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「女の子」視点/自己表現と自己変容

大学の頃に受けたジャーナリズムの授業でのこぼれ話。

「女の子の写真の歴史」について、2000年~現在まで女の子の写真の撮り方の変化が大きい。

今は、なんというか、私は自撮り(あ、セルフィー?)とかやらないけれど、いかに綺麗に撮るのか余念がないと聞く。私の友人に今でもプリクラが大好きな人がいて、半ば強制的に連れて行かれるが、専用のメイクルーム?みたいなスペースがあって衝撃を受けた。
写真を撮るには入念に「準備」が必要で、写真館で撮るような記念写真が、今は400円で撮影できる。
写真というメディアが貴重視された現象とも言えるが、一方で10年前は違った。

10年前はM字開脚、ベロ出し、パンチラ、半裸といったありのままを越えて、いわゆるなすがまま的な「瞬間」を撮っていた。女の子の「瞬間」って同性だから分かるけれど、あまり綺麗ではないというか。なんというか…

私は写真は「瞬間」を切り取るものだと定義づけている。記念写真だって、「記念」という「瞬間」を切り取ったもの。

今は女の子たちは「写真撮るよー」と呼ぶと、中にはトイレに駆け込む子もいるだろう。綺麗にするために。今の最大限を瞬間に収めるために。でも、綺麗って、時に身の危険に晒されると思う。

DVとか性犯罪の被害者、社会の趨勢に飲まれて取り残されるのも女性で、デリケートで何考えてるのか分からん部分もある。

昔、あるアニメで「女の子はいずれ、来るべき結婚という名目の買取りのために美しくならねばならない(大体こんな感じの)」と言ってのけたJKがいた。

報道の中心は悲劇のヒロインで、大衆の同情を買う商品みたいで、あれ?いつから女の子は売り物になったんや?となる。

もしかしたら、いや、考えすぎかもしれないけれど、私が目にしたあの「なすがままの瞬間」って、女の子を消費する社会に対する抵抗の末の身悶えなのかなって思う。

次の写真ブームは、綺麗なものばかりではなく、もっと違うものを写してほしいよね。

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