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豊かな人生を送るには、やっぱり本を読んだり、映画を観たりが一番いいんじゃないか説 〜國分功一郎を読んで〜

    村上春樹の『羊をめぐる冒険』の読書会があり、30数年ぶりに再読してみたらコンラッドの『闇の奥』に影響を受けていることに気がついた。その『闇の奥』は、大好きなコッポラの名作『地獄の黙示録』の下敷きになっている。そこで映画を再度観て、名解説本である立花隆の『解読「地獄の黙示録」』をもう一度読んでみた。すると、立花が映画の主人公カーツ大佐をナポレオンと対比して論じていたので、公開中のリドリー・スコット監督『ナポレオン』を観てみた。
 一冊の小説をきっかけに縦横無尽に本や映画に没入し、こんな↓感じで年末楽しむことができた。

作品:羊をめぐる冒険→闇の奥→地獄の黙示録→解読「地獄の黙示録」→ナポレオン
作り手:村上春樹→コンラッド→コッポラ→立花隆→リドリー・スコット




 さて、なぜこの文章を書こうかと思ったかというと、“本当の豊かさ”について哲学者の國分功一郎が、「豊かさの条件である浪費をするためには、きちんとモノを享受し、楽しむことができるようにならなければならない。そのためには『教養』が必要である」と、たまたま手に取ったエッセイで言ってたので、ふむふむと思ったからだ。國分の話をかいつまんで書いてみる(ちょっと長いけど)。

  “必要を超えた支出があってはじめて人間は豊かさを感じられる。人間が豊かに生きていくためには、「贅沢」が必要である。この贅沢は「浪費」と言い換えることができ、それは豊かさの条件に他ならない。
 浪費は満足をもたらす。なぜならモノの受け取りには限界があるからだ。例えば、限界を超えてモノを食べることはできない。だから浪費はどこかでストップする。ところが人間は最近になって全く新しいことを始めた。それは「消費」である。浪費はどこかでストップするが、消費はストップしない。なぜなら消費はモノではなく、記号や観念を対象にしていて、それらの受け取りには限界がなく、消費は終わらない。
 例えば、数年前に発売された携帯電話が今でも使えないわけがない。しかし、半年もたたないうちに「新しい」モデルが出る。なぜだろうか?人々はモデルなどみていないからである。「チェンジ」という情報や意味だけを受け取っている。
 消費者は満足を求めて消費しているが、決して満足が得られないから、更に消費を続ける。こうして消費と不満足との悪循環が生まれる。消費社会の中に贅沢などなく、逆に消費社会とは我々から贅沢を奪うものだ。では、「贅沢」をとり戻すにはどうしたらよいか?”

 ここで冒頭の結論に至るわけだが、バート・ラッセルという哲学者が「かつて教育は楽しむ能力を訓練することであった」と述べたことを紹介し、楽しむという行為が決して自然発生的なものではないと指摘している。つまり、楽しむためには能動的に知識を吸収することが必要と言っているのだ。 
 そうか、浪費して楽しい人生、豊かな人生を送るために僕らは学校で勉強していたのか!と今さらながら思ったわけで、あんまり勉強していなかった僕みたいな奴はどうすれば良いかと言えば、これから勉強すれば良いのである。つまり例えば、出来る限り本を読み、映画を観て、絵画を鑑賞し、音楽を聴き、教養を身につける。いつかは飽きるモノではなくて、自分の血肉となる教養・知識を身につけると、様々な事柄がアメーバのように結びつき、今回の村上作品のように「あ~、あれとあれが関連してたから、こうなのか~」とか、歴史を学べば、「あのヨーロッパで起きたことが、日本にあのことをもたらせたのか~」などととめどなく楽しめるのではあるまいか? もちろん、このような状態になるためには日々の努力が必要で、道はなかなか遠いのだけれど、花粉症が発症するのと同じ理屈で、ある日突然違うジャンルが結びつく、大袈裟に言えば世界が繋がる機会を今回みたいに体験することができる、と僕は思う。この拙文だってある意味そうで、いろいろな作品にあたる中で國分のエッセイに出会い、こうして自分なりの考えをまとめることができたのだ(正しいかかどうは別にして)。
  國分はこうも言っている。「モノを楽しむ訓練を受けていないと、消費と不満足の悪循環の中で焦燥感に苛まれ、ただひたすら記号を受け取り続けることになる」。
 消費社会から全く離れることはできないとは思うけど、必要を越えた支出(=浪費=生存の条件にはならない余裕)を楽しんで、人生を少しは豊かにしたい。だからこれからもばりばり「読んで・観て」を続けていきます。

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