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『赤鉛筆は消せない』③

日本語が読みづらい点を多少修正しましたが30年6月の文章と大体同じ意味です。

私はおかしいかな?認知行動療法は1回で成功しないと、既往の症状が悪化するように思う。でも治る人もいるかもしれないから誰もそんなこと言えないし言わない。ペンの書き心地、パジャマの着心地、髪ゴムのきつさ。お湯のいきおい、温度、写真の出来映、お料理の味、安全性、上品さ。衣服や寝具の清潔さ、スマホの画面や電気の色味、明るさ、ブルーライトカット。←眼鏡も。スマホの画面上の動き方、シンプルさ。お部屋が上品、おしゃれ、機能性もありつまり片付いて掃除もしている状態、さわり心地、文章は簡けつで適切な言い回し、漢字やかな使い、こういった小さなこだわりと、それを達成するには及ばない自分の特性との板ばさみで苦しい思いをしてきたと思う。

上記のようなことでそこまで思いつめることがないタイプの人(平たく言えば健常に生きてきてそのことをコンプレックスとすら感じている方)は、「私(たち)だってあなたの知り得ない苦しみを日々やりすごしたり向き合ったりで生きている」と言う。「思いやりを持った方がいい」と。では「健常も発達凸凹もしんどいのは同じ」と言う命題(“文章”と置き換えても可)が正しいとすれば、両者に貴賎も優越も存在しないと言われていると思う。しかし私がそちら(健常)やお仲間(発達)に「思いやりを持った方が良い(持たないと配偶者や恋人はおろか友人もできないし、今いる知人・友人もやがて離れていく) 」(等と言ったことがあるだろうか。ない。と言ったとしたら皆どういう反応か?「なぜ上から目線?」となるだろう前提に私の方が下であり庇護対象であるという心理がある。そういった心理がある人に「なぜそんなにプライドが高いのか?」という当人のプライドが低いとは到底思えない。これは私自身も含めて。またそれは人間の尊厳と表裏一体なのである。

このように論破するのは超簡単だが論破能力は生産性が低いつまりお金にならず全く建設的ではないし非合理的だし簡単に言うと嫌われてしまうだけであるものが少ない。私ごとではありますが今「月のものの不調の最中泣いているときに「そうか、そのせいだ」と気付けた話を書こうとしていたはずなのになぜADHD は話がそれるのだろう。

それではまた。


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