見出し画像

加賀山隼人正興良についてのメモ

 最近、「小倉期の細川家」が気になっています。特に、この時期に国家老であった加賀山隼人正興良について。彼は細川家中において非常に重要なポストについていました。同時に、家中で最も熱心なキリシタン武将であった。
 この2点を通して見る細川家の様子や当時の忠興公の心情について、いろいろと考えることもあり、近頃はすっかり彼について調べることが多くなりました。
 少し前に、熊本大学永青文庫研究センターの後藤先生より資料をお送りいただいたご縁もありまして、ますます加賀山隼人という人物に心惹かれる毎日です。古文書やら英語やらの基礎勉強もたまってるのに(笑)

 この記事では、最近自分で調べた加賀山隼人に関する自分のメモをまとめています。あくまでも素人の手による「メモ」であること、ご了承ください。

・漢字に対するふりがなについては<>で記載
・史料から抜き出した部分に関しては【】で記載
・文章を引用した部分はnoteの引用機能にて記載
・参考文献に関しては記事末にまとめて記載し、『』でタイトルを表記
・ホームページ上で発見した参考については、引用元ページへのリンクを設定

名前

加賀山隼人(正)*1 興良<かがやま はやと(のしょう) おきなが>*2
あるいは、加賀山隼人佐<かがやま はやとのすけ>

*1 「隼人(正)」は官職名であるが、この時代は官職名に沿った内容の職務に就いているわけではなく、肩書きのようなものである。
*2 はじめは「源八郎久良」と名乗り、細川家に仕えてからは忠興の諱字をもらって「興良」と名乗る。

 通称として「隼人」と表記されているものが多い印象を受けた。また永青文庫および松井文庫等に残されて確認できる文書についても「隼人」の表記がある。


生没

1565年(永禄8)生あるいは、1566年(永禄9)生 *3
1619年(元和5)10月15日没

*3 生まれ年に関しては二通り見ることができたため、ここでは両方を記す。


略歴

1565年(永禄8)あるいは1566年(永禄9) 高山右近領地である摂津高槻(現在の大阪府北部)に生まれる。
1576年 10歳の時にルイス・フロイスより洗礼を受け、ディエゴ(西語)(=ヤコブ、ジャコウベ)と名乗る。高山右近に仕え、キリシタン武将として成長、活躍。
1587年 高山右近が改易されると、蒲生氏郷*4 に仕え、会津の地で八年間ほど過ごす。
1595年 丹後宮津を治めていた細川忠興の家臣となる。*5
1600年 関ヶ原合戦に細川軍として参加。その後忠興について豊前・中津へ、知行二千石を得て、はじめ下毛郡(現在の大分県中津周辺)郡奉行として入る。それからまもなくして、国家老として藩政に参加、知行は一万石となっている。*6
1613年 幕府の禁教令が出たのち、忠興より棄教を言い渡されるがこれに拒否
1614年 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
1616年 家老職を解かれ、財産等を没収され、家族共々謹慎生活を言い渡される。*7
1619年 【小倉の市から千歩隔たった所定の刑場】にて斬首処刑される。*8

*4 高山右近の友人、千利休高弟。右近の勧めでキリシタンとなった。1590年(天正18)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封となる。
*5 1595年に蒲生氏郷は伏見の蒲生屋敷において病没している。
*6 当時の屋敷は小倉城下二の丸筆頭(現在の小倉北区役所)にあったとされる。
*7 家族、近しい一族共に捕らえられた。この時、親族であり同じくキリシタン武将であった小笠原玄也一家も捕らえられる。
*8 【彼は小舟に乗って領国の主都で殿の居城である小倉の市から千歩隔たった所定の刑場へ連行された】(1620年10月1日付(イエズス会)1619年度日本年報より)

 刑場の位置に関して、私はまだ地図を睨むだけで現地へ赴いておりませんが、すでに考察&現地歩きをされている方がおられたためリンクを記載させていただきます。:ディエゴ加賀山隼人の殉教地探訪
 また、聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)ホームページの「キリシタンゆかりの地をたずねて 小倉の殉教者 ディエゴ加賀山隼人」には、以下のようにありました。

小舟に乗せられ小倉城下から西に下った干上がり(日明 ひあがり)の丘と言われる墓地に連行されました。

キリシタンゆかりの地をたずねて 小倉の殉教者 ディエゴ加賀山隼人 より

先に挙げた宮本次人氏のブログ内でも、刑場の場所については

彼は「舟入」から舟に乗せられ(中略)「所定の刑場」と言うのは「平松浦」の刑場であったにちがいない。同藩の『行刑録』を見ても、処刑場は「平松浦」以外には記されていない。
 「豊後国小倉城絵図」(国立稿文書館蔵)でその場所を探すと、小倉城の北西方向に位置するようだ。すなわち西側外堀を形成する「溜池(ためいけ)」があり(攻略)

ディエゴ加賀山隼人の殉教地探訪 より

 このようにまとめておられる。ぜひ参考にして私も近いうちに訪れてみたいと思います。

 余談だが、加賀山隼人の処刑と同日、現在の大分県日出では彼の従兄弟にあたる加賀山半左衛門とその息子も斬首処刑されたそうです。
 こちらも片手間に調べてみましたが、カトリック大分司教区 Catholic Oita Diocese のホームページ「日出殉教公園(加賀山親子の殉教)」に詳しく載っていました。加賀山半左衛門は日出藩の家老職だったんですね。初代日出藩主は木下延俊で、彼は細川藤孝(忠興父)の娘、加賀を正室にしているため、忠興とは親戚にあたるというわけですね。
 特別調べたわけではないので、想像の域を出ませんが、双方でキリシタンたちの処遇に関して、また互いに家老クラスの家臣を処断するとあって、相談やすり合わせがあったかもしれませんね。


小倉藩における加賀山隼人の役割と立場

 我が国におけるキリシタン武将としてあまりにも有名な高山ジュスト(ユスト)右近ならびに蒲生レオン氏郷両名の薫陶を受け、その後細川家へやってきた隼人は時に三十歳、忠興より三歳年下でした。武将としての腕前があり、また小倉城落成の際に行われた祝いの歌会で詠むなど教養面でも優れていたようです。(「千尋より深きおもいの海はあれど もらししそむべき言の葉ぞなき」)さらには、有職故実について細川幽斎に尋ねる書状なども残されているとか。
 優れた文武の一方で、豊前にいたセスペデス神父の指導を得て、教会内と外の折衝役として信徒使徒職に励み、多くの信徒の模範となったそうです。セスペデス神父は忠興の妻、ガラシャ(玉子)の受洗を行った本人であり、またガラシャの為の追悼ミサ(教会葬と言うのか……〇回忌みたいなものかな?)を行った神父として記録に残っています。以降、1611年(慶長16)にセスペデス神父が亡くなるまで、忠興の命によりガラシャの追悼ミサを行ったといわれています。
 こうしたことからも、セスペデス神父は忠興からの信頼があったことが伺えます。忠興は少なくとも神父が存命の間は小倉の地でキリシタン達の活動を保護・黙認し、自らキリシタンとなることはなくとも説教を聞くなどの交流はあったようです。

小倉城1階にあるジオラマ人形。「ガラシャ夫人のミサ」とある。中央左にいる黒い服の人形がセスペデス神父?? 当時は何人も宣教師がいたらしいので、具体的には不明(笑)ちなみにどの人形も完成度が高くて、天井部分の年表に合わせて人形たちによる当時の様子を楽しむことができる。

 しかし、神父が亡くなり、また幕府による禁教令が発布されたことで忠興の立場は一転、領内からすべての宣教師とキリシタン信徒の解体を命じます。隼人に対しても当然これは行われ、領民ではなく国家老という立場にあった細川家の重臣がキリシタンであり続けることは、細川家として非常にやっかいな種となっていたと推測するのはあまりに容易です。
 国家老はそれまで、幽斎の時代から代々細川家に仕えてきた一族同然の人々で構成されていました。忠興自身も豊前へ転封へなった後、至城の管理や郡奉行などには自らの弟、息子、ならびに松井や有吉といった歴代の家老職クラスの者に任せています。その中でまだ新参に等しい加賀山隼人が下毛郡郡奉行を任され、忠興が中津から小倉へ移る時期と同じくして、国家老職へと昇進しています。領地へ配る種米の管理など財務的な部分を任されていたと史料からは読み取れます。

 関ケ原合戦における彼の働きと、旧友蒲生氏郷および高山右近から託された遺臣とも呼べる隼人を、忠興も厚く用いていたのではないか、と思えます。忠興は苛烈な逸話(エピソード)が多く残る人物ですが、同時に自らが懐へ入れた者への対応は丁寧かつ手厚い印象があり、後のこととなりますが隼人が処刑される前後、彼の娘達の処遇を良いものにしようと根回しをしていた様子もあるようです。

小倉カトリック教会ホームページ「小倉教会の殉教者”ディエゴ加賀山隼人”について~」によれば、以下のように隼人について述べています。

・殉教者としての生
1611年、忠興はキリシタン禁制の時勢に準じ、信頼の厚い隼人に対しても再三棄教を迫りました。しかし、信仰に不退転の隼人は、家老職を取り上げられ、数年間家族ともども軟禁生活を強いられても、保身や功名よりも神のみ心に従う日々を選びました。
1619年10月15日、そんな隼人に対し、忠興は死罪の宣告を下さいました。その日、隼人は殉教地となる干上がり(日明)に小舟で運ばれる間、自分を主に委ねるために静かに祈りと黙想に浸り、刑場の丘に着くとイエス・マリア御名を5回唱え斬首の刑に身を投じました。享年54歳でした。

小倉カトリック教会ホームページ 小倉教会の殉教者”ディエゴ加賀山隼人”について~

小倉カトリック教会は小倉北区香春口にある教会で、同地に「豊前国ディエゴ加賀山隼人殉教之地」という碑が建っています。
 ここもまだ行けてない場所なので、来年には必ず……!

 また、小倉期における細川氏のキリシタンへの対応について、大学教授や歴史愛好家らでつくる研究グループ「全国かくれキリシタン研究会」会長の安東邦昭さん(小倉南区)によれば、

細川忠興が治めていた頃の小倉藩には二つの教会があり、約6千人の人口に対して約2千人以上の信徒がいたとみられる。藩内にも信徒を発見するための「踏み絵」を踏んでいない人が多くいたのは分かっているが、庶民が処刑された正確な記録は無い(後略)

2019/02/18付 西日本新聞朝刊 武将加賀山隼人殉教400年 「郷土の偉人に光を」 より引用

とのことです。安東さんは細川氏の禁教政策は緩やかだったとみておられるようです。

 私もこれには同意見で、やはり忠興が小倉で正室ガラシャの年忌を行っていたことは大きいですし、それに付随して多くの宣教師や信徒たちが小倉にいたと考えられます。天正~慶長年間で数多のキリシタン大名たちが九州の地からいなくなったことを考えても、信徒たちは新たな領主である忠興がキリスト教に寛容であること、彼の土地に宣教師がとどまっていることは敏感に察知していたのではないでしょうか。それでなくとも、忠興が目指した新たな小倉の町造りは、物流と情報を一挙に引き受け、また九州各所へ抜けていく街道の起点となる玄関口でありました。陸路、海路と押さえられる土地だったのです。人が流れてきやすい土地だったのではないか、と思います。

 余談ですが、面白いことに、「忠興がガラシャの葬式を教会で執り行った」という話は、北九州市小倉では「小倉で行った」、大分県中津市では「中津で行った」と伝えています。
 確かに忠興は最初、豊前転封において中津へ入り、その翌年に小倉へと移りました。関ケ原後に葬儀を行ったというのは時節的に見ても間違いないと思いますが、どちらで行ったのかというささやかな表記の違いに、私は少しおかしさを感じた次第です。
 これに関して、個人的には「小倉で行った」というのが正確なところであり、しかし「中津で行った」というのも決して間違いではなく、後者は嫡子忠利によるものではないか、と考えています。
 というのも、セスペデス神父がなくなり、最初の禁教令が幕府から命じられたあとから、どうやら忠興はそれまで小倉の教会で行っていたガラシャの年忌を取りやめ、寺で行うことにしたそうです。これに対し忠利は、やはりキリシタンであった母の供養は教会式で行ったほうが良いのではないか、母のために続けたいとする旨の書状を残しています。中津城敷地内に教会があったことは確かなようで、忠利は父親のいる本拠地とは別に、自らも母親への供養を行っていたのではないでしょうか。
 とは言え、「忠興も中津へ入ってすぐにガラシャの供養を(とりあえずでも)行ったかもしれない」と考えてしまうのは、ファンとしての贔屓目であります。

 隼人は忠興の信任厚く、小倉期の細川家において欠かせない人物であったことが残されている史料からもわかるのですが、幕府による禁教令と、それを拒み続ける重臣の間に挟まれた忠興は、ついに彼に死罪を言い渡すことになるわけです。

 略歴にも記しましたが、少なくとも間に「大坂の陣」を挟んだうえで隼人を重用し続け、身分を保ったうえで棄教を再三迫るなど、忠興は何がなんでも隼人を生かしたかったのではないでしょうか。死罪を申し付けた際にも、忠興にとって彼の罪はキリシタンであることただ一点にあり、それまで自分の命に背いたこと(=棄教を受け入れなかった)などは許している、と残されています。隼人にとっても忠興のその思いの受け止め方は有難いものだったらしく、「ただ己がキリシタンであるから死罪となる、それ以外は許されている=己が殿の忠節な家臣である」ことは誉としていたようです。
 忠興が棄教を迫った際に「自分の家臣であるなら自分と地獄へ行くべきだ」みたいなことを言ったっていうのも読んだんですが……本当……? 当時を覗き見ることの叶わない人間なので、ただ有難いという気持ちなのですが、果たしてその時の忠興公の心中たるや……。
 細川家という家を大きくすることに注力し続け、乱世を生き延びた忠興公ですが、家族や己に近しい人々は己よりも先に失くし続けるという、寂しい人だったとも私は思っています。近いうちに小説にしてみたいと思い、そうした理由もあって、調べれば調べるほど加賀山隼人という人物に惹かれている真っ最中です。

 冒頭でも書きましたが、参考とした資料、論文等については都度追加していきたいと思います。


参考文献

『小倉市誌 補遣』小倉市役所編発行(1995)P.110~117
『北九州市史 近世』北九州市史編さん委員会編発行(1990)P.754~757、P.942~945
『豊後キリシタン遺跡巡礼』第5版 東木忠彦編著発行(2003)P.18~19
『小笠原玄也と加賀山隼人の殉教』高田重孝著作集 第一巻(2020)
『高山右近四百年遠忌記念論文集 高山右近 キリシタン大名への新視点』中西祐樹(編者)(2014)
『キリシタン重臣加賀山隼人と細川忠興』熊本大学永青文庫研究センター 永青文庫研究 第六号 抜刷(2023)
『解説目録 甦る歴史資料軍─修復された絵図・古文書展─』第38回 熊本大学付属図書館貴重資料展 稲葉継陽、後藤典子編(2023)

参考データベース

東京大学史料編纂所
肥後細川藩・拾遺:肥後細川藩捨遺
財団法人 永青文庫
熊本大学 永青文庫研究センター
八代市立博物館 未来の森ミュージアム|YATSUSHIRO MUNICIPAL MUSEUM
公益財団法人 島田美術館
小倉城ものがたり「第54話 信仰と愛に生きた小倉藩家老・加賀山隼人


閲覧いただき誠に有難うございます。よろしければサポートでの応援よろしくお願いいたします。史跡巡りや資格勉強の資金にさせていただきます。