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【短編】なごり雪(2/2)

(3,714文字)

 金沢街道を歩いて、鶴岡八幡宮に向かう。
 明子は岡村の腕を取って歩く。二の腕に明子の胸の膨らみが当たる。岡村は離そうとするが、明子は更に押しつけるように腕をからませてくる。コートの上からでも分かるくらい、若さが弾んでいる。無邪気なのか、挑発しているのか。岡村は判断が付かないでいた。
 明子は平気な顔をしている。流石さすがに岡村は、傍目に自分たちがどういう風に見えているか気になった。

「休みの日は、何しよっと。仕事?」
「うん、そんな時もある。あとは、小説を書いている」
「へぇ、岡村さんって作家ね。すごかね」
 目を丸くする。
「まだまだ素人の遊びさ。すごくも何ともないよ」
「どんなこと書くと。いやらしか話とかも書くと」
「いや、普通の話。実は、今日の君とのことも書いたんだ」
 不思議そうな目で、見る。

「驚いた。なしてうちが電話してくるって分かったと」
「まさか。分かっていたら書けないよ。空想して書くから面白いんで、現実を書いたら生々しいだけだよ」
「ふうん、そういうもんね。ところで、どがん話ね」
 話の筋に興味がいたらしい。組んだ腕を強く引っ張る。
「言わぬが花さ。もし、出版されるようなことがあったら、送ってあげるよ」
 さらりと、逃げた。

 岡村は、小説の流れに沿って鎌倉を案内していた。小説と現実とでは、同じ結末になるわけもないが、その方が少しは登場人物に血が通うかも知れないと思ったからだ。
 三の鳥居をくぐって源平池を左右に眺めながら、鶴岡八幡宮の本宮へと歩を進める。寒ぼたんの時期は終わったが相変わらず人通りが多い。

「ここが、若宮堂、別名舞殿ともいう。その昔、静御前が義経への思いをうたい舞ったところだ。
『しずやしず しずのおだまきくり返し むかしを今に なすよしもがな 吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき』
 とみながらね」
「岡村さん、詳しかね」
「そりゃあ、作家先生だけんね」
「まあ、冗談ばっかり」

 笑いながら、隠れ銀杏を横手に階段を上る。朱の楼門がのしかかるように迫ってくる。さいせんを上げ祈願して、左手に回る。
 今日は日がいいのか、結婚式が行われていた。丁度、新郎新婦が本宮の方に向かっているところに出くわした。明子の目が輝く。通り過ぎた後もしばらく後ろ姿を見送っていた。
「さあ、行こうか」
 うながすと、やっと振り向いた。

うらやましいんだろう」
「うん、ちょこっとね」
「この辺りで、昼食にしよう。源氏山周辺にはあまり店がないからな。嫌いなものはない?」
「うちは、何でん大丈夫よ」
「じゃあ、和食でいいか。美味しい田楽の店があるんだ」
「任せる」

 『田楽の店』と書かれた暖簾をくぐる。岡村は田楽膳を二人前注文した。料理が来るまで、明子の学校の話を聞いていた。膳が運ばれてきた。味噌の焼けた香ばしいにおいが漂う。
 二人は、料理に舌つづみを打った。


 少し遠回りになるが化粧坂を回る。名前は優雅だが意外と坂が険しい。坂を上って源氏山公園に辿たどり着く。岡村はすっかり息が上がっている。日頃まだ若いと思っているが、こんな時に老いを感じる。明子も上気した顔をしている。吐く息が白い。
「結構きついなあ」
「本当、きつかね」
 笑いそうな膝を無理矢理押さえて、そこから南に下ると宇賀福神をまつる銭洗弁天がある。

「ここは、鎌倉五名水の一つ『銭洗水』、銭洗弁天だ。この水でお金を洗うと百倍になるそうだ」
「本当?」
「私は、これまで何回も一万円札を洗ったけど、未だに貧乏だ」
 明子はけらけら笑った。
「うちも、少し洗っていこうっと」

 銭洗弁天を下った先で、焼き芋を買った。大きめのを一つ買って二つに分ける。ふうふう吹きながら、熱いうちに頬張る。すっかり冷え切った身体に、ほっかほかの焼き芋が再び熱を与えてくれた。
「岡村さんは、田舎に帰らんと?」
「もう、五年間帰っていない」
「そうじゃなくて、ずっとこっちにおって、戻らんと?」
「ああ、もう無理だな。オイルショックって言っても、もう君たちには分からないだろうが、その影響で就職難でね、地元ではほとんど求人がなかったんだ。いつかは、故郷へ帰ろうと思いながら、もうこんな歳になってしまった」

「歳って、まだ若かよ」
「子供のこともあるしな。それに、もうやり直しが効く歳でもないしね」
「ほら、また、歳って」
 岡村は苦笑した。明子と話していると、まだまだ何でもできそうな気がしてくる。歳だ歳だとやる前から半ば諦めかけている自分がおかしかった。
「そうだな」
「そうよ」


 鎌倉の街は、車を使うには狭すぎるし、歩くには広すぎる。バスを利用するにしても、駅を中心に走っているため思ったより不便である。観光場所が四散しているため、いくつか見たい所を決めて、閑静な街並みや山間の道を縫って歩くのがいい。

 途中の喫茶店で一休みして、高徳院の大仏までは歩いていくことにした。
 白壁をあしらった朱塗りの仁王門をくぐると、正面に大仏が威風堂々と鎮座している。明子はその大きさに威圧されている。
「大きかね」
「平和祈念像よりちょっと高いかな」
 大仏の正面に延びている石畳を進んで、近づけば近づくほどその迫力に緊張が高まって来る。

「写真、撮って上げるよ」
「うちばっかりじゃつまらんよ。いっしょに撮ろう」
 明子が近くの人に頼んで、シャッターを押して貰う。大仏をバックにして、明子がまた腕を組んできた。
 はい、チーズ。
 そのタイミングで明子は岡本の腕をぐっと胸に引き込む。岡本は顔がにやけないようこらえた……つもりだ。
 明子の思い出に自分も一緒に焼き込まれてしまった。二人の人生が交わる一瞬。岡村は面はゆさを感じた。

 参道を長谷駅に向かって歩く。
「帰ったら、どうするつもり?」
「取りあえず勤めて、その後のことは、未だ考えとらんと」
「結婚とかは?」
「うん、未だね。結婚するなら、うち、岡村さんみたいな人がよか」
 明子が真顔になった。

「うち……よかよ……」
 か細い声が震えている。
「えっ?」
「……よかよ……岡村さんとなら」
 明子は、顔を伏せる。組んだ腕に力が加わる。明子の高ぶりが伝わってくる。再び、岡村の芯がうずく。
 明子から電話があったときから、岡村の中にこういう展開を期待する気持ちがあったのは否めない。
 だが今日一日、一緒に行動して明子という人間を少しだが知った。その上で、岡村の中のジェントルで感傷的な部分が、明子への想いをそんな形で終わらせることを拒んでいる。
 明子は束の間の夢に酔っているだけだ。明子をただの行きずりの女にはしたくはなかった。
「ありがとう。嬉しいよ。でも、君にはもっと自分を大切にして欲しい」
 明子はうつむいたまま、うんとつぶやいた。


 長谷の駅に着く。江ノ電に再び乗り込み藤沢に向かう。電車はかなり混んでいた。岡村は、明子を抱きかかえるようにして吊革につかまっていた。
「君に会えてよかった。若返った気がするよ」
「まだ、そがんこと言って」
「また、どこかで会えるといいな」
「うん」

 藤沢に着いたときは、かなり日が傾いていた。
「送っていこうか。車は、ここに停めてあるから」
「よか。うち、小田原から新幹線で帰るけん」
「そうか。これは今日の記念に」
 使い捨てカメラと『わたしの鎌倉』という雑誌を渡そうとした。
 突然、明子が胸に飛び込んできた。岡村は少し慌てたが、しっかりと受け止めた。

「人が見てるよ」
 周りが気になるが、明子は離れようとしない。
「もう少しだけ。うち、今日のこと忘れんよ」
「私もだ」
 明子の潤んだ瞳が、胸をかき乱す。岡村は目を閉じて、明子の手を解いた。

「ありがとう。さよなら……」
 明子は電車に乗り込む。全てを断ち切ってドアが閉まった。ガラス窓に明子が手のひらを押し当てる。岡村もガラス越しに手のひらを重ねた。明子が頬を濡らす。涙が岡村の心に染みた。
 おそらく年を重ねるにつれて、この後悔はもっともっと大きくなっていくはずだ。
 それでいい。思いっきり未練を残して、ずっとずっと後悔を引きずりながら生きてやる。

 発車のベルが鳴った。
 明子の唇ががゆっくり動いた。多分「バカ」と……。
 明子を乗せた電車は滑るようにホームを離れていく。
 これでいい。二人の人生は、多分もう二度と交わることもすれ違うこともない。

 白い物が、そこはかとなく舞うホーム。明子は、忙しさの合間にひとときの安らぎを与えてくれた雪の華だ。落ちるそばから溶けるこの雪のように、この想いも淡いままでいい。
 明日になれば、唇の熱さも柔らかさも心のうずきまでもはかなく消えてしまう。

 電車の影が見えなくなっても、岡村はホームにたたずんでいた。

 ちらりと雪片が頬をかすめて、岡村の微熱を奪っていった。


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