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アイスロード

10年ほど前にカナダにオーロラを見に行った時、そろそろ閉鎖される時期前のアイスロードに行きました。この映画を観て、その時の感覚が蘇りました。「アイスロード」、とてもドキドキハラハラの王道アクション映画で楽しかったので、ふと思い出して、三年前に書いたアイスロードをテーマにした小説を載せておきます。

​「アイスロード」              栗山 心

 ごみは道を探していた。
 雲が垂れ込めた暗灰色の空。針葉樹の森。山々の連なり。人の気配は無いが、彼方を大型トラックが疾走して行く。
 一歩踏み出す。濃紺に近い氷の上、スケートリンクに立つ時の危うい感覚を靴底に感じながら、氷はびくともせず、重さを受け止める。更に一歩。こごみは氷の上の道を一直線に歩く。どこまでも歩く。いつもそこで夢から覚める。ここはどこなのか。

 幼い頃によく見た高い場所から落ちる夢も、思春期の頃よく見たこの世のものとは思えない何かに取りつかれ、体が動かなくなる夢も、気が付くと久しく見なくなったが、氷に一歩を踏み出す夢は、物心ついた頃から、三十を過ぎても相変わらず見ている。現実の記憶にない、そこはどこなのか。

 幼稚園の頃に「地図」を知った。小学校受験を目論む母親が買い与えた幼児向けの字の無い地図絵本で、富士山が関東地方の大部分を占めるように描かれたそれを、まだ言葉で夢の場所を説明するには語彙が不足していたこごみは毎日眺めた。あの場所はどこにあるのだろう。
 ―こごみちゃんは天才だわあ
 気を良くした母親は、風呂場に貼って覚えることが出来る日本地図や、厚紙で出来たパズルをせっせと買い与え、そのおかげかどうか幼稚園受験には成功したが、こごみ人生初の地図ブームは見る間に去って行った。

 「山」の地図記号というのはない。等高線が極端に集中しているところが山。あるいは、最頂部には標高と山の名前が書かれているのでそこが山頂で、山頂にある測量のための三角点があるところが「山」だという。
 「三角点」には「三角石」というものによっては九十キロ以上の大きな石が埋まっていて、昔は人がそれを背負って山に登った。
 確実に山は存在するのに、山を定義するためには、恐らく怪我人や死人までもが出た。この残酷な事実を知ったのは、未だに「こごみと言えば地図」と、こごみの地図好きを信じて疑わない母親の意向でまとめた、小学校の夏休みの自由研究だった。
 
 思春期のこごみは、相変わらず氷の道の夢を見ていた。地図は嫌いでは無かったけれど、その才能はもっぱら、お洒落なカフェや流行りの洋服屋に行くために雑誌に載っているイラストマップを見て、友達の案内をすることに使われた。まだ地図アプリも無い時代だったので、どんな地図でも読めて、一度来た道は決して忘れない才能はみんなに重宝がられ、そこそこ友達の多い、東京の私立学校に通う、華やかな女子学生らしい日々を送った。
 
 高校の卒業旅行は、五泊七日十四万八千円のパリツアーだった。幼稚園から大学までの一貫校の高校の仲良しグルーブでどやどやとパリに乗りこんだ。空港からいきなり先頭に立って歩き出したこごみを見て、他のツアー客達は、添乗員と間違えるか、相当なリピーター、もしくはパリ生まれの日本人なのではと勘違いした。こごみがツアーコンダクターを目指したのは、この時からだ。
 
 ―すべての道が地図に載っているわけではない
 薄々感じていたことを実感したのは、二十歳の頃だった。初めてできた恋人のなずなに会うために、実家暮らしのこごみは毎日のように浮橋を渡って部屋を訪れた。浮橋は、歩道と歩道を繋げるために、大きな橋の下にクロスして架かっていて、水位が上がると橋も上がる。頭をぶつけないよう通行に注意してください、と注意書きの看板があり、実際百八十五センチのなずなは、ここ通るのはちょっと怖いなというほど、恐らく普段でも橋桁までは二百センチ程度の高さだった。
 ―浮橋を渡って恋人に会うなんて、なんだか平安時代の人みたい。
 夢見がちな二十歳らしく、浮橋を地図で見た。大きな橋の下に隠れて描かれていない。存在しているのに、地図にはない。山の地図記号が無い時以来の驚きだった。

 父は建築家で、母は洋裁店を経営していた。設計図は家になり、型紙は服になった。こごみの中では、紙に書かれたものは絶対実現すると思っていたので、地図にない場所が存在することは理解を越えていた。橋の下の橋。地下に潜った道。あるいは、暗渠。地下に埋没している水路である暗渠には特に惹かれた。郊外の何の変哲もない住宅地を歩いていて、突然足許から水が流れる音がしたり、壁から排水管が飛び出ていて、コンクリートの地面の下に何かが流れ込んでいたり、不自然なカーブ、でこぼことしたブロック状の道、地名に「橋」と付いているのに橋の無い場所。
 なずなの胸に耳を寄せて横たわっていると、聞こえる心臓の鼓動。それはまるで暗渠を流れる川だった。存在しているのに見えない場所を持つなずなを愛おしく思うのだった。
 
 ツアーコンダクターはこごみには天職だった。旅行会社に就職を決めたのは地図を見るのが好きで、初めて行く場所でも間違えずに歩くことが出来たからだが、地図を全く理解しなかったり、方向音痴の客があまりにも多いことには閉口した。地図を見て旅行のルートを考えるのは誰よりも上手く、ヒット企画を連発し、世界中を飛び回ったが、夢に出てくる氷の道は未だ見つかっていない。

 就職して十年。こごみ三十二歳。氷の道の夢は未だ見ている。
 平面的な紙の地図は、ネット上で見たい場所をどこでも写真で見られるグーグルマップや、バーチャル地球儀と言われるグーグルアースに代わった。こごみのグーグルアースの履歴には、山形県南陽市、Nepal achham mangalsen、神奈川県横浜市保土ヶ谷区鎌谷町まで、グーグルアース導入後の歴代の恋人の出身地が残っている。
 
 こごみは氷の道の夢を見続ける。その道が「アイスロード」と呼ばれ、北極に近い場所で冬季の三か月間だけ開通する道であるために、地図上に無い道であることを今はまだ知らない。こごみは道を探している。(了)
 
 



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