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第一章 01阪神大震災前の奇妙な微動

1995年の阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)はM7.3の激震となり6000人以上の死者となった大災害ですが、いまでは30年近く前の地震となりその記憶が大きく残る最も若かった世代の人も40代に差し掛かっている。

この地震の前年1994年の12月ごろから、学生だった私は京都の伏見で奇妙な揺れが繰り返していることに気づいた。
その当時で築50年を超える古い家の二階を下宿としていた、夜中、机に向かっている時にふと微かな揺れに気づいて、畳の部屋の壁際に作った棚の上のラジカセのアンテナに目をやるとアンテナが揺れの体感に合わせて揺れている。大きく始まって小刻みに終わる揺れは、時に強く、時に弱く、毎晩のように揺れている。昼間は家にいない上に家の横の交通量もあるので揺れを確認することもなかったものの、夜更けで地下鉄も止まっている時間帯に、それは続き、途中で消えたかと思うと再発して強く揺れる。しまいには花瓶にさした造花までが首を縦に振る。洗濯物の室内物干しのピンチも同じように小刻みに揺れる。こうしたことが当たり前のようになって、さすがにこうした地震を気象庁は把握しているのか確認の電話を入れた。インターネットも携帯電話のない時代で電話帳で番号を調べてかけた電話での回答は、関西方面では和歌山で小さい地震は起こっているけど人が京都で感じるような地震ではありません、とのこと。訝しく思いながらもその場では納得できないまま終わった。

それでも微動は活発化したり止まったり、を繰り返していたが、いつの間にか止まっていてクリスマスのころには微動が発生していないことに気づいた。不思議なことがあったなと、もうその奇妙な揺れのことは忘れて年が明け、卒業論文を書きあとは提出するのみ、となった。いつになく温かい1月の16日は日付が変わり17日となり、こたつに入ったまま眠りについた。

意識の底で遠くから轟音の押し寄せるのに気づき目覚めた瞬間、衝撃が暗闇の底を襲った。凄まじい揺れと多数の物が落下し砕け散り、家がギシギシと鳴り飛び起きた私はこたつの上の物が横滑りして倒れるのを見た、擦りガラスの外は夜明けの明るさで、こたつの上の物がはっきり見えた。「許してーー!!」と叫びながらもう一度こたつ布団をかぶって揺れが収まるのを待った。揺れが収まり布団をのけた部屋は真っ暗で先ほどの明るさは窓の外になかった。電気は来ていたが部屋のあらゆるものが落下して散乱。時折ミシ!と鋭い揺れが襲う中、呆然としていた。アンテナを乗せた古いテレビをつけしばらくしてニュース映像が流れ始めて、阪神高速が倒壊している映像が見えた時に、はじめてあの奇妙な揺れが兆候だったのか!と全身が総毛だった。その後も余震が続き奇妙な揺れの回数は減ったが揺れと同時にミシ!と大きな家鳴りや、物干しピンチが揺れが続いた。
大学を卒業し、勤務先のある大阪に下宿を探しやっと引っ越した吹田市の鉄筋コンクリートの建物でも奇妙な揺れと物干しピンチの揺れは出ていたが、次第に消えて6月ごろには消滅していた。

そのあとは奇妙な微動の事を考えることは少なくなり、インターネットもない時代に、自分が何かできることがあるとは思えず、謎と確信だけが残り続けた。時が流れ2000年ごろからやっと家庭でインターネットをできる環境が出来た。ここで掲示板での発信ということが可能になってきたものの、微動自体はそれ以降は出ているのを確認できていなかった。2004年に東京に転居した時に再びその奇妙な微動と出会うまでは。



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