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地域活性も『センス』が問われている

最近読んでいる本に、やたら『センス』というキーワードが出てくる。
仕事上での、ゴールへの道のりを描く上でどういう手順で導くか。いわば、詰将棋をやって流れるように詰みまで持っていくその過程である。
その流れがいかに巧みで美しいか、それを描けるのがセンスということだ。(他にも多々意味を含んでいるが、今回はここをポイントとする)
成功したとしても、場当たり的で脈略のない行動が散見されればセンスがないに等しいわけだ。
一見意味のなさそうな行為でも、後々効果が生じて成功への確率を高める行為を紛れ込ませているというならば、それはセンスありといえるでしょう。
言ってみれば、歴代の名だたる武将たちの戦略を眺めているような気分にさせるのがセンスだ。
一回の平凡な負けすらも、後々の勝利に繋がる布石となる。


そんなセンスはあらゆるプロジェクトにも見られるわけで。本当にうまくいっているプロジェクトには実に巧みな流れが構築してあり、細かいところに美しい戦略が見てとられる。
もちろん、街の活性化で行われるようなイベントや施設建設などもセンスが問われる。

しかし、この手の活性化企画でそのセンスを感じさせるような内容はなかなか出会えないのが現実だろう。

時に、思いつきでやっただけなのでは? と思えてしまうような代物も見かける。いや、結構見られる。
一時増殖したゆるキャラなんて分かりやすい例だ。ゆるキャラ作るのに戦略も何もないだろう。流行っているからうちも作ってみた、そういう単純な空気が漂っている。よく予算が通ったものだ。

上のリンク先は、筆者が今年序盤に書いた記事だ。横須賀の海沿い歩道一画に壁面アートが飾られたことに対してである。そのアート自体はいいものの、飾られた場所がおかしくないか? と疑問を呈する内容である。

今読み返してみると、まさに設置者の『センス』を問いかける内容である。
本来なら、その設置される場所が持つ雰囲気や歴史、位置的意味などを考え、更にはその作品が設置される効果やターゲット層なども考慮してどこに設置するべきか考える必要があるだろう。
もちろん、全く考えずに地図に向かってダーツを投げて決めた、などということはある訳ないだろう。設置者の中にはそれなりの戦略や意図があったはずだ。
しかし、筆者にはそこで設置者のセンスを感じることができないのだ。つまり、そこに設置してどれほどの意味と効果が得られるのかと。
細かいことは件の記事に書いてある。
ここではセンスを問いたい。

重要なのは、この手の企画のゴールまでどのような効果的な戦略を描きながら導けるかということである。
壁面アートにおいては、そもそも企画目的がインスタ映えであり、そこから若者や女性の横須賀への来客増加が狙いだろう。その目的を達するにはあまりにも雑ではないのかと。
アートが持つ意味と街がそもそも持っていた歴史と意味、更にはターゲット層の心理、あらゆるポイントをうまくまとめるためにも、センスを活かして戦略を練り上げる必要があるのだが。
壁面アートと言われると、ちょっとワルな雰囲気も感じ取れる(実際、大体は犯罪な訳だし)。町の荒くれ者たちが描く反抗と犯行、権力者への抵抗。
こうした壁面アートがもつ雰囲気と横須賀の昔ながら漂う軍港と米軍基地の雰囲気は実にしっくりとくるのではなかろうか。そう思える読者も多いと信じたい。

しかし、そんな陰鬱でどこか退廃的、時に暴力的な雰囲気はもう古いし横須賀にはいらない。ましてや、若者や女性にはウケない。
だからこそ、陽気でポップでご機嫌な作品が並んだのは正解だ。古きイメージと新しいイメージ、そして何よりも『映え』にマッチした作品として考えれば非常に優秀な作品が並んだと感じられる。
あの雰囲気なら、若者も受け入れたのでは。

問題は、それらを並べる場所と文脈である。
ここでセンスのなさが現れてしまった。だからこそ、筆者はわざわざnoteで2回にも記事にしてしまう。

文脈がない。その前も、その先も薄い。
つまり、実際に設置されたあの場所に時代的流れもないし横須賀が持つイメージ・雰囲気もない、映えすらない。何もかもがない。
そこにあるのは、綺麗な通りをせっかく整備したのだからという打算だけなのでは?
となってくる訳だ。
つまり、『もったいない精神』であり『とりあえず精神』である。
まったくもって、そんなのでいいのかと。
まさに、センスがない。
その一言である。
作品はセンスの塊なのに。

となると、ではどこに設置すべきだったのか。
件の記事にもそれは触れたのだが改めて強調しよう。
前回は三笠公園も勧めたのだが、やはり文脈と雰囲気を取り入れるとなると。ドブ板通りが一番だ。かつての荒くれたちが集った通りでもあるし、横須賀らしさが集結された地でもある。
また、今ではオシャレな飲食店が多く、すっかりと観光地となっている。昼間の雰囲気だけを眺めていれば、かつてそこに流れた荒くれて退廃的だったそれは微塵もない。ポップな高級パン屋までできるほどだ。
駅からもすぐである。高校も比較的近くにあり、若者も集いやすい。
街が持つ文脈や雰囲気・映えに完全にしっくりする場ではないか。

たしかに、設置するには難しいだろう。
しかし、あの手のアートを盛り込みたいという思考を前に出すとするならば、形を変えてもドブ板にすべきだったのではなかろうか。
壁面アートにこだわったとしても、設置しやすいとはいえあんな場所を選んでも何も意味がない。お金の無駄だ。
戦略のかけらも何もない。

必要なのは、設置したという実績ではない。
それによる効果である。
しかも、刹那的なそれではなく比較的長期にわたっての影響だ。

そのための流れを作り出す意思は作り手にあったのだろうか?


シェンムーという作品をご存知だろうか?
1999年にドリームキャスト向けに出たゲームである。
第一作目の舞台となるのが、なんと『横須賀』である。
そして、そんな作品が2022年にアニメ化されるというのだ。これはビックニュースである。

過去に幾つかのアニメ作品が横須賀を舞台としていたが、この作品は80年代を時代設定にしているところが他作品よりも際立つ。

80年代といえば、筆者が小学生の頃。あの頃の汐入近辺はまだダイエー(現コースカベイサイド)もホテル(現メルキュールホテル)もなく、観光地どころかどこか陰鬱とした空気が流れていた。


街の活性化には美しい流れを作り出すセンスが必要である。
何かを企画している人は、改めてその意味を問いかけてみてはいかがか。

いくら横須賀が舞台となっていても、横須賀という土地が持つ空気感と文脈が無視されたアニメをフューチャーし聖地として売り出しても、根付きはしないのではないか。なにせ、美少女が活躍する空気なんて、現実の横須賀にはないのだから。
そういう意味では、このシェンムーという作品には期待するところはあるが。
売り出し方の工夫次第では面白い展開はできるし、地元民も他のアニメよりも受け入れやすいと思われる。


しかしながら、アニメ聖地における集客というのは長年にわたってとなると期待はできない。どこかで人気は衰え忘れられていく。ガンダムみたいな何十年と受け続け今でも新作が出るような作品の方が珍しい。
アニメで訪れた人がそのまま気に入ってアニメとは関係なく再訪したくなる土地と認知してくれればいいが、それはあまりに都合が良い期待だ。
そこに期待をかけすぎるのは良くない。
となると、やはり時期や旬を気にせずにリピーターを集められるコンテンツは欲しい。
それを設けるためにも、センスを捻り出して何年後何十年後かにも影響が残るような『流れ』を今のうちに作り上げておかねば。もっと間口の広い、年齢層も男女も問わない広さを求めていかなければ。
長期的には期待できないアニメ聖地化に予算をかけられるのなら、もっと長期的に有効的な戦略にも予算を割いて欲しいものだ。

どこに予算をかけ、どう売り出すのかを取捨選択する。これもまた、センスが問われる。

さて、横須賀の観光戦略にセンスが光るときは来るのだろうか?

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。