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ラップで視覚障害を考える〜ヒップホップが描き出すアライの未来形〜

11人もの視覚に障害のある人が参加した、ラップ講座があるという。
そこから、視覚障害や視覚障害をテーマにしたラップが生まれた。
しかも一流ラッパーの手によって。
と聞いたら、聴かないわけにいかないじゃないか。

『ラップ講座「しんがん/視覚障害って何?」』ってなに?

私がその講座を知ったのは、公益社団法人NEXT VISIONのサイトだった。
講座名は「しんがん(心眼・真眼)~視覚障害ってなに?視覚障害者ってどんな人? をみんなで考えるラップ講座~」。
長い。漢字の画数多い。記号だらけ。んーとっつきにくい。

サイトには
「全4回の日本語ラップ講座です。この講座を通じて、視覚障害ってなに?視覚障害者ってどんな人?を知り、気づき、考え、世界にひとつだけのラップにします」
とあった。

視覚障害、視覚障害者。世界にひとつだけのラップ。
こんな字並び、見たことない。ラップでなければ出会わなかったかもしれない言葉たち。だからこそ生まれる可能性。
とっつきにくいなんて言ってられない。これは絶対にアツいやつ。

まして協力は、一般社団法人日本ラップ協会。同会の代表であり、言わずと知れた人気ラッパー・晋平太が講師を務めるらしい。
氏はラップのトッププロであり、ラップを教えるプロでもある。しかもシリーズ全4回、のべ約4ヶ月。過酷。この講座、本気だ。
ここからどんな曲たちが生まれるのか。知りもしない素人のラップを、こんなに聴いてみたくなるなんて。私の耳に血流が集中した。

私はすぐに日本ラップ協会の公式YouTubeチャンネルにアクセス。
くまなく講座の様子を見て、楽曲たちを聴いた。何度も見返したものも、一つや二つではなかった。イッキ見して我にかえると、午前3時を回っていた。

そこにあったのは、ヒップホップだからこそ作れた関係性。
そしてラップという、ある意味で制約のあるアートフォームだからこそ引きずり出しえた、人生の言葉たちだった。
寝不足と引き換えにしてでも聴く価値はあった。

人生全乗っけのラップたち

参加者は11名。11人11様のラップを作り、発表していた。
ラップが基本とはいえ、ポエトリーリーディングに近い人あり、ブルースハープやウクレレを使う人あり。
もちろん失敗する人も。でもあの場所は、ウマいヘタを問うのではなく、ラップと、ラップする自分たちを、今この瞬間に全力で楽しめるかどうかの場所に見えた。

なぜなら。どの曲も1バース目から、なんとなくで作っていない、というのが聴き取れたからだ。
推敲を重ね、練習しまくっていた。そういう曲は、途中でトチっても聴けるものだ。間伸びしても待てるものだ。
この曲は、自分が聴き届けることで完成するんじゃないか。そんな勘違いさえ芽生えた。一所懸命は、魔法だ。

アーティストのすべてはファーストアルバムに結晶している、と誰かが言っていた。
「一生に一回だけかもしれない」でがんばった曲たち。みんな人生のすべてを乗っけてラップしていた。
おのおのが文字通り”お先真っ暗”を経験し、その先に自分なりの光を掴み獲ってきた。その道行きが、どオリジナル。これがアガらないわけがない。

”お先真っ暗”などと書けば、言葉選べよと自分でも思う。しかし、実際彼らの楽曲は、見えないことの苦しみや悲しみを歌ったものが多かった。もちろん不安も。
しかしそこからカラッと希望へ転調し、韻さえ踏んでみせるその姿は、まさしくクール。やっべ、すげーかっこいい。

その中でも、とくに惹かれた人たちがいた。

その一人が、まこっちゃん
私は彼を知っていた。というか「盲目 弁護士」で検索すると、必ず上位にくるほどの有名人。松坂桃李が彼を演じたドラマもあるほどだ。
私の印象に残った彼のパンチラインが
「母がくれた言葉は一つ 心が温かくなる方へ進め」。
彼のというよりは、お母さんのパンチライン。というのは、この際横においておく。
厳しい方の道を選べとか、行けばわかるさとか言うけれど。ここまで真理を突いた道標を、私は知らない。
私もきっと娘にいつか伝えるだろう。なんならすぐにでも使いたい。君の心が温かくなる方は、どっちだい?と。
ありがとう、まこっちゃん。いや、まこっちゃんのお母さん。

次いで、いしいし
本名、石井健介さん。「こころの通訳者たち」という名作映画に出演し、イメージソング「ユウキノウタ」も歌っていた人。
その曲でも、TOKYO No.1 SOUL SETを彷彿とさせるラップが耳に心地よかったのだが、今回はフロウを変えてきた。やはり上手い。きっとたくさん練習したのだ。
そのうえリリックが洒脱。
「まるでスティービー・ワンダーのように 今日も僕はそうだ笑うんだ
あれはなんだこれはなんだ 世界に溢れるセンスオブワンダー」
「光の世界 闇の世界 どっちの世界も大切じゃない? フォースとともにあらんことを 目指せクワイ・ガン ジェダイマスター」
洋楽や映画の他にも、邦楽、ファッション、古典文学、ラテン語の警句まで、幅広い引用を一曲に無理なく散りばめている。しかも一捻り加えつつ、ライミングも忘れない。
インテリジェントにしてポップ。おしゃれな人は、言うこともおしゃれだ。いや、おしゃれなことを言える人が、本当のおしゃれさんなのだろう。
いまだに暴走族がパラリラ走っている土地に住んでいる私には、わかりえない境地だった。

そして初瀬。
リリックの内容から、彼が全日本視覚障害者柔道大会の10 Times Championであり、パラリンピアンの初瀬勇輔さんだとわかった。
嘘をついた。ラップを聴くまでもなく、戦闘力の高さが漏洩しているその佇まいから、すぐに彼だと気づいた。
「社会に出たいと就職活動 100社落ちても諦めず勝つぞ」
”活動”と”勝つぞ”で韻を踏んでる。素直な韻ゆえに、ハードなエピソードが際立つ。
それにしても、100社って。
日本一10回は、別の世界すぎて想像がつかない。北京パラ出場なんてもってのほか。
やっと共感できそうな就活の話かと思いきや、100 Times Rejection。やっぱりこの人は、格が違う。というか、文字通り桁が違う。
彼の作品は、ラップではなくポエトリーリーディングだった。訥々と言葉をつむぐスタイルだからか、繊細さと、深い影を感じた。
だから曲のクライマックス。一人の青年がタフになり、パラリンピックで日の丸を背負うまでになるその展開は、ジュブナイルストーリーとして一級品だった。
哀愁から興奮へ。感情のエスカレーションとカタルシス。「THE FIRST SLAM DUNK」にも似た聴後感。
少しビターな終わりが、大人な余韻だった。

ヒップホップの可能性、アライの未来形

他にも噺家さんや80代紳士のラップもあった。全11曲。ドキュメンタリー映画11本分に匹敵する情報量。
聴き終えると、湯あたりしたように脳がほてった。

しかし、この曲たちには続きがあった。NEXT VISIONのサイトには
「この講座を通して、晋平太が参加者の気持ちを代弁し、視覚障害や視覚障害者のテーマ曲となるラップを制作する」
と。

タイトルは「ひかり」。すでに公開され、正式にリリースもされている。
晋平太の事務所は、こうメッセージしている。
「視覚障害・視覚障害者のテーマ曲として制作されました。1人でも多くの方が視覚障害について“知り”、“考えるきっかけ”になってほしいという願いが込められています」

「ひかり」のクオリティは、解説しきれない。音楽でなければ、ラップでなければ表現できないなにか。分解したとたん重要なことがこぼれ落ちてしまうような。作品を知りたければ、聴くしかない。メッセージと表現手法の完全一致。

あえていえば、リリックがとてもストレート。視覚に障害がない人間が歌うには気後れしてしまいそうなほど平易な言葉使いで、視覚障害者の心情や、置かれた状況、希望が綴られている。
ややもすれば「わかったこと言ってんじゃねぇよ」「想像で歌うのは浅い」とディスられかねないような。

しかしこの曲においては、そのディスは的外れだ。
参加者たちの動画と見比べればわかる。バースに、サビに、参加者たちへのオマージュがあるのだ。
だけではない。おそらく全4回にわたって重ねられてきた会話から聞き知ったであろう、バックストーリーやサイドストーリーまで盛り込まれている。
対話。それを積み上げてきた者だけが鳴らせる響きが、この曲にはある。

そして思った。
これは代弁ではない。代読だと。
代弁なら、独りよがりにシャシャり出てもできる。
しかし代読は、託されないとできない。信用と信頼に根ざしていないとできない。
ラップはセルフボーストが基本。自分を誇り、いかにヤバいかを歌い上げる。そのなかで、自分はどこから来たのか、何を背負い、代表しているのかを突きつける。いわゆるレペゼンというアティテュードもある。
だから「ひかり」のように、自分を誇るのではなく、地元を代表するのでもなく、ましてストーリーものでもない。リアルな他人を代弁する楽曲は珍しいのではないか。
しかし「ひかり」では、それが成立している。

当事者性。その言葉が、私の頭をよぎった。
「当事者でもない外野は黙ってろ」「当事者が演じなくちゃ嘘くさい」
障害、ジェンダー、移民・難民、宗教など。社会的に少数とされる人たちが、自ら声を上げるならわかる。それはとても重要なことだ。
しかし。少数者をさらに孤立させ追い詰めるために、理解ある非当事者に牙を剥く発言を目にすることが多々ある。
「あなた、当事者じゃないですよね?発言する権利あるんですか?」

「ひかり」は、そんな暴論を寄せ付けない。
当事者じゃない?それがどうした。自分は関係者だ。出会ったからには、親しくなったからには。
つまり、レペゼン関係者。マイメンって知ってるか?

私はこの曲にヒップホップの可能性を感じた。
Peace, Love, Unity, and Having fun。
これらはすべて、人間関係にまつわること。非当事者は、当事者にはなれない。でも、ヒップホップを通して関係者になることはできる。「ひかり」は、まさにそれを体現している。
もちろん、かなりの勇気と覚悟と行動力が必要だったろう。けれど、晋平太はそれをやってのけた。

もう一つ。この曲の姿勢に共感したことがある。
ヒップホップはマイノリティから生まれたカルチャー。よって、ヒップホップ=マイノリティ=視覚障害者、という方程式で進めることもできたはずだ。
しかしこの講座と曲は、それを避けていた。少なくとも動画や楽曲には、その安直さは垣間見えなかった。
誰かを勝手にカテゴライズする愚かさ。そこに陥っていないところに、見識を感じた。

ダイバーシティにまつわるコンテンツを日々リサーチしていると、感じることがある。
政府や行政、企業が「マイノリティのみなさんに配慮してますよ」と、制度を作る時、ルールを作る時。つまり、誰かをマイノリティと指差す時。
彼らは、自分たちマジョリティが安全地帯を占拠している図々しさに気づいていない。
その先にあるのは、マジョリティに特化したルールを、マイノリティに押し付けるという横暴。あるいは、マジョリティがマイノリティを迎え入れると言う傲慢。
どちらにしたって、生きづらい人は、生きづらいままだ。無見識な善意ほど、始末の悪いものはない。

マジョリティとマイノリティ。人をカテゴライズしているうちは、解像度が低いのだ。人間理解が雑なのだ。
マジョリティとは、マイノリティの集合体の別名。首長や社長がそれをわかっていれば、少しはマシになるはずなのに。

晋平太は講座中、涙ぐんでいた。笑っていた。驚いていた。アガっていた。
そうやって氏が世界を知る目の解像度を上げていたとしたら。
勝手な想像の域を出ないが、視覚障害=マイノリティという図式がなかった理由は、そこにあるのかもしれない。
政府や行政、企業にとって、このスタンスは示唆に富むのではないだろうか。

アライ(Ally:味方、同盟者、支援者)。
セクシュアリティやジェンダーのシーンで使われることが多いが、本来はもっと広い概念でもいいはずだ。
そういう点で、晋平太のスタンスはアライの意味を拡張した未来形にも見えてくるのだ。

この講座と「ひかり」は一見の価値あり。ご興味のある方はぜひ。

(終わり)

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