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「ショートストーリー」:空の森⑨

1週間、そこにいる人をいない人として過ごした。
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今朝、素良(そら)は早番らしく、午前6時過ぎにはアパートを出たようだ。僕はベッドの中で耳を澄まし、確実にひっそりとしたアパートであることを確認してから、自分の部屋のドアを開けた。足元にスルリと柔らかい感触がまとわりつく。猫のひばりが、小さく、ミャウと鳴く。

「お前、朝ごはん、もう貰ったんだろう?」

僕を見上げ、また、ミャウと鳴く。

”私が伝えたいのは、そうじゃないわよ。”

と、目が訴えているように感じるのは、僕の罪悪感からの妄想か?

コーヒーを入れる気持ちすら湧かず、歯磨きだけして、ランニングシューズを履き、外に出た。まだ、空は真っ暗。朝日が出るのは、7時ぐらいだろうか。ほんのひと月前は、うっすらと明るかったのに、いつの間にか秋になり、そして冬に近づく準備をしているようだ。

セントラルパークに背を向けて、西に向かってジョグを開始した。数分でハドソンリバー沿いに出る。
マンハッタンは、水に浮かぶ島。東西南北、どこを目指しても、水辺に出る。ドラマや映画で、思い悩む主人公が、よく海や川を眺めるシーンが出てくるが、人間はどうやら、悩みを抱えると、水辺を目指す生き物らしい。僕もそのセオリーに従うように、ハドソンリバーを目指し、そこから、川沿いの遊歩道を南下した。

何も考えず、まだ薄暗い道を、ひたすらに走る。聞こえるのは、同じリズムを刻む自分の足音。そして、左手に走る車道の音。静か過ぎる方が不安を感じる自分は、すっかりマンハッタンの住民だと思う。住み始めた頃は、こんな色んな音が聞こえる場所で寝れるかと思ったのに。

慣れって恐ろしいな。

僕に取って、素良との生活が当たり前で、それにすっかり慣れて、今度はそれが崩れるのが本当に嫌だと感じているんだと思う。拒否感が半端ない。
きっと、その嫌の根源には、”恐怖”があるのだろう。

1週間という時間が、僕に少し心の余裕を生み出してくれたらしい。”嫌”という拒否の先の”恐怖”の存在に意識が向かうようになっている。
それにしても、僕は何の恐怖に怯え、不安を感じているのだろう?

素良を失うこと?
いや、素良は、一言も僕との生活を止めようとは言っていない。

素良の意識が僕より、赤ん坊に向かうこと?
つまり、「僕と赤ちゃんのどっちが大事なの?」って気持ちを僕は抱いていて、素良の答えが、「赤ちゃんに決まっているわ。」と分かっているから、その事実に直面したくない?
それは、何?嫉妬?他人に恋愛感情を持たないと自分だと思っていたけど、こんな感情が恋愛感情の一つなのだろうか?
・・・よく分からない。

それとも、、、、
僕はゴクリと唾を飲み込み、立ち止まる。川を見つめる。徐々に空が明るくなっていくのを感じる。

赤ん坊という存在自体が怖い?

僕は他人との接触が苦手だ。触ったり、触られたりすることに、拒否感・嫌悪感を感じてしまう。いつからだろう?と思い返すと、多分、思春期頃にそれがひどくなった気がする。子供の頃は、自分から友達に積極的にくっついたりしていなかったけど、くっつかれても、それほど拒否感はなかった気がする。記憶にないけど、赤ん坊の頃は、母親にも当たり前に抱っこして、あやしてもらっていたようだ。
ただ、父親に触られると、大泣きしていたらしい。全然、懐かない僕に、段々と苛立ちを覚えた父親と、そんな僕への理解と努力を求め続けた母親。
二人が離婚する原因となった僕がそこに存在する。

赤ん坊という存在が恐怖なのか、自分という存在に罪悪感を感じているから、赤ん坊への拒否感があるのか分からない。

ただ、分かるのは、恐怖を感じている自分がいるってことだ。
なんでこんな自分なんだ?
自分が大切に思う人の幸せを受け入れることが出来ない自分。
なんでこんな自分なんだ?

「Why are you crying ?(なんで泣いているの)?」

いきなり指先に温かさを感じた。
驚いて視線を向けると、5歳ぐらい?の女の子が僕の指先を握って見上げていた。

「Why are you crying?」

大きな漆黒の瞳で見つめられ、僕は気づく。自分が泣いていたことを。

「エミリー!」
5メートルぐらい離れた場所から、女性が乳母車と中型犬を連れてこちらに近寄ってきた。
急いで、袖口で涙を拭く。

「ごめんなさい、今、犬がウンチをして、それを処理しているうちに、この子が離れちゃって。」

僕は、「問題ありません」、と応える代わりに首を横に振った。ほぼ、同時に乳母車にいた赤ん坊がぐずり出し、ぎゃーと泣き出した。

「Why are you crying ?」

エミリーと呼ばれた子が、背伸びをして乳母車を覗き込み、赤ん坊に話しかける。

「He might be hungry. Mom, Let's go home. (きっと、お腹が空いているのね。ママ、お家へ帰りましょう。)」

おしゃま顔で母親に言った彼女は、クルリと振り返り、僕に向かってニッコリ笑った。

「You might be hungry, too. Go home and eat something. Tears will be gone and it will be fine. (きっと貴方もお腹が空いているのよ。お家に帰って、何か食べなさい。きっと、涙は消えて、元気になるわ。)

バイバイと手を振るエミリーと母親と乳母車と犬が、朝日に吸い込まれていくのを見送り、僕は家路につく決心をした。

やはり僕は人との接触は苦手だ。
きっと、赤ん坊を抱くことも難しいと思う。

でも、なんとかなる気もしてきた。
エミリーとのやり取りは悪くなかった。どちからかと言えば、楽しかった。

僕は僕が出来ることをやれば良いよね?

まずは、家に帰って、何か美味しいものを作ろう。
そして、お腹を空かして戻ってくる素良と食べよう。











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