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【短編】公園にて

(4,268文字)

 ――指の間からこぼれ落ちる砂を見て、悲しいと歌ったのは石川啄木だったかしら。
 それはふっと頭に浮かんでは直ぐに消えた。
 三月に夫の転勤で埼玉県のH市から都心に近いこの街に越してきて、二週間になる。
 ここは夫が言う通り交通の便がとてもいい。自宅は駅からバスと徒歩で十分ほど。主立った公共施設はバスで更に一駅行った所に固まっているし、歩いて行けるほどの距離にスーパーや幼稚園もある。それに母が入院している病院が近くなったのも助かる。何より嬉しかったのはH市では生活必需品だった車を手放せたことだ。
 夫は不満そうだったが、これは家計的にかなり大きい。
 ――部屋が狭くなって数も減ったのは残念だけど……。
 私はほぼほぼ満足していた。

 だが、今日四歳の娘と一緒に来た近くの公園には失望させられた。
「ママ、ここ、公園じゃないよ」
 娘の不満にもうなずける。それはテニスコート一面ほどの広さしかなく、周りに植えられた数本の桜が笑っているのがあいきようだが、遊具はわずかに鉄棒と滑り台だけで、あとはベンチが二基と小さな砂場があるだけだった。
 H市はここよりずっと田舎だったにせよ、車で十分程度の距離にあった公園は東京ドーム五個以上の広さがあり、遊具も豊富でそれこそ一日中遊べた。それに草木の種類も多く、水をたたえた池に映えて、四季折々で楽しめたものだ。

「今日はここで我慢して。今度遊園地に連れて行ってあげるから」
 ――車の分を少しは貯金に回せると思ったのに……。
 思わぬ出費に溜息が出る。途端に満足度メーターの針が一気に半分辺りまで下がった。
 遊具は先に来ていた子達が占拠していて、当分空きそうもない。仕方なく砂場で遊ぶ。
 後で知ったのだが、この頃は事故防止を理由に遊具が撤去されることも多いのだそうだ。確かに一時期その種のニュースがよく流れて、私は少し違和感を覚えた記憶がある。

 遊具に限らず、危険はあらゆる所に存在するし、事故はいつどこででも起こり得る。とかく子供はをするものだ。頭をぶつけたり、ひざをすりむいたり、そうやって痛い思いをして、身を以て危険というものを学びながら育つものだ。
 そうでないと大人になって大怪我をすることにもなりかねない。
 私もそうやって大人になった。


 いつだったか。
 おそらく私が小学二年生に上がったばかりの頃で、弟はまだ幼稚園に入る前だったと思う。当時団地に住んでいた。私達はそこにあった公園でよく遊んでいた。
 その日も、夕方になってお腹がすいたとむずがる弟をなだめながら、母が呼びにくるのを待っていた。
「ねえ、ママが忙しいの、わかるでしょ。チャイムが鳴ったら自分から帰ってきてよ」
 母は声を荒げる。私は目を伏せた。
「お手伝いもしてよね。もう、お姉ちゃんなんだから」
 私は黙って頷く。

「いい子ね。さあ、帰ろう」
 私は上目遣いに母を見た。弟の手を引く顔がやわらぐ。私はとぼとぼと母の背を追いながら、心の中で(お姉ちゃんになんかなりたくない)(いい子でなくてもいい)と何度も呟いていた。
 思えば、あの頃はわざと母の言いつけに逆らってばかりいた気がする。しかられるのは嫌だけど、少なくともその間だけは私を見てくれる。弟にばかり向いている目を、どうすれば私に戻すことができるのだろう。そんなことばかり考えていた。


 そんなある日の午前中。
 母がこれから出掛けると言う。先ほどの電話から察するに、友達からでランチの誘いのようだ。父は日曜日にも関わらず出勤していた。母は少し迷ったようだが、たまには羽を伸ばしたいという気持ちが勝ったのだろう。母は支度しながら、
「トイレは二時間おきに行かせてね。お昼は冷蔵庫にあるからチンして食べさせて。あと、今日は外に出ないで部屋で遊ぶのよ。いい、出来る?」
 と弟への指示を細かく並べた。私は黙って頷く。
「三時までには戻るわ。ケーキでも買ってくるわね」
 母はバスの時間を気にしながら足早に出て行った。

 そして午後。お腹がくちいた弟は昼寝した。私も少し横になった。どれくらい経っただろう。目覚めると弟の姿が見あたらない。慌てて外を探すと、よちよちと公園に向かう姿があった。
「外で遊んじゃ駄目だって!」
 両手でメガホンを作って声を張り上げたが、弟には届かない。
 ――もう。あれほど言ったのに。
 私は靴を突っかけて飛び出した。息せき切って公園に着いた時、弟は滑り台の階段を上っていた。
「ちょっと待ってて」
 私は息を整える間もなく滑り台を目指して走る。その時、弟は階段の上から二段目に立ち、踊り場の保護枠へ、おずおずと手を伸ばしていた。

 ここの滑り台は、階段の手すりと保護枠との間にちょっとした隙間がある。私はその間を片手ずつ持ち替えて掴みつつ上れるが、体の小さい弟はまだそれが上手くできない。それで一旦手すりから両手を離して、それから保護枠を掴み直していた。だがその様はへっぴり腰でどうにも危なかしい。だからいつもは母か私が直ぐ後ろで弟の体を支えるのが常だった。

 ふらり。弟の上体が揺れる。私は思わず「あっ」と大きな声をあげた。驚いた弟が振り返る。その途端、弟は大きく体勢を崩した。私はとつに手を伸したが、弟はその少し先を頭から落ちていった。
 どすっ。鈍い音がした。
「きゃーっ」「子供か落ちたわよ」
 周りが騒然となった。
「早く救急車を呼んで」「急いで」
 誰かが叫んでいる。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
 どこかのおばさんの声が遠くに聞こえた。私は黙って頷く。弟は首を変な角度に曲げたまま、ぴくりとも動かない。私は弟を凝視したまま、たたずんでいた。


「私が外出したばかりに」
 母は自分を責めた。心では私のこともさいなんだことだろう。母は部屋にもりきりになった。一日中泣いているようだった。時たま悲鳴ともうなり声とも付かない音がれてきては、私をおびえさせた。母はろくに食事もらず、日に日にさらばえていった。このままでは命に係わると、父はやむなく母を入院させた。

「お母さんに会いたい」
 私は涙ながらに父に訴えたが、なかなかかなわなかった。母は病院でも発作的に泣いたりわめいたりするのだそうだ。
「容態が落ち着くまでと医者が言っているから、もうちょっと我慢してくれ」
 父はそうさとした。
 やっと面会の許可が出たのは実に半年近く経ってだった。


 待ちに待った日。父に連れられて病室に行くと、母は窓の方を向いてベッドに腰掛けていた。どんよりとした目を宙に漂わせていた。
「おかあさん!」
 私は駆け寄った。母はゆっくり振り向いたが、私を認めるや否や形相を一変させた。ガラス玉みたいだった目に光が戻り、憎悪とも怒りとも付かぬ色を浮べた。父は即座に私を抱き止めて、体を回しながらその背に隠そうとしたが、間に合わなかった。
 ぎゃあーっ。
 母は暗いほらみたいな口から耳をつんざくような声を発すると、転げるようにベッドから下りて、四つんいのまま私をにらんだ。私はその視線の鋭さに思わず身をすくめる。しかし直ぐに母の態度は一転した。恐怖に顔をゆがませ、あたふたと逃げ惑い、ついには部屋の隅で頭を抱えて震え出した。

 この間、ほんの十秒足らず。私は息を凝らして、そんな母の姿態を見つめていた。
「大丈夫だ。お母さんは久しぶりにお前に会ったんで、少し興奮しただけだ」
 父の大きな手で頭をでられると、私は父の胸に泣き崩れた。
 騒ぎを聞きつけて二人の看護婦が駆けつけた。父が年配の看護婦にいきさつを説明する。その間に若い方が母の側に膝を突いて背中をさすった。耳元で何事かささやくと、母は彼女に取りすがった。彼女が優しく抱きしめると、母の体から見る見る力が抜けていくのがわかった。そして表情が消え、元のガラス玉に戻った。

 その後、父と医者との間でどんなやりとりがあったかわからない。再び会うことが許されたのは、また半年ほど後のことだった。月に一度、しかもドアの小窓から覗くだけという条件付きだった。話すことも触れることもできない。
「こんなの、いやだ」
 私は駄々をねた。だが父に「もう二度と会えなくなってもいいのか」と突き放されると、否応なかった。
 それからというもの、母への思いが満たされないまま、時間だけが過ぎていった。
 結局何の制約もなく会えるようになったのは、私が高校生になってからだ。その頃になると元々父親似だった私の風貌は、卒業以来久しぶりに会った小学校の同窓生が気づかないほどに変わっていた。


「ママ、どうかしたの?」
 娘の声で引き戻された。娘が心配そうに覗き込んでいる。知らず眉間にしわを寄せていたらしい。
「ううん、どうもしないよ」
 私は笑みを作りながら小さく首を振る。
「お山、できたよ」
 娘は得意げに笑う。娘は子どもの頃の私に驚くほどよく似ている。
「あら、上手ね。もっと高くしようか」

 手のひらで砂をすくっては、さらさらとその上に零す。何度か繰り返すうちに歌を思い出した。

いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ

 そう。あの時、私の手からこぼれ落ちた命。砂でたわむれる娘に弟の姿が重なる。
 ――ごめんね。
 私は弟の名をつぶやいた。熱いものが溢れ、頬を一筋伝い、砂を黒く染めた。娘に悟られないようにさり気なく袖で頬を拭った。
「さあ、そろそろ帰ろうか」

 公園の入口横にあった水道で手を洗いながら、
「明日、おばあちゃんのお見舞いに行こうか」
 と誘う。
「いやっ!」
 娘は言下に拒否した。
「だっておばあちゃん、すごく怖い顔するんだもん」

 それは三ヶ月ほど前、試しに娘を連れて面会に行った時のことだ。案の定、一騒ぎあった。だが即座に対処したので、大した混乱はなかった。
「そんなこと言う子、ママ、悲しいな」
 私はハンカチで目頭を押さえる。
「初めてだったから、おばあちゃん、びっくりしたのよ。きっと」
 娘は口をとがらせながらも、黙って頷いた。
「いい子ね」
 私は娘の手を取ると、いそいそと帰途に着いた。


 明日は久しぶりに母に会いに行く。また看護婦みたいな白いワンピースを着て……。



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