コロナ脳となったオタクたち
アフターコロナの人々
コロナが指定感染症2類相当から5類へと変更されてから二十日以上経つ。
外を眺めても未だマスクを外せない人がいて外すタイミングを彼らは未だ掴めていないように見える。
それでもつけているのは8割程だろう。
電車の中でもまだマスクをつけている人も多い。
何れにしても暑くなるので愈々外さざるを得なくなるのである。
学校などの教育機関は既にマスクを外させるように促している。
明らかに子供たちへの悪影響を考慮してである。
しかし、当の子供たちは外せていない。
小学生や未就学児童は外せているようだが、中高生は全然である。
親の影響や学校の影響の一言で外せるくらい未だ小学生には自我が芽生えてないというのが救いなのかも知れない。
中高生は自我が確立し始めたこの3年間ですっかりと固定化されてしまった。
可哀想に自分勝手な大人の所為で彼らは取り返しのつかないことになってしまった。
洗脳は掛かった分だけ解くのにも時間が掛かるという。
また3年間程掛かるのだろう。
既にコロナに罹ることではなく、顔を晒したくないという感情になってしまったのである。
それだからこそ、彼らに整形圧が掛かってしまう。
広告は既に整形を勧めるものばかりになってしまっている。
整形は自己実現だから別に禁止すべきものではないが、一度そうした沼に嵌ると抜け出せなくなるのだろう。
そうでもしなきゃ外に出られないのは正直可哀想である。
色々な人を傷付けてしまった感がある。
しかし、若い人たちが社会に再び出ようとするきっかけが整形や化粧などの美容に対し、それすら思えない人々はどうなる?
外に出るきっかけすらなくなった儘の人はどうなるのだろう。
月並みだがオタクが社会復帰のきっかけを掴み損なった儘である。
小規模なイベントの声出しすら文句を言うオタクがまだ存在する。
本当に可哀想である。
風邪でしかないのに風邪に罹ってしまうことを非常に恐れてしまっている。
仮令自分が罹って、それを年寄りに罹患させて死なせてしまっても別にそれは罪ではない。
そうやって命を繋げ紡いで来た筈なのにそれが分からない人が多い。
風邪にも罹らず死ななければ120歳くらいかそれ以上に長生きするだろう。
人間は何らかのウイルスに罹って体をいつしか壊してこの世を去る。
風邪やウイルス以外の死因はあるだろうが、誰しもがピンピンコロリと逝く訳ではない。
それも分からなければ結局その人自身の中で時が止まった儘でしかない。
だからこそ、若い人の時間は尚更重要だったのである。
この3年間を只管無駄にしただけなのを認めたくないからずっとマスク着けた儘と共に意地を張るだけしかないのである。
あれは一体何だろうと思ってしまう。
どこまでも自分は偉かったのだと意地を張る。
文字通りの裸の王様なのに。
既に医者(医療従事者も含む)と名乗るような人々は撤退をしており多くを語らなくなってしまったが、医者とも分からないようなアカウントが青いバッジをつけて只管陰謀論を擦るようなアカウントに変貌していった。
コロナが通用しなくなったから陰謀論を擦って弄って再び自分が偉いんだと胸を張るようになったのだろう。
最早それすらも降りてしまった大衆だが、何者にもなれなかった者が偉いんだぞと誇るような娯楽が陰謀論擦りである。
昔、と学会がそうした陰謀論擦りをやっていたがあれも底辺サブカルの娯楽だったのかも知れない。
陰謀論に嵌る話はまた別の機会にするが、コロナ脳となってしまった人々も陰謀論者の思考回路と似ている。
初期の頃はコロナは若者がばら撒いているという思い込みが平然と罷り通っていた。
正直こんな妄言は何にも根拠はないのだが、外に出るのは比較的若者が多かっただけと言う話である。
高齢者が中々外に出ないのも単純に衰えによって億劫になってしまっただけである。
こうした因果関係も考慮することが出来ずに短絡的な思考に陥ってしまうのも陰謀論者やコロナ脳にありがちな共通点だったりもする。
正直陰謀論擦り系もコロナ脳だったりするのだが、いい子にしていれば誰にも迷惑を掛けずに済むという正に日本特有の世間に忖度する気持ちが罷り通っていたのである。
所詮弱い者虐めしか出来ないので日本独特の世間の空気に逆らえなかったりする陰謀論擦り系。
オタクがコロナ脳になってしまったのもこうした一度手に入れた信用がコロナに罹っただけで全て崩れ落ちてしまうのではないかという恐怖心から来るものだった。
失いたくなかった信用
3年前、K-1が世間の空気に抗い大会を開いたことで猛反発を食らったことがあった。
結局K-1はコロナの感染者一人さえ出さなかったのだが、ただ大勢いたというそれだけで皆が恐怖した。
感染対策も結局意味がないことくらい分かっているのだが、体調が悪く抵抗力が落ちた所でウイルスに感染するただそれだけでしかないのである。
そうしたK-1の開催強行を後目にビビったのがボクシングとコミケだった。
コミケは特に開催を見送り、参加者さえも開催を否定するような意見が多くなってしまった。
一度手に入れた信用が崩れるとはどういうものか。
コミケは宮崎勤の事件を契機に開催地を変更せざるを得なくなり、自分達が出しゃばらなければ自分達は安全で世間には安心を差し出すことが出来るとそう考えていた。
人間は長生きするとこうした30年前の記憶すら持ち込んでしまうものである。
こうしたいつまで経っても逃れられない呪縛がオタク達の中に存在していたのである。
山田太郎を送り出しても本質的には変わっていなかった。
実際に山田太郎を送り出してもゴールではなくて漸くスタートラインに立てただけなのである。
スタートラインとは即ち、他の人達と同じ立場でありフラットな状態になっただけ。
ピストルが鳴らされてもそれじゃあスタートダッシュが出来るかどうかでもあり、そして途中棄権もなく完走出来るかどうかなのである。
残念ながら、完走する前に心理的にお腹が痛くなって途中棄権するようなものになってしまった。
自分達の力を過小評価してしまい尻込みしてしまったのである。
直接とも言えるような政治的行使をしてもいないのにジャニオタ達の凡ゆる社会的文化的な影響力がどれだけあることくらい分かるものだろう。
オタクが現実的な力を手にした時点で既にマスコミからのオタクバッシングがなくなっていったのが分かって来る。
長野の政治家の息子による四人殺害事件では迷彩服に猟銃に引き籠もりと来れば大体「サバゲーマニアが悪い!」みたいな論調がこれでもかと襲い掛かっていたのだが、その空気すら醸成されていなかった。
趣味と犯罪を安易に結び付けるような報道が山田太郎の登場で出来なくなってしまったのである。
是非とも、このことに気付いて欲しい。
マスコミは社会の木鐸で野党も権力監視するみたいなこと言っていたが結局圧力団体の前には沈黙してしまう。
何も恐れることはないので大人数集めてイベントでも開けば良かった。
結局それが出来なかったのも本人達が腐女子の学級会宜しく「隠れていれば世間に迷惑かけない」と思い込んでいたのであり、そして「隠しているのに出しゃばったあいつを懲らしめてやろう」と内ゲバを始めてしまったからである。
折角手に入れた力を使えない愚かさとでも言える。
武器は使わなければ意味がない。
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