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『文化人類学の思考法 ケアと共同性』松村圭一郎・中川理・石井美保 編を読んで

参照 『文化人類学の思考法』
       12章 ケアと共同性ー個人主義を超えて

筆者はこの章の中で「選択の論理」と「ケアの論理」を取り上げている。
「選択の論理」が働く場面においては、「ケアを受ける側」の自己決定権が重視され、医療 は適切な情報を提供するだけにとどまる一方で、その選択に関する責任を「ケアを受ける 側」が取らなければならない。しかし「ケアを受ける側」が必ずしも自分にとっての良い治療 を正確に把握出来ているわけではなく、医療によって問題の解決に至る場合だけではな い。
そこで登場するのが「ケアの論理」である。この論理が働く場面においては「ケアを与える 側」と「ケアを受ける側」の二者を超えて、問題の背景にある社会的環境や人的精神的要 因にも目を向けた包括的なケアが行われる。ただしこの「ケアの論理」には、予防的に介入 してリスクを管理するという統治の論理につながるおそれも内含されている。
筆者はこうした2つ(ないしその他)の論理の負の側面をできるだけ最小化しつつ、相互に バランスの取れたケアを実現していくことを提唱する。
これらの指摘を下に、それぞれの論理を具体的な事例に落とし込んでみる。 「選択の論理」が適切に働く場面としては、骨折や靭帯の損傷など明確に原因が分かる場 合が挙げられる。この場面では多くの場合レントゲンやMRIなどで原因を特定し、固定、冷却など適切な治療を行うことで問題の解決につながる。
「ケアの論理」は本の中で指摘されていた精神医療の現場などの他に、より身近な場面で も働くと考える。例えばバスの中で赤ちゃんが急に泣き出してしまった場面。ここでバスの中に下図のような乗客たちが乗っていると仮定する。

この場合考えられるケアは、赤ちゃんを泣き止ませることだが、そうすると泣くのが赤ちゃん の仕事だと考えるおばあちゃんと揉め事になるかもしれない。赤ちゃんを泣き止ませようと 主婦が水をあげようとしたとしても、赤ちゃんの母親は知らない人からもらった水を自分の 赤ちゃんに飲ませたくないと思うかもしれない。そもそも赤ちゃんを泣き止ませることが正し い解決策なのかも分からない。また、高校生が、苛つくサラリーマンに、正義感から注意を すれば、確実にトラブルになるだろう。そうなれば運転手は困ってしまう。このように、様々 なファクターが複雑に絡み合い、適切なケアの方法を見出しづらい場面において、「ケアの 論理」は働くと考える。
続いて「ケアの論理」が働く場面において、文化人類学者がそこに居合わせたと仮定し、そ れを基に文化人類学が社会において担う役割の一つについて考察する。「ケアの論理」が 働く場面においては、誰か一人のアクションによって問題が解決することはない。誰かがそ の場で最適だと考えるケアを行うと、バスに乗っている乗客たちの間に、内面的、外面的に 多様な変化が起こる。当然その中で新たな問題が生じることもある。このような場面におい ての文化人類学者の役割とは、 今ある、もしくは過去に行われたケアに対して新たなケアを提案することではなく、バスの 中にいる人々の複雑な感情や、行動、はたまた誰かが行ったケアによって起きた変化など を複雑なまま書き出した上で、さらにその対象をバスの外にまで広げ、包括的に事象を捉え、記録に残すことではないだろうか。そうした記録の積み重ねが、後の世代に受け継が れることで、様々な領域における研究、開発で参考にされ、現在のケアの見直しや、より良いケアシステムの構築に繋がっていく。この役割はケア以外のどの分野にも当てはめるこ とができる。そうした意味で文化人類学はあらゆる分野の基礎となる学問だと言えるので はないだろうか。ただし本当に「役に立つ」という一点のみを意識するのであれば、複雑な 要素を包括的に捉えた記録よりもその一部分を切り取った記録のほうが有用性は高い。だが文化人類学はその道を選ばない。そう考えると、あらゆる分野の基礎となるという有用 性とは別の意味も文化人類学は持っているのだろう。
最後にバスの車内の様子を下図のように変化させて考えてみる。

ここでは変化前と異なり、問題が発生していない。赤ちゃんは泣いたままだが、泣いている 赤ちゃんに苛つくサラリーマンという1人を車両から取り除いたことで、起こる可能性のあっ た衝突が回避されたのだ。(かといってサラリーマンを車内から追い出せば良いというのは、当然サラリーマンの自由を侵害するという点で、良いケアの方法とはいえない)ではこの場 面に文化人類学者が遭遇した場合、彼らは先に述べたような記録の役割を担うのか。一 見すると何も問題が起こっていないのだから何も記録することはないように思えるが、私は この場面においても記録は重要だと考える。戦争について知るには平時について知らなけ ればならない、自己について知るには他者を知らなければならないというように、問題の解 消のためのヒントはそれが問題にならない場面にこそ隠されているからである。実際に私が留学していたチェコでは、赤ちゃんが電車の中でどれだけ泣こうが、周りの人は気にしない。当然母親も慌てることはない。彼らの中で赤ちゃんが泣くことは問題ではないのだ。このような場面を深く観察し記録することは、眼前の問題を解消する糸口になるかもしれな い。
以上、ケアと共同性の章を参考に、「ケアの論理」と「選択の論理」を具体例と結びつけた 上で、「ケアの論理」が働く場面においての文化人類学の役割、当然これまで考察した文化人類学の役割は一面的なものに過ぎないが、について考察した。

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