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【短編】メタモルフォーゼ  〜 晩学作曲家のモノローグ 〜 第5話(最終話)

そして最近であるが、芸術家にとって一番嬉しいお知らせをいただいたことをお伝えしておきたい。

スポンサー主催の現代音楽祭に継続して作品発表をさせていただいたことが契機となったのか、顕彰事業に私の《琵琶、篠笛、尺八、声のための室内楽詩「リヴァイアサン」が芸術祭賞で表彰されることになった。

音楽活動をしているものにとって、これほど嬉しいことはないし、これからの作曲活動にいい意味での影響を及ぼすことは間違いなく、躍動のバネになり得るものである。

またこのタイミングで出版社から「ピアノソナタ」の出版が決定した。

こちらも原動力の支えになっていくことであろう。

この頃は関係の方々に声を掛けていただくようにもなり、作品発表の機会が格段に増えたことはありがたいことなのだが、人生が少しばかり好転するようになったからと言って、気を緩めている訳にはいかない。

進める道が前にある限り、前進しておく必要があるのだ。

とは言え、無理をしたばかりに病に臥せって、活動が滞ることになるのは良くない。

丈夫な身体づくりを心得なければならないが、にわかに走り込みを始めては、身体に無理がたたってしまう軟弱ぶりであるし、せいぜいウォーキングで体調を維持する程度で気持ちがリフレッシュできるのなら続けていきたいと思っている。

散歩という行動はクリエイターにとって有益なもので、発想は作曲中よりも違うことをしている時に、ことに散歩中に突然降ったように湧くものなのである。

そんな散歩で湧いてくる芸術的アイデアは歩いている途中でも、紙の五線紙にすぐさまスケッチしておくのが肝要である。

後で思い起こそうとしても、それは不思議と思い出すことは難しいものだ。

そういう経験はどなたでもきっとあるに違いない。

そこで得たインスピレーションは大概有用なもので、気に入った作品となることが多い。

天から降って湧いた音は貴重と心得るべきである。作

曲家はとにかくどんどん曲を書かなければならない。

二、三曲書けたからと言って、その場で安心している時間はなく、百曲、二百曲……、いや、五百曲くらい書いて、ようやく世に残りそうな作品が生まれるのではないかと言うほどである。

実際書くことによって、作品の良し悪しが分かってくるものであるし、書いて作品も己の魂も成熟に向かうものと確信したい。

音楽職人の域に達している訳ではなく、助言などできる立場でもなくおこがましいのだが、継続した活動が結果を産み出すことは間違いない。

作曲の各論にまで踏み込むことまではしないけども、近年のクラシック作曲家の作風として、調性音楽に回帰して書く者と無調音楽を貫く者がいる。

現代音楽業界は1950年代あたりからシェーンベルクの十二音技法を契機に様相を変え、J・ケージやシュトックハウゼンその他の実に多くの作曲家に代表されるように、無調音楽が台頭する時代を迎え、日本も決して例外なく多くの前衛的な作品が誕生している。

そして、1980年代あたりからは再び調性音楽が見直され、前者と混在した状態になっている。

問題視しているわけではなく、この先、音楽界がどういう時代に突入するかもわからない未知の世界で、自分の作風を確立させた活動を発信していきたいだけなのである。

業界の底辺で今もコツコツと好きな仕事を続けられることは幸せである。

継続した活動の個々の経験は作風なり、仕事の手法なりの血や肉となって、自己成長を促してくれるだろうし、音楽的思考性が磨かれていくことを実感している。

書き続けることができて、浮きも沈みもしない人生が普通に送れること。欲もかかずに幸せを考えて過ごし、心地よく作曲することが望みなのである。

幸運を引き寄せたいと思うのは誰でも同じで、普通に自己肯定感を高める感覚を持つ生き方をしていくのがよい。

会社に奉仕して、自分の時間を大切にできなかった時代から見れば、ストレスフリーで仕事ができるようになったのは確かで、その代わりに責任ある行動が求められてくるのは事実であるが、自由な時間で仕事ができるのが何と言ってもいい。

それほどスケジュールが詰まっているわけでもないから、大抵、演奏者や出版社との打合せなどはすぐに応じることができている。


 作曲以外の仕事を依頼されることもある。他者の演奏会におけるプロデュースの依頼も来て、当然、当日の舞台進行と転換の総括管理を任されることもあるので、演奏会経験が物を言う。

音響機器、照明関係は本番前のリハーサルでホールの舞台担当と打合せをしておくことだ。

舞台転換はピアノ移動や椅子、譜面台の配置などの実務を兼ねることになり、床へあらかじめ配置単位のテーピングをして、幕間で次の配置作業を行うのである。

依頼されれば謝礼が出ることもあるし、仲間から応援として頼まれることもある。いずれにしても、収入を当てにしない場合であっても、友好関係を築く目的があればボランティアであっても引き受けておいたほうが得策だと考えられるのである。

そうしておけば、後々こちらの応援が必要な時には助けてもらえる可能性もあるというものだ。


 あとは曲を書くときには、色々と他の作曲家の作品スコアを研究したりすることがある。

オーケストラ楽曲、室内楽曲に関心があれば、他の作曲家の記譜はとても勉強になる。

時間がある時には楽譜販売店で関心のある曲などを覗いてみるのもよいし、収集できればなお好ましい。

作曲家の記譜スタイルは画一的でなく、なかには独自の技術を駆使して浄書する人もいておもしろいものだ。

現代音楽は音符の他に特殊な用語を使ったり、図形や記号を幅広く多用した表記が多い。

自己の表記が確立できていない時は、適宜雰囲気が醸し出せる図形を色々と使って曲に表情を与えていったりした。

そして、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を重ねて、一定の自分の表記法をひねり出して築き上げていく。

それは潜在意識に擦り込んでいる状態ならば、書いていて自然に一貫した書法で綴れることが理想である。

発想の豊かさを養う鍛錬を積むのは作曲家に限らず芸術、芸能に身を置く者すべての務めで、その発想を少しでも譜面に書き留めておくのは大切で、書いた数とともにその技芸は磨かれることになるので、時間を費やしてしまったからと言って、損はないと思っている。


 ここからは願望としてあることを述べるのだが、これから作曲の着想を得たり、譜面書きの作業に明け暮れて終わってしまうだけではなく、音楽関係の学問も大学以来であるが、あらためて触れておきたい想いがある。

音楽の知識も作曲学だけでは幅広い音楽フィールドに適応するのは難しい感があるのは否めない。

音楽社会学、音楽心理学、音楽分析学、音楽史学、近代芸術論等を含めた更に深い未知のエリアに踏み込み、作曲のテーマに結びつけられれば、音楽観は一層広がっていくはずである。

音を紡ぐことは人間と音楽の密接な関わりの理解のともに、心地良い状態、すなわち感動の呼び起こしにつなげる仕事である。

創作思想を進めるにあたり、適切な素材を認知して音の組織化に向けた作業は、要するにフリーで働く者には頻繁に言われることであるけども、頭が働かなくなり、そして身体が動かなくなれば、したくともできないのである。

いかなる音楽の作曲家であっても、それまで考え抜いた数多のアイデアを具現化し、多くの人類の心に潤いを与え、音楽媒体を通じて、活力や勇気を与えることができるものなのではないだろうか。

音楽は知覚の認識において、情緒を豊かにしてくれる幽玄なる美学なのである。

[第5話・最終話 了 ]

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