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【短編】髭(ひげ)

(3,493文字)

 どうも妻の様子がおかしいと気づいたのは、二年前の春だった。
 数時間前に掛けたばかりなのに、また掃除機を引っぱり出している。
「さっき、やったじゃないか」
「あら、そうだったかしら。でも、いいじゃない。きれいになるんだから、何回やっても」
「それは、そうだが」
 その時は、それで済ませたが、その後同じようなことが何度も続くようになった。
 ――あるいは。

 私は、いやがる妻を引っ張って脳神経科を訪ねた。
 若年性アルツハイマー型認知症。
 医者の口から出たのは、いちの希望をも否定する病名だった。
「でも今は良い薬もありますから、それで進行をかなり抑えることもできます。まあ個人差がありますから一概には言えませんが、発症から十年以上経っても普通に生活をしている人もいらっしゃいますよ」
 彼は私の肩を優しく叩いて励ました。
 しかし非情なことに、妻の場合は医者が説明しなかった悪い症例の方だったようだ。

 ある日、小火ぼやを出した。妻はガスコンロを使っていることを忘れて外出したらしい。たまたま訪ねてきた娘が発見したため、大事にならないで済んだ。
「お母さんが、いないの」
 娘からの緊急電話に、私は会社を早退して家に戻った。
「あんな体でどこへ行ったんだ?」

 私達が必死で近所を探し回っている頃、妻は帰り道が分からなくなって二駅先の交番で保護されていた。警官に聞かれても名前さえ答えられなかったそうだ。やっと妻が住所を思い出し、交番から連絡が入ったのは、日付が変わった頃だった。
 私には仕事があり、娘にも家庭がある。四六時中、妻に張り付いていることはできない。かと言って何か事が起こってからでは取り返しが付かない。
 仕方なく、私は妻を施設に入れることにした。

「自分の年も忘れて、若返れるかしら」
 入所の日、軽口を叩く妻。うわずる語尾で精一杯強がっているのが分かる。それがやり切れない。
「何、馬鹿なこと言ってるんだ。お前が良くなって帰ってくるのを、ずっと待っているからな。俺のこと、忘れたら承知しないぞ」
 今の私には、妻の負けず嫌いの性格を刺激して、気持ちを鼓舞してやることぐらいしかできない。
「当たり前じゃないですか。死ぬまで、いいえ、死んだって忘れるものですか」
 妻は、私のあご髭をでながら笑った。


 調子がいい時は、私を遠くから見つけて微笑みながら手を振る。
 妻はあきれるほど細かいことまで覚えていて、それを一つ一つ私に移しながら、新しい記憶から順に失っていく。そして二人の思い出は私の中でり合わされて一つになる。
 ただ、この頃、段々虚無の世界にいる時間が長くなってきた。表情が消えた顔は、私を恐怖に陥れ、絶望の淵に立たせる。

「あなた、どなた?」
 どうと言うこともない単語の組み合わせなのに、世の中にはこれほどまでに残酷な言葉があるのだということを、私は初めて知らされた。
 私は衝撃のあまり、その場から逃げるように立ち去った。

 しばらく施設の周辺をぶらつき心を落ち着かせてから戻ると、
「あら、あなた、どうしたの。ひどく疲れているみたい。体には気を付けてよ」
 と気が抜けるほどのんびりした言葉が返ってきた。妻は日に何度も現実と虚無の世界を行き来する。妻はついさっきのことさえも覚えていない。
 それからも幾度となくそのじゆもんを聞いた。その度に心の芯がすーっと冷えていって、何とも言いようのない不安が心におりの如く積もっていく。そういう感覚は度重なるにつれて少しずつやわらいでいったが、いつまで経っても決して慣れることはなかった。

 妻は、私にさえ小さなことでもお礼を言った。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
 どちらの言葉を使うかで、私は妻のその日、その瞬間の状態を見分けたものだ。

 施設の医者に相談すると、彼は誠に残念ですがと前置きして、近いうちに私のことも分からなくなるだろうと告げた。

「ご機嫌よう。どこかでお会いしましたかしら」
 私はその言い回しで彼女の彷徨さまよう時代が分かった。私が看護師に目で問うと、車椅子の後ろで彼女が小さく横に首を振った。恐れていた日がついに来たようだ。覚悟はしていたつもりだったが、私はしばらく口が利けなかった。その間も、妻はジッと私をうかがっている。
「いいえ。友人のお見舞いに来たんですよ」
 私は動揺を隠しながら、そう答えた。
「まあ、そうでしたの。随分お髭が立派な方ねって、先ほどから拝見していましたのよ」
 彼女は少し首を傾げて微笑んだ。その仕草と口調に懐かしさを覚える。

 私は、彼女の視線が時折、中庭に出るドアの方に向くことに気づいた。
「どなたかを、お待ちなんですね?」
 私は振り返りながら尋ねる。彼女は目を伏せた。頬がほんのり朱に染まる。
「ええ、とても気になる男性かたが……」
 彼女は消え入るような声で忍ぶ思いを漏らした。

 今、彼女は大学の二回生で、食堂に併設されたオープンカフェにいる。そして彼女の目には食堂の出入口が見えているはずだ。
 彼女の少し気取ったような昔風の話し方は、祖母の影響だと後に知った。
「私、お祖母ちゃん子だったから。普段はそうでもないんだけど、緊張するとそれが出ちゃうの」
 私がからかうと、「もう、いじわる」と小さな拳で私をぶつ真似をしたものだ。

「ほう。それはうらやましいじんですね。どんなお方ですか?」
 からかっている風でもなく、かといって余り堅苦しい口調にもならないよう心がける。悲しいかな、年を重ねるに連れて、いやおうなくそんなすべがも身につくものだ。
「同じクラブの先輩で、背が高くて、優しくて。そういえば、どことなくあなたに似ている気がいたしますわ。そう、目元や声の感じが……」
「それは光栄ですね」
「あら嫌だわ、私ったら。初めての方に失礼なことばっかり申し上げて……」
「構いませんよ」

 彼女は、緩く握った手の甲側で口元を隠すようにして、ころころ笑う。
「だからかしら、初めてお会いした気がしませんのよ」
「実は、私もそうなんですよ」
「あら、お上手ですこと」
 またもころころと笑った。
「それで、あなたの気持ちを相手の方には?」
「私からなんて、とても申せません」
 彼女はうつむいた。
「そうですか。でもきっと、その方もあなたのことを良く想ってますよ」
「本当に?」
 上げた顔がぱっと輝く。
「ええ。本当ですとも」

 事実、私はその数日後、その場所で彼女に交際を申し込んだはずなのだ。その二ヶ月ほど前まで存在さえ知らなかった彼女だったが、今では私の体の一部となっている。そして私をとりこにしたあの笑顔が、今こんなにも私を苦しめることになろうとは、その時の私は考えもしなかった。
 二人で描いていた未来は確かに同じ方向を向いていたと思うが、こんな結末ではなかったはずだ。本当にこの世はままならない。

「立木さん、少し風が出てきましたよ。そろそろ部屋に戻りましょうね」
 看護師が声を挟む。私はまだ会話を続けていたかったが、妻の顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。この頃、記憶が消えるのと同じ速さで体力も落ちていくように見える。
「お付き合い頂いて、ありがとうございました。では、ごきげんよう」
 妻は胸の前で小さく手を振った。看護師が私に会釈して、車いすの向きを変える。それを機に私もきびすを返した。
 明日には、妻は私と出会う前の娘になるだろう。私は、二人での最初の、そして最後となる思い出を受け取った。


 一ヶ月後。妻はえんから肺炎を起こした。高熱が続く。最初の二日間は私が付き添っていたが、三日目は私の体調を案じた娘が替わってくれたので、私は自宅に戻った。シャワーを浴びて、ベッドに横になろうとしていた。
 その矢先だった。
 妻の容態が急変した。娘からの報せを受けて、私は濡れた髪もそのままに病室に駆けつけた。病室に飛び込んだ私に、立ち会っていた医者は小さく首を横に振った。ベッドの傍に座った娘が、目にいっぱい涙を溜めて振り向く。
「お母さんが……、お母さんが……」
 うん、うん。
 うなずきながら、妻の手を握りしめた。すっかり小さくなった手の甲に、あご髭を押し当てる。ぴくりと指先が動いたきり、妻の手から力が抜けた。

 妻は私との約束を覚えていてくれたのだろうか。
 妻が触れた辺りをそっと撫でてみる。


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