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卑弥呼ってこんなのを食べてたのか🤔🍚🍱🐟🦪🍠🥩

国立科学博物館で開催されている和食展は今月末までである。

去年末に行って来たのでギリギリではなかった。

原始時代みたいな新石器時代、いや青銅器と鉄器時代の弥生時代において、碌な体制ですらなかった国がこんな見た目豪華な食事をしていたのか疑問に思う。

中国からの文化を取り入れていた筈だが、まだ文字が一般的に使われておらず記録を残すという社会ですらなかった筈である。

発掘作業が更に進んで文字による記録が出て来れば話は変わって来るのだろう。

弥生時代の遺物はどれも物品で文書を記したものは一向に出て来やしないのである。

鏡の縁に銘文とかが刻まれてたりするがそれは記録というものではなくてどれも輸入品ばかりである。

しかし何故中国(漢や魏)から輸入品がやって来るのだろう。

当時の日本は何を差し出していたのだろうか。

稲とか絹とか土器とかと言われているらしいが、魏志倭人伝にあるように「生口」も送っていたようだ。

農作物やら絹糸やらが輸出されるのは結局本邦が農場だったり工場だったりしていたのだろう。

工場だからこそ現場を取り持つ監督がいた筈で彼らこそ大陸からやって来たような人間だったのだろう。

生口と聞けば散々聞いて来たろうが多分奴隷などの身分だったのだろう。

資源に乏しいのだから人間の労力が必要になって来る。

東アジアで労働者や傭兵集めて普請していたのだろうか。

それならばあんまり人を攫い過ぎたら倭人の人口もなくなってしまうので比較的平和な時期に送り込んでいた可能性がありそう。

稲作が既に始まっていたので人口も増えていたのだろうきっと。

冊封体制なので倭国が当時から統一していた可能性もあるが半植民地的な献上システムが成立していたのかどうかさえ分からない。

態々漢や魏が生口を倭国から要求するのだろうかと思う。

戦争ばっかりやってるので傭兵やら労働者を集める名目とも考えられる。

大陸で動乱が起きると人々はそこから逃れて列島にまで落ち着くこともあるらしい。

稲作が北回りで伝わる以外のルートがあるらしく、山東半島や遼東半島の間にある渤海海峡を渡るルートもあるらしい。

陸路の北回りは燕に占有されているから海を渡る必要がある。

一つだけではなさそうである。

だが余りにも文献が少なく、漢人らは然程倭国に興味がないのが丸分かりである。

燕やら公孫氏を都度滅ぼして極東の交易を確保した中央は倭国の情報を掴むのだがそれまで取り持っていた燕や公孫が倭国の文献もなかなか残していないし、倭国も遼東のことについて何も残していない。

精々「カラ(韓)」としか伝えていない。

倭国自体も外国という概念が丸切り薄くて漢や魏や燕(公孫)や朝鮮半島の諸国に興味を持っていない。

外国は全て「カラ」であり、倭人の居留地を「ミマナ」と読んだと理解すべきだろう。

そもそも倭ですら他称なのそれ以前の話が出てこない。

歴史とは結局「報告」なので報告すべきことのみしか書かれておらずそれ以外の事柄は書く必要すらなくなっているのである。

人類が知恵をつけ始めると自分たちがライバルを蹴落として生き残ってきた理由を述べ始めるのである。

ライバル倒してもまだ権威は不安定なのでどれだけ自分達がここにいるかという説明をせねばならなくなる。

歴史とはそういう物であり、別に間違っていない。

戦後日本書紀や皇国史観が追放されて科学に基づいた歴史観が推奨されたが、結局これも科学と銘打っても進歩史観というイデオロギーを押し付けるだけだった。

砕くと、左翼が自分達がどれだけ正しかったのかという言い訳を教科書使って推し広めていたのである。

そんな左翼も最早風前の灯でなりふり構わず権力を手にしようと躍起になっているようである。

所詮こんなものであり、因果はついて回る。

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