「ながらスマホ」から考える【論理と倫理】
「ながらスマホ」をネタにしてから半年ほどが経った。
最近またスマホをしながら自転車を運転する人が増えた気がする。
「気がする」だけであり、増減はしていないのだろう。
が、やはりその自転車の側を通る時は覚悟をする。
それと同時にこんなことも思う。
「一旦事故ればいいのに」
なんというか、人としての黒い部分が僕にもあるんだなと思った。
僕と全く関係ないところで事故って痛い目を見れば、しなくなるのではないかなと。
ただ、事故の当事者にとっては最悪である。
車と自転車の事故の場合、自転車が「ながらスマホ」であっても車の方が過失割合が大きくなる。
ましてや自転車側にケガをさせてしまったとしたら・・・
やっぱり「ながらスマホ」はやめようね。
そんな当たり前のことを言って終わるなんて僕らしくない。
スマホを見ながら運転している自転車が事故ってケガをした場合、助けるべきかどうか?
もちろん当事者ならば、救護義務があるので助けなければならない。
当事者じゃなくて周りの人だった場合。
しかも「事故ればいいのに」と思った後。
助ける?助けない?
これはもはや「心持ち」の話になる。
まず「倫理的」に考えれば助けるのが道義である。
事故が目の前で起きたら、自身の安全を確保しつつ、ケガ人の助けになること。
これが「人としてあるべき姿」と、されている。
が、「論理的」に考えると、スマホを見ながら自転車を運転する人と、「人が出てくるなんてまさかね」と高をくくって運転している車の事故である。
「自業自得」と考えるのが道理である。
僕はおそらく後者側の人間だろう。
スマホをイジる自転車とすれ違う→「痛い目見ろ」と思う→事故が起きる→そっちを見る→人が倒れている→素通りする
まぁ薄情である。
実際に事故を見たことは無いけれど、そういう「心持ち」が大事になる場面を幾度となくスルーしてきた人である。
多分事故があってもスルーするんだと思う。
もし「善意で動ける人になりたい」と思うなら、心持ちを変えるといい。
上の例で言うと、スマホを見ながら自転車を運転している「ルール違反者」なのだから「どうなっても自己責任」という心持ちである。
それを変える。
どんな人に対しても「気をつけて」「お幸せに」「今日も笑顔で」と人の幸せを願う心持ち。
まぁここまでハッピー思考になる必要はないけれど、「気をつけようね」みたいな少しの上から目線を持てば「倫理」で動ける人になれると思う。
アーティストがなぜステージに立てるのか。
それは壇上に立つからである。
物理的に上の立場になることで、精神的にも上になれる。
そんな現象に似た話。
壇上に立って緊張するのは、物理的に上でも精神が下にいるからである。
下の者は上の者を「助ける」ことはできない。
人の上に立つから「助ける」ことができるのである。
そう考えると僕は人を見下していない、わきまえた人なんだろうな!
そう思ってみるけれど、人から見れば”イヤなひと”。
「いいひと戦略」はどこ行った?
以上!くろだでした。
読んでくれてありがとうございました。
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ではまた👋
【いいひと戦略について】
【参照したサイト】
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