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新書『高学歴難民』読了。その感想と男女差、高学歴難民だった筆者の半生を少し振り返る

まず読了後の全体的感想を一言で

様々な高学歴ゆえに翻弄された人々の人生談、半生が次々と登場してくる。貴重な読み物として価値があると思った。高学歴は必ずしもメリットになるわけではなく、高学歴ゆえにデメリットを抱えることもありうるし、高学歴が必ず人生や社会的成功に繋がる訳ではないことは、改めて言うまでもなく真理であることが嫌でも理解できる現実世界の生きた証、エピソードが多数盛り込まれていて参考になった。

男性と女性の人生浮上・維持パターンの差


しかしながら、男性と女性の高学歴難民の人生難易度には差があるように感じた(特に第一章の『博士課程難民』)。そもそも目指すものが、研究職、文筆業、法曹といった実現確率が予測しにくいものであることが、人生難易度を上げているが、一度きりの人生では目指すべきものを目指すべきだとは思う。そしてそのチャレンジは女性の方が、男性へや家族への経済的負担を頼みやすい点で参入障壁が低い様に思う。だから男性は、実現が比較的予測可能な高学歴限定の資格職(医歯薬系学部入学)は、国公立であれば特にコスパ良く収入も保証されるため、高学歴難民予防にはうってつけである様に思うが、資格取得系は全員成功例であるから掲載はないのであろう。

さて、女性の体験談では、主にセックスワークにより経済的余裕を確保した人生設計が再現性高く実現できるが、逆は起こらない(男性のセックスワークは綿密なコミュニケーションなどを求められるホストなどあるが、性以外で必要とされるスキルや需要差などの問題で参入障壁が高く、非常に限られ、体験談中にはない)。「ヒモ」になり彼女に経済的に救済されるパターンもあれど、資産や人脈やビジネスを持つ男性との結婚や交際により人生が好転するパターンが圧倒的に多い。高学歴難民落ちした男性の場合は、ヒモは限られた才能を持つ男性しかできず、労働条件の悪い、高学歴と無関係の職業に就くことは本人のプライドが許さないが故にさらに救済が困難になる。

高学歴難民の構造

『男性難民は学歴のプライドに加え、男としてのプライドの高さが連帯を妨げ、孤立を招いていると感じます。プライドが高いというのは、裏を返せば自己肯定感が低いのです。現状を周囲に知られたくないゆえに、遠方にまで移住する人も少なくなかったのです。』

阿部恭子. 高学歴難民 (講談社現代新書) (p.131).

女性ではセックスワークや男性や家族の支援を受けられる一方で、男性の場合は支援を受けられないかつ男性同士のホモソーシャルな競争の中におけるプライドが存在するので、自己肯定感の低さを学歴でカバーしようとしても、労働を前提とした社会に出て、もう受験戦争なんて関係ない世界に放り出されると、地位や職業や年収で比較される世界で、学歴は人により価値の変わる多くのスペックの一つになってしまう。そして一般的に高学歴では同レベルの同級生、同学の人々と比較することになるのは必然であるから、たとえ高学歴だとしても、比較により劣等感が生まれ、自己肯定感が下がり、プライドが高くなる構造となっている。

筆者も元「高学歴難民」だった

筆者もそもそも、学歴が好きな人々の言葉で言うと、はるか昔に、国公立の名門、旧帝国大学の一つを卒業した。そこは、大学院(文系)に行くというと「入院」という言葉で皮肉が混じるような環境だった。そして当時、自分に最も適性のあると今なら思う、大学院に行き研究者という道を蹴った。それは、金にならず一流企業に就職した奴らに勝てないからと、半ばフリーター生活をしながら、新書の体験談にもあったように、小説家になろうとして新人賞に応募したこともあった。大学院ロンダリングをしようと計画したり、芸術や音楽やクリエイターになって生計を立てようとした放浪期があった。しかしながらやはり高学歴として、一流の、一流になれないなら1.5流の人材、地位に辿り着かないといけないと思い至った。そして公務員試験(地方上級)受験を考えたり、前述の医歯薬再受験を考えたりして、就活は心底バカにしていたし、景気の変動(卒業年度)で席が変動するのはおかしいと考えていたし、絶対(無い)内定!として民間企業に就職する人間をバカにしていたが、それこそまさに高学歴特有の絶対学歴の元を取る、という発想なのだろう。確かに受験戦争は誰しも大変であって、そのコストを回収したいと考えるのは当然のことである。
そして紆余曲折あって、資格を手に入れることが自分の生存戦略上最適と判断して、資格によって、ブルーオーシャン故に地位が守られる生き方を手に入れた。
しかしながら、高学歴難民として、社会的地位や収入が少なくとも、自分らしい生き方、自分にしかできない「泥臭い」生き方をしている高学歴難民のエピソードを聞いていると、自分がそのように転落していた可能性があったと思いつつも、難民のままで生きることは他人に迷惑をかけることであったとしても、それは自分固有の人生で価値があるのでは無いかという様に思う。人生は一度きりだから、自分が最も正直に楽しいことをやってる奴が一番勝ち。カッコつけたり、わかったふうなふりをして日々をやり過ごしたり大人ぶったりしているのは窮屈だ。思い切り自分そのものに辿り着くような生き方ではないと、それはかりそめの人生、ハリボテの見せかけ人生なのでは無いかと思う。地位や金はその人を表すが、その人自身の幸福度とは必ずしも比例しないのだから。
近年FIREといった労働からの早期リタイアや、自由人、ノマドライフ、個人起業などが新しい生き方として定着した感がある。自由人になるにはそもそもの経済的基盤、タネ金がないといけない。確かにそうだ。高学歴難民が目指すべき自由人、高等遊民は、もちろん大学院でのみ実現できるのだろうが、大学院から弾かれた卒業した人々は、実家が太くなければ、やはり自由人を目指してタネ金を作り、さっさと副業やビジネスを起業して、求めている生活を手に入れることが本人にとって幸せなのかもしれない。


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