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ハイパー貧乏細川家と倹約達人・重賢公

 今日は江戸時代中期における細川家の話をします。

 江戸時代の細川家は金がなかった。
 金がなかった。
 どれくらいなかったかと言うと、江戸の金貸し業者のほうが逃げて回ったほどだった。貸した金の金利で稼ぐ商売の人たちがどうして逃げてたかというと、細川家に金を貸すと利子は払ってもらえない、金は返してもらえないで、全く成り立たなくなってしまうからだ。当時、肥後熊本藩の財政は極度に悪化しており、借金は37~38万両にも上っていたらしい。江戸(東京)の民間の諺で「新しき鍋釜には細川と申す文字を書き付ければ金気は出ず」としゃれっ気を利かせて言われてしまうくらいだった。

 当時の鉄製の鍋や釜は、新品だと鉄臭さがあったので、何度も湯炊きしたり磨いたりして「金気抜き」をしてたそうなんですね。それが、鍋の底に「細川」って書いたら一発で金気が抜けるね!(金がないからね!)というジョークなのです。笑えん。細川家の金のなさ、江戸の民草たちの笑いネタだったなんて!!!

 というわけで、江戸時代の細川家は金がありませんでした。(どうして金が無いかという理由については、また話すと長いので別の機会に)

 そこで登場するのが江戸中期の細川の殿様、重賢(しげかた)公です。
 この人は元々次男で跡継ぎではなく、いわゆる「部屋住み」の状態でした。男子が自ら家を興すなどせず、実家に厄介になっているような状態のことですね。戦国の世ではそれでも良かったんでしょうが(だっていつでも戦があるんだから、活躍の場があるものね)時は江戸も中頃、平和が染みついている時勢でしょう。余所の家へ養子に出されていたわけでもないので、日陰暮らしをしていたそうです。といっても、前述の通り当時の細川家は燃えるものもないほど火の車状態で、本家の次男坊にも関わらず質屋に通ってその日の飯代をしのいでいたほどだとか。このときの質札を生涯手元に置いて、大事にされていた、なんて逸話まであるそうです。

 そんな重賢公、細川家に降り注いだ不幸な事件のせいで、殿様の席へ座ることとなりました。
 それまでは部屋住みで、日々学問に打ち込んでいた重賢公。想像もしていなかった、突然回ってきた大役……とまで思ったか分かりませんが、重賢公はそれまでの日陰暮らしで培った経験、そして己の才覚を存分に発揮して財政改革に乗り出すことになるのです。

 重賢公が成した「宝暦の改革」は調べれば簡単に出てくるんでここでは割愛しますが、要は「学問的根拠に基づいた改革」を行った人だと私は考えています。
 ただ目先の実益を得るために、その場しのぎの政策を打ち出すのではなく、治世側と民百姓たちが一丸となって国の改革を考え、進めることが大切だとしました。また、新たに自分の部下となった家臣一同にも、意見書を積極的に出すよう推奨。さらには理想とする国造りのため、有能な人材を見極め、それまで日の目を見ることなく苦しい生活を強いられていた中・下級武士たちも積極的に発掘していきました。
 そうした重賢公の「見る目」は財政だけでなく、人材、教育の分野でも遺憾なく発揮され、またご本人も学問をよくする方であったことから蘭学や動・植物学などにも力を入れました。永青文庫には、重賢公時代に作られた今でいうところの「図鑑」がたくさん残っています。産業や刑法にも改革の目を向けたのは有名なお話。政治手腕もあって学問もできて、当然細川なので短歌や茶の湯、書などにも精通していたとあって、もうなんという細川でしょう!

 重賢公のエピソードでひとつ、面白いものが伝わっています。

 熊本には有名な活火山、阿蘇山がありますよね。温泉と言えば、硫黄。硫黄といえば、火薬や生薬の原料となる資源です。重賢公はこの硫黄に目をつけ、しかもその硫黄が大量に採れそうな場所がせっかく藩内にあるんだから、やらない手はない! とお考えになりました。
 ですが、地元の人々は「阿蘇山には神様がいらっしゃるので、そこを掘るなんてとんでもない、罰が当たる」と言って取り合ってくれなかったそうな。
 でもこの重賢公、前述した通り学問をしてきた方です。めちゃくちゃに合理主義で、めちゃくちゃ理系なんです。植物図鑑を嬉々として作る方ですから。すごい細川。現地住民たちの「罰が当たる」という訴えを無視して強行突破で硫黄採取を始めました。
 すると、そこで洪水が発生しました。地元の人々は言わんこっちゃない、罰が当たったと非難したそうなんですが、重賢公「神は土地に住むお前たち民の幸福を願っているのだから、民を困らすようなことはするはずがない。洪水は物の怪の仕業だろう」と断言、洪水発生現場に向かって大砲をぶっ放すという荒技をやってのけます。なんという細川。
 これにより洪水が直ちに収まっただとか、水の底から本当に怪異が(大砲で撃たれて)死んで出てきたとか、とにもかくにも元に戻り、「ほら見ろ! 言ったとおりだろ! 硫黄取るよ!」とめでたく産業にも活路を見いだせたのだとか。
 あくまでエピソード、逸話なので真偽のほどは定かでないですが、めちゃくちゃ細川っぽい話だなと思って、私は好きです。

 と、まあ、そうした細川らしい話もありつつ、重賢公は火の車だった細川家の財政を少しずつ、いろいろな面から手を入れ、立て直し、後に「細川中興の祖」とまで呼ばれます。
 軸にあったのは「人を大切にする」という考え方。藩主、殿様と言っても一人では何もできないことを重賢公は知っていました。自分一人では改革は起こせない、だからこそ能力のある人々の意見に耳を傾け、力を借りて自分流の藩政を作り上げていった。
 最近、私もいろいろな面で人のご縁を感じて動くことが多くて、ありがたいなと思うと同時に、自分が今までやってきたことが返ってきているのかな、なんて思っています。でも、やっぱりそれに驕っているようでは駄目で、つないでもらった縁だからこそ大切に、自分によくしてくれる人には、ちゃんと何かが返せるように、そうやって動いていかなきゃいけないなと日々感じます。

 来年からは、こんな風に少しずつ、これまで自分が勉強してきた細川家や松井家のことを、アウトプットしていけたらいいなと思います。ここまで読んでくださってありがとうございました。

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