人と話すのは綱渡りのよう

綱渡りをしたことはないけど、想像するあの感じがすごく似てる。誰とでもそうなわけでなく、初めて話す人とかはあんまり親しくない人と話すときはほぼ。

落っこちないようにバランスをとっている。会話が始まると足元の綱がぶるぶる震える。身動きが取れなくなる。
きっとそこから落っこちて綱渡りって難しいよねって話をすればいいんだろうけどね。
なんで出来ないんでしょう。別に自分をよく見せようと思ってるわけでもないけど頭が真っ白になってなにも浮かばなくなる。

最近演劇のWSに参加した。即興のエチュードを沢山人が観ている前でやった。つまらないぞという客席からの空気、何かしなければとあせる気持ち、何も浮かばない頭、想定とは全く違う展開を繰り出す相手役。あせりながら「これはいつものやつ!」と思った。

新宿のゴールデン街にあるどんな人でも話せるようになる教室みたいなやつに行ってみようかな。行かないけど。
トラの仮面かぶった人が自転車こいでて怖いし。
結局、自分のことばっかりなのかなと思う。人の話や、この人が何を好きで、何をしたくて、何がうれしくて、みたいなものを見ることができなくて、自分が何か話さなきゃとかそういうことばかりで独りよがりな状態になっているからやり取りにならないのかしら。

でも人と対面するとそれだけでちょっと緊張する。ちょっと前のアトピーのnotoにも書いたけど自分を隠そうとするんだろうな。あまり見られないように。自分の情報を出来るだけ出さないように。
人のことを見てないわけではないと思う。嫌と言うほど入ってくる。微妙な表情や、服のほつれ、指の形、声の高低。情報がどんどん入ってきてその人がどういう人なのかがどんどん頭の中で構成されてゆく。
相手の中でもそういうことがきっと思っている。でも僕は身構えている。仲良くしたいなと思う人に対してほど隠してる。綱は細く細く張り詰める。でもそうすると相手には僕のことがよくわからないから、結局距離間がわからないし詰められないから仲良くなれない。これは肯定感の問題だろうか?自己に対する肯定感はそれなりに低い。仲良くなりたい人にはそれを見せたくないと無意識に閉じている。

いろんなことが怖い。特に新しい場所に行くことや、新しい人にあうこと、新しいことをはじめること。すごく好きだし、最終的には自分の知らない世界を知ることが出来てよかった。と絶対に思う。でも最初はすごくエネルギーも時間もかかる。みんなそうだよと言う人もいるけど。それはどうかなとも思う。甘えてるとかではなく、それはどうかなってこと。僕は泳ぐことが出来て、泳ぐことが好きだ。25メートルプールに十円玉一枚落としたから拾ってきてください。どこにあるかはわかりません。と言われても多分そんなに大変じゃない。何往復か注意深く泳いでれば見つかると思う。全然苦じゃない。

でも全然泳げない人はすごく大変だと思う。やれば出来るだろうけど。やれば出来るけど大変ってそういうこと。
別に何とかしなくてもいい社会がいい社会な気もするけど、もうちょっとうまく話せたり、素敵だなと思う人と仲良くなったりできたらいいなとは思う。仲良くというより、知りたい。何を見るとよだれが出て、何をすると血が沸騰するのか。綱の上で明らかに邪魔なふすまを抱えて、隙間から相手を覗きながら落っこちないようによろよろする。ふすまも捨てちゃえばいいし、綱も降りればいい。わかるけど地面が真っ暗で奈落に見えるのだ。でも暗く見えないようにしてるのは僕なんだと思う。堂々巡りだなー。わかっているけど僕にはとても難しいこと。

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