものの方が大きいようにさえ感じるのだ。
 紙オムツやガーゼハンカチなどが収納された安っぽいワゴンが、さほど広くもないリビングをいっそう窮屈に見せている。
 ソファにはいつだって水色のおくるみや大判のタオル類がつくねられており、束の間陽介が寝かされていたり、真由子が授乳のために陣取っていたりする。もはや耕平がそこに横たわるなど永遠に許されないことのように思われた。

 娘婿の優也はまめな男だ。いつの間にか台所に立っていて、当たり前のように食事の支度などをしている。赤ん坊の沐浴も率先してやっていたし、ウンチのオムツ替えも抵抗なくこなしているようだ。
 「あ、真由ちゃん。オムツの買い置きまだあったよね」
 汚れた紙オムツを専用バケツに捨てながら、優也が訊ねる。
「うん、まだ大丈夫。昨日注文したから明日も届くし」
 「ふ~ん……、時代は変わったな」
 若い夫婦の会話を聞いて耕平がそう呟くと、潤子が赤ん坊の肌着を畳みながら、何やら皮肉めいた視線を投げかけてくる。
 「家事も育児も、男が普通に手伝う時代になったってことだな」
 面倒くさくなったので適当にそう言うと、
「お父さん、だからそうじゃないってば。手伝う、って感覚がそもそも間違ってるんだよ。男のほうにだって当事者意識が必要なんだから。本来育児って、二人の共同作業でしょ」
 優也は聞こえないふりをしているのか、赤ん坊の頬を突いて微笑んだりしている。
「おぅ。真由子もずいぶん難しいこと言うな」
 面倒くせぇなあと心の中で呟きながらそっとリビングを離れ、足音を忍ばせて階段を上り、耕平は自室に籠った。
 
 いや、真由子、それはおまえたち二人が自立してから言うべき台詞だ。
 耕平はモヤモヤとした気持ちを抱えたままパソコンを立ち上げた。そうだ、この間ボクシングの試合を見逃したんだった。最近は思うようにテレビも観られないが、こうして色々な形で配信があるからありがたい。
 「スーパーフライ級タイトルマッチ、伝説の名勝負」、これだよこれ。耕平は束の間現実を忘れ、男の闘いに酔いしれた。


2

 生後三か月、陽介は日に日に可愛さを増していく。耕平があやすと手足をばたつかせて笑うようにもなった。そんなふうに眼に見える反応があると、耕平の中に眠っていた母性のようなものも一気に花開く。
 「すみません、あの、お義父さんにもご報告なんですが……」
 そんなある日の晩、妙に改まった顔つきで優也が近づき、話しかけてきた。
「実は僕、漫画家を諦めて、就職することにしました。とりあえずは契約社員なんですけど、近いうち正社員になれる予定もありまして」 
 優也は相変わらず自信なさげに小声で話す。
「おぅそうか。まぁ、キミがそれで後悔しないならいいけどさ」
 「後悔」の言葉に瞬きで反応した優也は、
「でも、自分の夢より今、大事にしたいものがありますんで……」
 わずかに頬を赤らめて、陽介を抱く真由子の姿を見つめた。
 
 翌日優也と真由子は、ベビーカーを押して散歩に出かけた。久しぶりに潤子と二人で向き合うリビングは、どことなく間延びしている。耕平はここぞとばかりにソファに寝転んで大きく伸びをした。座面から赤ん坊の、乳臭くほの甘い匂いがした。
 「自分の夢より大事にしたいものがある、ってよ」
 昨日の優也の言葉を思い出し、横になったまま耕平が切り出すと、
「ああ、優也くんね。あの子、いい子よね」
潤子はしみじみとした声でそう言った。
 優也は疾うに以前のバイトを辞め、今は大手引越し業者で働いているようだった。過去の作業経験や仕事の的確さを評価され、正社員目指してまずは契約社員からと勧められたそうだ。
 今までに何度か漫画のコンテストにも応募したものの受賞は叶わず、漫画家としての才能に限界を感じていたのだという。
 「それにいつまでも私達に迷惑かけるわけにいかない、って。早く自立して二人で暮らせるようにしなくちゃって。やっぱり気を遣ってるのよね」
 潤子は夫婦で向き合う時の決まりごとのように急須に湯を注ぎ、お茶を淹れている。
「そりゃまぁ普通はそうだろう。真由子がちょっと変わってるだけだ」
 耕平はそう言いながら上半身だけ起き上がって湯呑を受け取り、特段上手くも不味くもない茶を啜った。夫婦の会話はそれで終わった。
 

 「ねぇ、兄さん最近どうなのよ」
 ある晩唐突に、妹の弓子から電話があった。嫌な予感がした。
「兄さんは初孫にメロメロなんでしょ。私はもう、お母さんに振り回されっぱなしでボロボロよ」
 お、上手いこと言うね。耕平はしかし慌ててその言葉を吞み込んだ。弓子の堪忍袋は爆発寸前のようだった。迂闊に冗談を口にすれば爆発必至である。
 「お母さんったら二言目には『お兄ちゃんが、お兄ちゃんが』って。こっちは仕事終わりにクタクタになって様子見に行ってやってるのに」
 弓子の怒りは収まりそうになかった。
 母の和江は老いたとはいえ、まだ80を過ぎたばかりだ。夫を突然亡くして後、喪失感を抱きつつも、世話をする対象を失ったことで暇とエネルギーを持て余しているようだった。以前耕平がしばらく泊まりにいっていた時には、かいがいしく家事をする和江の様子に安堵したが、その体力がかえって問題なのだと弓子は苛立ちを見せる。
 「お母さんったらまだ要支援にすら引っ掛からないのよ。ぜんぜん惚けてもないし、足腰しっかりしてるし」
「なんだよ、ありがたいことじゃないか」
「兄さんは離れてるからそんなこと言えるのよ。今の感じだと何の介護サービスも受けられないんだから。短時間でもいいからデイサービスとかデイケアとか、使えるんだったら少しは暇も潰れるんだけど。お母さんったら元気なくせに文句ばっかり言ってるんだから、こっちの身にもなってよ」
「そんなこと言ったって。寝込まれてるよりマシだろ?」
「それだったらさっさと施設探すわよ。そっちのほうがよっぽどラク!」
 ずいぶんな言いようだなと、耕平は弓子の眉間の皺を想い出して気が滅入った。
 「わかったよ。週末あたりに行って、しばらくまたおふくろのところに泊まってみるよ」
「そうよ、そうしてくれたら助かる!」
 弓子の圧がすごい。逃げられないなと耕平は覚悟した。
 

 「じゃ、今晩からアッチに泊まってくるから。日曜の晩には戻るかな」
 耕平の言葉の大半は、洗面所に響く洗濯終了のブザー音でかき消された。「え、何? お義母さんのところでしょ? 今晩からよね」
 望月家の洗濯機は、今日もフル回転のようだ。潤子は洗濯物を取り出しながら言う。
「しばらく泊まってあげるんでしょ」
「ん、日曜には帰るつもりだけど……」
 洗面台の前でだいぶヴォリュームの減ってきた髪を整えながら、耕平は言い直した。
 鏡の中に、潤子の険しい顔が映り込む。
「この際しばらく一緒にいてあげたら? お義母さん淋しいのよ」
 潤子は有無を言わせぬ強い眼つきで、耕平をじっと見つめている。
「うん、まあ、そうだなぁ……」
 耕平は曖昧に応えながらリビングに向かい、
「陽ちゃん、ジィジはしばらくお留守にしまちゅよ~」
 ベビーラックの中の陽介に挨拶してから玄関に向かった。
 潤子と真由子の「いってらっしゃ~い」の声が重なる。母娘のよく似た声のハーモニーが、耕平の背中に覆いかぶさった。出勤時に妻が玄関まで来て自分を見送る、そんな光景も、遥か昔には確かにあったよなと、耕平は朝から微かに心がかさついた。

 「おかえりぃ、お兄ちゃん」
 仕事を終えて大宮の実家に着くと、和江が嬉々として耕平を出迎えた。「お腹空いてるでしょ。今夜はお鮨とったから」
 食卓には、上等なネタの並んだ鮨桶が置かれている。
「どうしたの、えらく豪勢だね」
 和江の意気込みに、耕平は少々怖気づいた。
「あら、久しぶりにお兄ちゃんが帰ってきてくれたんだもの、これくらい」
 そう言って和江は吸い物を温め、「お鮨だけじゃ野菜が摂れないものね」と、小松菜と油揚げの煮びたしを小鉢によそった。昔に比べれば動作は多少緩慢になったとはいえ、弓子の言う通りまだまだ和江の足腰が衰えたようには見えない。
 「懐かしいなあ、若松鮨の出前か。やっぱり美味いね。デリバリー専門の鮨チェーンのとは比べ物にならない」
「あらやだ、当たり前でしょう」
 顔中皺だらけにして笑う和江は、ほんとうに嬉しそうだ。
「やっぱりこうやって、誰かと一緒にご飯食べるのって楽しいわね。いっつも一人で食べてるから、この頃ぜんぜん食欲ないの」
 和江はいくらか芝居がかった表情で背中を丸めてみせるが、別段痩せたようには見えない。和江は昔からこんなふうに、相手に罪悪感を抱かせるのが得意なのだ。
 玄関のチャイムが鳴った。スピーディな摺り足が廊下に響く。
「こんばんは~。兄さん来てるの~?」
 弓子が片手にパンの入った袋を提げてやってきた。日によっては売れ残ってしまう自家製パンを、様子見がてら母親の元に届けにくるのだ。弓子の家からは、車を使えば数分の距離だ。時にはトイレットペーパーやらペットボトルの水やら、かさばるものや重たいものを頼まれて運ぶ役目もこなしている。
 「あ、お鮨とったの。えっ、特上?」
 部屋に入るなり弓子は目ざとく、耕平の食べかけの鮨桶の中身をチェックしたようだ。
「ふ~ん、お母さんったら、兄さんには特上鮨なんか頼んじゃうんだ」
「まあまあそう言わずに、弓子もつまめよ、ほら」
 子供のようにふくれる妹の前に、耕平はウニ軍艦をつまんで差し出した。遠慮するかと思えば、弓子は素早くウニ軍艦を奪って一口に頬張った。

 弓子は23歳の年、高校時代のクラスメイト安藤弘幸と結婚した。結婚後すぐに弘幸の実家に入り、今日までずっと、家業であるパン屋を手伝っている。
 家族経営の昔ながらのパン屋「あんどうパン」が作るパンは、正直特別美味いとは思わないが不味いというわけでもなく、安価で種類も多いうえ近所に競合店もないことから、地元で永く愛されてきた。
 頑固で無口な義父、口は悪いが気のいい義母、真面目で優しく気弱な夫、というのが、安藤家の家族に対する弓子の大雑把な評価だ。裕福とはいえないが生活に困るようなことはなく、義理の親とも上手くやっていて、傍からはそこそこ幸せな暮らしをしているように見えた。しかし唯一、弓子が他人から触れてほしくない話題がある。一人息子の健斗のことだ。
 健斗は、耕平の長男涼太より一学年下だ。学生時代から続けているバンドでギターヴォーカルを担当しているらしかった。「健斗のバンドの自主制作音源なの」と、かつて弓子からCDを手渡されたこともあったが、ここ数年、健斗のその後を知らされることはなかった。「いつの日かメジャーデビュー」の夢を捨てきれないままなのか、すでに30歳近くになった健斗について、弓子は何も語ろうとしない。
 「健斗は地方でライブの予定が入っちゃってて」という弓子の苦い言い訳は、涼太の結婚式の時も、哲男の葬式の時にも使われた。健斗は実家を出て一人暮らしをしているらしいが、何がどうなっているのか、よほど息子を人目に晒したくないのだなと、耕平は妹を不憫に思っていた。


3

 日曜の朝、耕平は実家の和室に敷いた布団の中で目を覚ました。古い木造家屋のにおいに混じって、焼き魚の焦げたにおいがした。
 「お兄ちゃん、おはよう」
 朝食の支度をする手を止めて、和江が満面の笑みを浮かべている。今日も元気そうだ。背骨がスッと伸びている。
 炊きたての白飯、味噌汁、焼き鮭。そして納豆、キュウリの糠漬け。完璧な朝食だ。
「あ、お兄ちゃん、卵焼きも食べる? つくろうか」
「いや、いらない。これだけあったら充分だよ」
 耕平はそう言って、ほうれん草と油揚げの味噌汁を啜る。糠漬けを咀嚼しながら、シンク上部の天井あたりを見遣る。煙草のヤニ汚れでクロスが茶ばんでいる。そういえば父親の哲男は生前、食卓のこの位置、この椅子に座ってよく煙草を吸っていたなと、耕平は久しぶりに昔を想い出した。
 しみじみと眺め回せば、この家もずいぶんと老朽化しつつある。哲男が定年退職した頃に確か一度手入れをしたと耕平は記憶しているが、思えばそれもずいぶん昔のことである。家族と同じように、この家も歳をとったのだ。

 昼には和江を連れて、近くの国道沿いの和風ファミレスで食事をすることになった。昔ながらに日曜休業の弓子と、店内で落ち合うことになっている。約束の時間を少し過ぎた頃、いつも通りせかせかした足取りで弓子が入店してきた。一歩遅れて、ヒョロリとした男がついてくる。
 「んっ、健斗か?」「あら、健ちゃん!」耕平と和江の声が重なった。「ごめん、遅くなって~」
 弓子が心なしか頬を上気させて言う。声がデカい。
「出がけにさ、突然健斗が帰ってきてアレコレ言い出すもんだから、ちょっと一緒にお昼食べに行こって車で連れてきちゃった」
「やあ健斗君、久しぶり」
「ご無沙汰っす」
 健斗は照れ笑いを浮かべながら着席し、すぐに「ホリデーランチ」メニューを手に取った。数年前の健斗とは別人のような風貌だ。肩くらいの長さの髪をひっつめて、後ろでひとつに括っている。こけた頬に無精髭。輪郭が四角く骨ばって見えるのは、父親に似てきたのか。
 「健ちゃん、弘幸さんにそっくりになってきたわね」
 和江がそう言うと、
「でしょ? 私も一瞬ギョッとしちゃった」
 はしゃいだ様子で弓子が笑う。久々に息子と逢えて、嬉しくてたまらないようだ。
 「で、健斗君最近どうなの」
 答えに幅をもたせて耕平が訊いた。仕事は? 音楽は? と詰問してはいけない。
「まあ、ボチボチっすね」
 相応の意味のない答えだ。
 「今ね、神楽坂のイタリアンの店で修業中なの。そうよね、健斗?」
 弓子が健斗の顔色を窺うように言う。
「いや、それは去年までね。今は高級食パンの店だよ」
「あらそうなの、知らなかった。何それ高級食パンって。今流行りの?」「なに、パン屋でそんな髭許されるの?」
 弓子と和江が立て続けに訊いた。
「そうそう、今流行りのやつ。あ、で、そのパン屋は一昨日辞めたんっすよ。でね、俺ちょっと提案があってさ、今日はその相談で寄ってみたわけ」
 一気に場の空気が濁る中で健斗は平然と、真っ先に提供された白身魚の甘酢あんかけを頬張った。
 健斗のバンドメンバーはそれぞれに就職し、結婚し、子供が生まれたりして、バンドは自然消滅となった。皆いつしか夢と現実に折り合いをつけて、収まるべき場所に収まったようだ。
「それはそれでアリでしょう。でも俺はまだ人生諦めたくないっていうか、それならバンド以外のことで、もうちょい足掻いてみてもいいんじゃないかって思ってるんっすよ」  
 したり顔でそう語る健斗を、耕平は乾いた眼で眺めた。

 健斗はある日ひらめいた。自分が実家に戻ってパン屋を継ごうと。今までの古臭いパン屋を全面リニューアルして、新しくお洒落な店に生まれ変わらせる。
「時代は今、高級食パンなんっすよ。特に今俺がやりたいのは、素材にとことんこだわってね、焼くんじゃなくって蒸す製法の、フワッフワのパンね。間違いなく美味いし。俺、そういう店でバイトしてたから」
「それ、私テレビで見たことある。スチーム生食パン、とかいうやつ」
「さすがパン屋! そう、噂の『スチパン』ってやつよ」
 健斗はそう言って弓子の肩をポンと叩く。
 「あのねぇ、そのために必要な業務用機器って、ものすごく高いのよ。っていうかそれ以前にそんな勝手なこと、おじいちゃん達が許すわけないでしょ」
 弓子の眉間の皺がとことん深くなる。
「だけど母さん、何にでも転機ってものがあるでしょう。いつまでも『あんどうパンのあんどうなつ』とか古臭い看板掲げてても、そのうちお客は来なくなるよ?」

 「これが『あんどうパン』の一番人気『あんどうなつ』よ」と、いつだったか誇らしげに弓子から手渡されたことがある。弘幸が少年時代に思いついたダジャレから始まったというから、長い歴史のある商品なのだ。
 やや小ぶりのそのアンドーナツは、少しだけ古い揚げ油のにおいがした。昔ながらに粉砂糖がしっかりとまぶしてあって、触ると手がベタベタするが、素朴で懐かしい味だったと耕平は記憶している。
 「まずはもっとさ、洒落た店名にしないとね。俺、夕べ突然ひらめいちゃって。『ブーランジェリ・アン・ドゥ・トロワ』とかって、どうっすかね」
 健斗は眼をキラキラさせて耕平を窺った。
 くだらねぇ! と喉元まで出かかった耕平だが、白飯とともに強引にその言葉を呑み込んだ。父から息子へ、確かな遺伝子が流れている。眉間の皺をボンドで固めたような弓子は、視線を落としたまま黙々とかつ丼を咀嚼していた。


 翌日、耕平は実家から出勤した。突然の健斗の出没で、昨夜の安藤家には一波乱あったようだ。和江も少々動揺していたので、もうしばらく実家で寝泊まりしてやることにした。
 大宮の家に帰宅すれば、和江の手料理が待っている。子供の頃から舌に馴染んだおふくろの味だ。地味に美味い。
 帰宅時にはもちろん風呂だって沸いている。耕平の自宅では毎日、きれいな一番風呂は赤ん坊のために存在する。帰宅が遅れた晩の仕舞い湯などは、湯垢を掬いながら入らねばならない。しかし母親と自分しか使わない実家の湯舟は、どちらが先に入ろうとも、サラリと湯が澄んでいる。当然ながら気分が良い。
 風呂上がりに缶ビールを飲みながら、好きなテレビ番組を存分に観る。ザッピングも思いのままだ。自由だ。と耕平は思う。和江は奥の間で早くに寝てしまうから、午後十時以降、茶の間は耕平の気儘な天国と化す。快適である。これほどの気楽さは、結婚して以降初めてかもしれない。たった一人の空間で、耕平は気兼ねすることなく放屁した。


4

 翌火曜日、先週梅雨入りした関東地方は、夕方から本降りの雨となった。
和江はすでに床に就き、耕平は今日も自由な夜を満喫していた。雨音に混じって、庭先に車の止まる音が聞こえたような気がした。
 茶の間の引き戸が開いた音に振り返ると、ゾッとするほど暗い顔をした弓子が立っていた。よく見れば髪が少し濡れている。
「おぅ。どうした、こんな遅くに」
「雨がひどいから、健斗を大宮駅まで車で送っていったところ」
 弓子はいつも以上にやつれて見える。眼の下には濃いクマができていた。「もうやだ。家に帰りたくない、私。今夜ここに泊まろうかな」
「なに、パン屋の話でまたひと悶着あったのか?」
 耕平の安楽椅子の傍の床にペタリと座り込んだ弓子は、話すのも面倒だと言わんばかりに大きく吐息を漏らした。
「兄さんはいいわよねぇ……」
 また始まったかと、耕平は心の中で溜息をつく。昔から弓子は何かにつけ他人を羨む癖がある。
 あの晩、久しぶりに現れた健斗に「俺のヴィジョン」とやらを聞かされた家族は、一同唖然としたのだという。やがて義父は怒り出し、「あんどうパンを侮辱するな!」と握り拳を震わせた。
 家族の誰もが遠くない未来に、あんどうパンの終焉を予感してはいる。老いた両親はやがて退いて、その後は弘幸と弓子の夫婦二人で細々と、体力気力の続くところまでパン屋を営むしかない。生きていくためにパンをつくり、パンを売るしかないのだ。今の安藤家にその先の光は見えない。
 そして気まぐれに健斗が打ち出す無計画なヴィジョンは、安藤家の未来を照らすはずもなかった。「金もスキルも根気もないくせに」と、口には出さずとも、おそらく皆が同じような思いで健斗を見つめたことだろう。 
 「兄さんだって、馬鹿だなと思ってるんでしょ、健斗のこと」
「いやいや、別に馬鹿だなんて思っちゃいないよ。まあ、歳のわりにピュアだなとは思ったけどさ」
「何よ、ピュアって。感じ悪い……」
 弓子がふてくされると、やがて決まって涼太の話題に移る。一流大学を出て一流企業に勤め結婚もして、すべて何もかもが順風満帆だと。そんな息子を持った兄さん達は幸せだと。しかし今夜はそれだけでは済まなかった。
 「店を休んで改装したり、新しい機械入れたり、安藤の家にはそこまでの余裕なんかないのよ。自営業は退職金だってないんだもん。お義父さんは不整脈だしお義母さんは糖尿だし、この先どうなるか分かったもんじゃない。お義姉さんちの親みたいに金持ちだったら、どこでも好きな施設に入れるんでしょうけど、うちなんかどうなるの? 私なんて三十年も毎日毎日、パンこねてパン焼いて。卵茹でてカレーつくって焼きそば焼いてさ。それでこの先旦那の親のオムツまで、私が替えなきゃならないわけ?」
 食中毒で嘔吐するかのように、その後も弓子は腹にたまった毒を吐き出し続けた。弓子の闇は深い。そして想像以上に自分達一家に対する嫉妬が根深いのだと、耕平は悟って身震いした。
 「いや、うちはたまたまおめでた続きだったように見えるけどさ。今までそれなりに、散々いろんなことがあったよ。涼太は確かに要領良いんだ。最近は奥さんの実家の方にべったりで、うちになんか寄り付きゃしない。真由子だって、傍から見りゃあ結婚して子供産んで結構なことだけど、高校の終わりからず~っと家に引きこもってたんだからさ。潤子なんかそれこそノイローゼみたいになっちゃって、真由子を病院連れてって検査受けさせたり、怪しげな親の会とかに参加したり、ずいぶん必死になってたよ」
「え、お義姉さんそんなふうだったの。全然知らなかった」
 珍しく耕平の口は滑らかになった。この際少しばかり大袈裟に話を盛って、弓子を宥めることにした。
 「ここ何年間かはかなり体調悪そうだったしなぁ。ストレスで発作みたいの起こして、救急搬送されたことだってあるし」
「え、お義姉さんが? やだ、そんなに?」
「うん。それでやっと体調が落ち着いてきたかなと思ったら、真由子がいきなり子供できたって。婿さんの方はバイトしながら夢追いかけてて、まだまだ生活力ないから我が家に同居ってわけよ。若夫婦と赤ん坊に一階占領されてるから、俺なんかもう、ゆっくりテレビ観たり寝転んだりする場所もなくなっちゃってさ」
 どの家庭にだって、それぞれに苦悩はある。妹よ、苦しいのはおまえだけじゃない。耕平は心で呟きながら、弓子の顔を見た。
「あら、じゃあ丁度いいじゃない。兄さんもここに来るとゆっくりくつろげるってわけね。なぁんだ、よかった、そうなんだ。お母さんの生き甲斐もできて、兄さんも一息つけて、需要と供給のバランスばっちりじゃない!」
 意外な話の展開に、耕平は返す言葉を失った。
 「兄さん、いっそこっちに引っ越してきちゃえば? 越さないまでも、単身赴任のつもりで大宮に住んで、時々練馬に帰るっていうスタイルがいいんじゃない? たまに帰れば夫婦円満。家族も優遇してくれるかもよ。あ、でも週末は悪いけどこっちに居てお母さんの相手してやってね」
 ついさっきまで嗚咽せんばかりに感情を吐き出していた弓子が、ケロリと調子の良い提案を始めることに、耕平は面喰った。かつて潤子からも確か似たような提案をされたのではなかったか。

 その晩存分に毒を吐いた弓子は、いくらかスッキリとした顔つきで帰っていった。耕平はぼんやりとした頭でビールの空き缶をすすぎ、つまみを盛った小皿と箸を洗って水切りカゴに伏せた。
 人生は不平等だ。アタリもあればハズレもある。確かに自分じゃ選べないものもあるけれど、それでも自分で選んで進んだ道だってあったはずじゃないか。いつかはきっと、なるようになるさ。妹よ、心配するな。人と比べるな。羨むな。足りないものを数え続けるな。
 本当はそんなふうに言ってみたかったんだろうなと今、耕平は想う。うすぼんやりと巡る思いを、その場で的確に言語化するスキルを、残念ながら耕平は持ち合わせていなかった。


5

 「お兄ちゃんはいつまでこっちに居るの」
 数日後、和江が顔色を窺うような眼つきで出勤前の耕平を見上げた。
「母さんはどうなの。俺が居たほうがいいなら、まだしばらくこっちに居てもいいけど」
 和江は微妙に引き攣った笑みを浮かべる。
 「あのね、もうじき町会のお友達の片山さんと斎藤さんと三人で、鬼怒川温泉行くことになってるのよ」
「へぇ、いいね」
「そう。だからお兄ちゃん、もう練馬に帰っていいわよ」
「あ、え、そうなの。母さん一人で大丈夫?」
「何言ってるの、大丈夫に決まってるでしょうが」
 和江は皺の奥の眼を見開いてみせる。
「わかった。じゃあ今夜は練馬の方に帰るよ。俺の荷物はそのまま置いておいてくれる? またそのうち寄るから」
 そう言いながら玄関に向かう耕平を、和江はホッとしたような表情で見送った。
 朝から何やら拍子抜けした。母親に求められている、喜ばれている、というのは、俺の勘違いであったのか。耕平は自分が、「もういらない」と飽きられて放り出されたオモチャになったような気分だった。

 その晩耕平は、会社から腹を空かせたまま練馬の自宅に向かった。どこかのタイミングで連絡を入れようと思いながら地下道を歩き、丁度良くホームに到着した大江戸線に滑り込んで、そのまま練馬に着いてしまった。まあいいか。突然帰宅して驚かせるのも悪くない。陽介は大きくなっただろうか。赤ん坊はほんの少し見ない間にも成長するものだ。
 玄関の鍵を開け、LDKに続く廊下を進むと、ドアの向こうから潤子たちの笑い声が聞こえてきた。優也も居るようだ。
 「ただいま~」と何気ないふうを装って耕平がドアを開けると、「キャアー!」と真由子が叫び声を上げた。いつも大袈裟なヤツだ。
「もうっ、お父さん、ビックリさせないでよ!」
 真由子の大声に驚いた陽介が、火がついたように潤子の腕の中で泣き出した。
「どうしたの、急に? 帰ってくるなら連絡くれたら良かったのに」
 潤子が立ちあがって陽介を揺らしながら、なじるような眼つきで耕平を見る。「もしかして夕飯まだなの」
「今日はね、小泉君の特製餃子だったんだよ」
「あ、すみません。どうしよう、餃子沢山つくったんですけど、全部食べ切っちゃって。お義父さん、良ければ僕、今から何かつくりますけど……」「あ、いいわよいいわよ優也君。そこまでしてくれなくても」
 陽介の泣き声に混じって三人の会話が姦しい。
 「いや、ラーメン喰いに行くからいいよ」
 耕平は面倒になってそう言った。
「え~、今からラーメン? 身体に悪いわよ」
「お義父さん、あり合わせのものでよかったら、僕すぐつくりますよ」
「いいってば、小泉君。連絡してこないお父さんが悪いんだから」
 真由子の言葉にカチンときた。空腹のせいもある。
「うるせぇな。自分の家に黙って帰ってきちゃいけないのかよ」
 声を荒げたわけではないが半ば吐き捨てるようにそう言って、耕平は玄関に向かった。「すみません」という優也の声と、「感じ悪っ!」という真由子の声が背中に聞こえた。
 まったく、どいつもこいつも……。
 耕平はざらついた気持ちで、たまに足を運ぶ家系ラーメン店の暖簾をくぐった。
 カウンターに供されたラーメンに、注文していないはずの味玉がのっている。
「まいど。味玉はサービスね」
 妙に慈愛に満ちた眼つきの店主が、口角を上げて耕平を見る。麺を啜りながら耕平の涙腺が緩みかけたのは、きっと熱いスープの湯気のせいだ。たかが味玉ひとつで、アラ還の男が泣くわけにはいかない。

 ラーメン屋の帰り道、耕平の携帯に弓子から着信があった。
「兄さん、練馬に帰ったんでしょ」
「おぅ。もう帰っていいって、今朝言われたからさ」
「お母さん、疲れちゃったらしいわよ、兄さんの世話に」
 弓子はそう言って鼻息で笑った。
「なんだよ、それ」
「そりゃ兄さんがいたら、家事の負担が全部倍かそれ以上になるんだもん、疲れるわよ。兄さんはどうせ殿様気分で全部お母さん任せだったんでしょうし」
 ムッとしたが、言い返すのも面倒だ。暗い夜道で長くしゃべるのも気が引けた。
 「ま、お母さんのいつもパターンでしょ。自分で勝手に世話焼きすぎておいて、後で疲れたって恩着せるんだから。昔からそういう人よ」
 弓子は斬り捨てるようにアッサリと言った。
 「それよりね、うちのお義父さんが倒れて大変なことになったのよ」
 かつてより不整脈の持病があった弓子の義父は先日、突然気を失って転倒し、救急搬送されたという。幸いにも心室細動の一歩手前で大事に至らず済んだが、倒れた際に上腕骨近位端骨折となり、手術となったのだそうだ。      
 「お義父さんしばらく入院だし、退院してももう、仕事は無理かもしれない。でね、急遽健斗がうちに戻って手伝うことになった。俺が一からみっちり仕込んでやるぞって、旦那も結構張りきってるの」
 弓子の声は弾んでいた。きっと誰かに言いたくてたまらなかったんだろう。
「そうか。まあ、よかったのかもな」
「うん。あの子、昔から結構手先も器用だし、だってほら、元々ギタリストだから。覚えも早いと思うのよね。基本からしっかり教えたら、案外すぐに立派なパン職人になりそうな気がしてる」
 親バカほど貴いものはない。
「そうか。じゃあこの間言ってた、『ランジェリー・アン・ドゥ・トロワ』だっけ。それもいつか夢じゃなくなるかもな」
「ランジェリーじゃないわよ」
「あ、ブラジャーだっけ」
「もう、兄さんったらまた馬鹿にしてる。『ブーランジェリ・アン・ドゥ・トロワ』よ。でもそのネーミング、実は私結構気に入ってるんだ」
 スマートフォン越しに、弓子の乾いた笑い声が響いた。安藤家にも、一筋の希望の光が見えてきたようだった。なんだかホッとして、耕平も久しぶりに少しだけ声を出して笑った。



                        ……第4章につづく……


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