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【短編】ハシ

(2,099文字)

「イエを買ってもいいかな」
 夫が言う。
「そんなの無理に決まってるでしょ。まだマンションのローンだって随分残っているのよ」
「少し援助してくれよ」
「だから無理だって言ってるじゃない」
「あと一万円ほどあれば何とかなるんだが……」
 どうも会話が噛み合わない。私は、夫の側に回り込んで冊子を覗き込んだ。
「何だ、絵じゃない」
「だから、さっきからそう言っているだろう」
「家を買うって言うから、驚いたのよ」
 私は値段を確かめて、
「それだったら、玄関に飾るのに丁度手頃でいいんじゃない」
 そこで、はたと気づいた。

「ねえ、あなた。『え』って言ってみて」
「ぃえ」
「やっぱりね。あなたの『え』は、『ぃえ』か『いえ』に聞こえるわ。それも方言かしらね。外では気を付けた方がいいわよ」
 夫は、納得がいかない顔で、その後も繰り返し発音していた。意識して言えばちゃんと『え』に聞こえる。だけど、そのことは未だ夫に教えない。
 ひらがなには、今は使われないが、古文などに見られる『ゑ』や『ゐ』もある。夫のことだ、もしかしたら『ゑ』は『ぃえ』と発音したかも知れず、そうしたら俺のが古来日本の発音だったかも知れないじゃないか、などと反撃を喰らっては面白くない。
「きっとそうだ」「違います」
 そんな不毛な議論はなるべく避けたい。


 二三日して。
「ほら、ここを読んでみろ」
 夫が、付箋を貼り付けたページを広げながら、新書本を差し出した。
「何? どれどれ」
 黄色い蛍光ペンで、読ませたいところに線引きしてある。

『では端・ハシとは何でしょう? 端=中心から離れた外界に近い所、あるいは先端。……こちら側の世界と向こうの世界をつなぐ装置が橋であり、食物を口へつなぐ道具が箸。そして上の世界と下の世界を垂直につなぐのが梯であり、斜めにつなぐのが階なのです。』

知っているようで知らない日本人の謎20:大森亮尚著:株式会社PHP研究所

 私が読み終えるのを、夫はもどかしそうに待っている。私が顔を上げると、夫はじっと私の反応を伺っている。
「それで?」
 私は、とぼけてみた。
「なっ。そこに書いてある通り、元々は同じなんだ」

 なぜ夫がこんな話をするのか、もう少し趣旨が見えるまで泳がせてみる。
 全く、こんな本、一体どこからか見つけてきたのだろうか。
 『箸』と『橋』と『端』。夫は、全て『はし』とほとんど抑揚を付けずに発音する。
「『橋』を持って、ご飯を食べるの」
 そう言って私がしても、一向に直らない。そもそもその気配さえない。

「それで」
「それでってことはないだろう」
「でも同じ発音するって、どこにも書いて無いじゃない」
「元を正せば同じだってことだ。確かに抑揚まで同じだったとは書いてない。だがな前にも言ったが、俺の実家のある辺りは、その昔平家の落人が隠れた里があったという伝聞があるんだ」
「それで」
「だから、昔の発音がそのまま残っていてもおかしくない。つまり俺の方が、原日本語、すなわち本来の日本語かも知れないってことさ」
「はい、はい。でも子供達には移さないでね」
 不毛な議論を避けながら夫と意思疎通を図る裏側では、それなりの努力を要する。


ある朝。
「今日の天気は?」
 夫が玄関で靴をきながら尋ねる。朝のこの時間はテレビが点けっぱなしである。
<……さて本日、関東南部は夕方から雨の予報です。遅くなる方は、折りたたみ傘を持って行く方がいいでしょう……>
 今何時? まずい。子供達を起こす時間がうに過ぎている。
「雨よ、持ってって」
 階段を駆け上がりながら、玄関に向かって叫ぶ。夫が分かったと右手を挙げるのを視野のはしとらえる。
「いってらっしゃい」
 夫の背中に声を掛けて、子供部屋へ走る。
「遅刻するわよ。ほら、起きて」
 体を揺さぶって三度目でやっとうごめき出した。やれ、やれ。
 それからの半時間は戦場さながらだった。子供達を送り出して、やっと人心地が付いた。
 あっ。
 私は間違いを犯したことに気付いた。「飴よ、持ってって」と言ったことに。

 外れろと願う時の天気予報ほど、よく当たるものはない。

「今朝は、ごめんなさい」
 私は、帰宅した夫に開口一番謝った。
「えっ、何が?」
「雨よ。濡れなかった?」
「いや、ちゃんと傘を持って行ったからな」
「今朝、私、間違えて『飴』って言っちゃったの」
「だから、『雨』だろう」
 私は、その時になって『アメ』も要注意単語だったことを思い出した。
「あーぁ、何だ、謝って損した。さっきの『ごめんなさい』、返してよ」
「返せって、何だよ」
 夫は訝しげな目で、私を見る。
「ああ、いやだ。あなたのが移ったのよ。あなたのせいよ。返して」
「よく分からないけど、ごめん」
「よし」
「それでいいのか。全く、変な奴だな」

夕餉の用意をしながら、
「あなた、もらい物だけど、牡蠣かきがあるの。食べる?」
「おう」
 あっ、注意すべきはまだあった。
「牡蠣よ、生牡蠣よ。海の方の」
「ああ、おれはカキもカキも大好物だ」


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