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3.11東日本大震災当時の記録 

まず、令和6年1月1日におきました能登半島地震で亡くなられた方々に対し、心から哀悼の意を表するとともに被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。 

13年前、3.11東日本大震災で被災した私ですが、当時の手帳がみつかりましたので、記録と整理のために書きしるすことにしました。  

3月11日。宮城県仙台市太白区。地震最大震度6。私は1Kのボロアパートに1人で住んでいてテレビをみていた。仕事はちょうど休み。部屋中しっちゃかめっちゃか。テレビが目の前を垂直にとぶ。揺れが酷くて、死を覚悟するレベル。長い揺れ。呆然としつつ、動けないでベッドにしがみつく。たいして家具も物もない部屋に住んでたので幸い怪我はなし。 
電気がとまる。寒くなっていく中で、これはまずいな、と思いながら、当時流行っていたミクシィでSOS発信。ちょうど海外在住の高校の同級生が私の投稿をみつけてくれて、避難所があるはずだから、調べてすぐにいくようにいわれ、ようやく動く。 
毛布を巻いて、避難所の小学校へ走る。ガラケーの充電は半分しかない。焦る。とにかく情報が欲しい。アパートから10分ほどの所にある小学校に到着。すでに人であふれかえっていた。体育館は、家族連れらしい人達でごったがえしていた。犬や猫を連れてきていた人達が、いいあらそってる。メンタルがやられそうになる私。
人1人が座る分しかスペースはあいてないほど混雑していた。そのスペースに座りこむ。 
周りは誰も知らない人ばかり。かなり心細くなる。町内会活動と無縁だったことを初めて嘆く。 
体育館にはエアコンもなく、ストーブもない。 
夜は真っ暗。ラジオをもってきた人のラジオからながれる情報を盗み聞きしながら、一日目はすごした。津波がきたという情報に驚く。うちの実家は大丈夫だろうか?兄や弟は?友達は?心配しながらも落ち着かない気持ちでウトウトし、座ったまま寝た。とにかく寒い。 

発災から2日目。 
朝起きてトイレに行くも、避難所のトイレがとんでもないことになっていたので、アパートにかえって用を足す。住んでいたアパートは木造建築。半壊状態。他の住民はみんな避難して誰もいない。
ただ、私の部屋は中は散乱していたが、潰れていたわけではないので、トイレもお風呂もそのままの状態。勿論、断水。水はでないし流せないけど、私1人で使えるので、気をつかうことがないだけマシ。 
とにかく寒いので、毛皮のコートを羽織る。これは本当にやくにたった。動物愛護団体さんには叱られるかもだけど、この毛皮のコートがなかったら、凍死してたかもくらいその後ずーっと役にたった。2万くらいでリサイクルショップでかった古いやつ。 ありがたや。 
避難所にまた戻ろうかな、と思っていたら、当時親友だった男友達が心配してかけつけてくれた。 
俺の家もけっけうやばくって、家の中がめちゃめちゃで、両親がかたまって動けなくなっている、といわれたので、親友の家の様子をみにいく。 
親友の家はマンションの8階。螺旋階段をのぼり、様子をみにいくと、家の中はすさまじいことになっていた。親友のご両親は食器を集めるのが趣味とのことで、硝子や食器が割れて散乱していた。家具も倒れて上下逆になっている。足の踏み場がない。土足で入る。 
真っ青な顔で、ソファーに体育座りしてる親友のご両親。無言。初めて会った。こんな形で。なんて声かけていいかわからず、私も無言。 
とにかく、ガラケーで写真をバシャバシャ撮影。罹災証明書の話しを避難所できいていたので、証拠になるものを、と夢中で撮影。 
これは、後に重大な証拠となり、罹災証明書の発行に役にたち感謝されたので、とにかく写真をとっておくことはおすすめです。 

ここからは、食べ物の記録。 
3月11日。なにも食べず。 
3月12日。水は支援物資ですぐにきて、1人何本でも好きなだけペットボトルの水の支給あり。

トイレを流す水は小学校の貯水プールから、とのことで、バケツで何往復もした。親友の家のトイレ🚻を4人で共有。小は流さず、大だけ流す決まりをつくる。大が流れるトイレ🚻は本当に助かりました。もう、恥ずかしいとかはなくて、助かった、という感覚。避難所のトイレ🚻は全然つかえませんでしたので。(;_;) 
  
3月13日 避難所小学校にて米軍から乾パン1つとぽんかん1個支給。乾パンが硬すぎて食べれませんでした。(;_;) これが1日の食事。 

3月18日カツしょう、というとんかつ屋さんが開いていて、行列にならびにながらも、久しぶりに肉とご飯を食べる。幸せすぎる。 

3月22日 パン屋さんが開いた、との情報をゲット。500人くらい並んでいただろうか。これまた久しぶりにパンを。甘いパン。 
幸せせすぎる。 
3月23日 
みやぎ生協が開店。 
1人10品限定、10分以内という条件つきで、食べ物をかえた。パンが人気。 
3月26日 
ヨークベニマル開店。 
こちらも1人10分以内、10品限定販売。雪の降る中、6時間並びました。この頃は食べることと、お風呂🛀のことばかり考えてました。髪がながかったので、髪がベタベタ。くさくさ。スッピン。みんなスッピンだから、気にならなかったけど。それどころじゃないし。 
3月27日 
ミスタードーナツ🍩開店。1300円で書いてあるので、多分13個ゲット。当時は一個100円でしたので。 
花屋にもよってるので、だいぶお店がこのころにはオープンしてたと思われます。 
電気、プロパン、断水も解消し、私が住んでた地域は津波被害もなかったので、相当恵まれてたんではないかと思われます。 
炊き出しもなかったし。 
アパートも修繕が早くて、4月にはアパートに戻れてます。 

ただし、決まっていた新しい就職先が本社が石巻で、津波被害が甚大だったために会社ごとなくなり、就職先がなくなりました。  
この後の人生、色々かわったなぁと思っています。人生観もかわりました。 
4月末にはストレスで上が抜けはじめ、暫くカツラ生活に入ります。なので能登半島地震被災地の方々のストレスが心配です。なんといわれようが被災してるんだから、我慢はしないで欲しいなぁと思っています。


 



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