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徳川慶喜 江戸最後の切れ者大名

徳川慶喜。
現在、大河ドラマでも草薙剛さんが演じており、とても風変わりな将軍という感じがひしひしと伝わってきますが、みなさんはどんなイメージを持っているでしょうか?実は慶喜は江戸幕府をみすみす返上してしまったダメ将軍のイメージと、江戸幕府を最後に率いた名将軍だったという二つのイメージがあります。そんな慶喜の生涯を主に三つに分けて語っていきたいと思います。


●尊王攘夷思想と将軍にならない慶喜



江戸末の日本は大きく二つの思想に分かれます。
・外国を力で追い払おう→攘夷派
(特に天皇の力の凄さを見せつけようと天皇を担ぐ攘夷を尊王攘夷と言います。)
・外国に対して貿易をして国を開こう→開国派
(開国派と言っても外国と仲良くしようというよりかは、外国さん強すぎるからひとまずいろいろ教えてもらった上でぶっ倒そうという意見が大方でした。)

慶喜のお父さん、徳川斉昭や慶喜の生まれた水戸藩は、攘夷という考え方を世に広めた人たちの集まりでした。特に徳川斉昭は、その考えを主張して幕府と対立。
そして各地の何かを変えたいと思う人たちや体制に不満のある武士たちのヒーローとなっていくのです。そんな父を見ているせいか、慶喜は最初、政治の表舞台に大きく上がろうとはしませんでした。しかし、周りはそんなヒーロー的父の跡取り息子を放っておくことはしません。それに慶喜の「将軍なんて興味ない」姿勢が、皮肉なことに彼の魅力をどんどん押し上げていきます。
12代将軍家慶が亡くなると、慶喜に将軍になってほしいと周りから頼まれます。しかし、慶喜の父は、幕府と対立している斉昭です。斉昭や慶喜をよく思わない人たちは、慶喜より正統の血が近い、徳川家定を支持します。
争いを好まないことや血筋が遠い慶喜は、易々と家定に将軍の座を譲ります。

「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」

そんなことを父・斉昭に手紙で書いて送るほどですからいかに慶喜は将軍というポジションが嫌いか興味がなかったかがわかります。

しかし、またもや慶喜は放って置かれません。
家定は、病気がちで早くに亡くなってしまい、次に家定の血筋に近い徳川家茂は、たったの13歳。そのため慶喜は家茂の後見人として存在感を発揮することになります。また時を同じくして京都には、尊王攘夷を叫ぶ武士たちが自分たちの主張の支持を求めて暴れていました。またこの頃になると尊王攘夷を大きく掲げる藩、長州藩が存在感を露わしてきます。
その事態を重く見た朝廷:孝明天皇は、幕府に京都を守ってほしいというお願いをするのです。そこで、慶喜が今度は、朝廷を守る守護職に就きます。慶喜は、この時の天皇である孝明天皇との縁を深めていくのです。

●鳥羽伏見・戊辰戦争で逃げの一手を取る慶喜


この頃の日本の情勢はどんどんと悪化をしていきます。
京都の西側で長州藩と薩摩・幕府連合が戦うことになります。
その戦いで、長州藩は、朝廷に攻撃を仕掛けたことで朝敵となります。(金門の変)
その流れを受けて、幕府は臨時の幕府軍を集めて長州藩と戦うことになります。(第一次長州征伐)
一度は、長州藩を敗北させることに成功する幕府ですが、長州藩に二度目の攻撃をしようとしたその時、長州藩に薩摩藩が味方をすると声を上げるのです。この間に世に言う薩長同盟が結ばれていました。
幕府軍はボロボロに負け、さらに運の悪いことに朝廷の孝明天皇が崩御(天皇が亡くなること)し、徳川家茂もこの世を去るのです。
この混乱の中、次の将軍になれるのは慶喜しかいませんでした。
慶喜たち幕府軍は状況を打開しようと、京都手前の鳥羽伏見で、薩長軍と対峙します。
しかし次の明治天皇を動かす公家たちは、薩長の策略により、薩長軍が真の日本の軍隊だという証を彼らに使わせてしまいます。
そのせいで幕府軍は天皇の敵!っという扱いになってしまうのです。
困った慶喜は、朝廷の敵になることだけは避けねばならない。
そのために江戸を脱出して逃げ果せました。
この時、慶喜は部下にこう話したそうです。

「西郷隆盛ほどの武将が幕府にいると思うのか?」

さらに、江戸での戦いの交渉を勝海舟という役人にまかせ、江戸城を無血開城させるように当たらせます。温厚な勝海舟も、慶喜に「言わんこっちゃない。一体、何をお考えなのですか?」と切れたとか切れてないとか。
こうして部下の助けもあり、徳川慶喜が率いる幕府軍は戦わずして江戸の街を戦火から遠ざけることに成功します。
こうした慶喜の行動は、最近まで、腰抜けだとか逃げた将軍だとか悪いイメージで言われることが多くありました。
しかし、近年、大河ドラマでの再考が行われ、

①もしもこの戦が長引けばフランスやイギリスの植民地になっていたかもしれない。
②天皇にどちらに味方についてもらえるかで主導権を取れる幕末で、朝敵と言われた時点で負けたと判断した慶喜の考えは正しかったのではないか?

などと再評価されることになっています。
ただ慶喜自身、幼い頃からの教えや京都守護職を拝命し、天皇をお守りしたことを考えると、天皇を心から敬っていたのだと思います。そんな慶喜は、自分や幕府の権力復帰のために天皇に刃を向けることは到底できなかったんじゃないかなと思います。

●明治まで謹慎のち、公爵になる。



慶喜は、鳥羽伏見の戦いから逃げた後、自ら謹慎を行います。幕府がなくなり、戊辰戦争(江戸幕府を支持する残党と、薩摩・長州などが率いる新政府軍との戦い。この戦いが終わって明治が始まる)が終わるまで謹慎します。
その後、勝海舟たちが謹慎の解除を嘆願し、謹慎は解かれ、明治五年には公爵となって余生を過ごしたようです。
余生で慶喜は、かなり西洋文化に興味があったようで、写真を撮ったり、電話を引いたりして楽しんでいたようですね。
慶喜は、77歳という徳川幕府としては家康の75歳を超える最長寿の人生を全うしてこの世を去りました。


●終わりに


慶喜自身、政治というものに最初は興味を持っていなかったように見受けられます。
ですが、時代の流れは慶喜を放って置くことはせず、幕末の動乱に深く飲み込まれていった一人でした。
謹慎を受け、幕府の将軍でなくなった慶喜の元に渋沢栄一が来た時、慶喜はこういったそうです。

「これからはお前の道を行きなさい」

決して自由とは言えない自分の身の上に対し、平岡円四郎が連れてきた部下、渋沢栄一にはきっと自由に何かをやって欲しかったのかなと僕は思います。
慶喜の人生をここまで追ってきましたが、どうでしょうか?
慶喜という人柄が少しでもわかって歴史に興味を持つ人がいてくれたら嬉しいです。

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