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わが町  松村達雄


いつの時代、いかなる国にも、時流からはやや超然たる立場を保持しつつ、独自の風格をもつ特異な作家というものが温かく見出されるものである。現代のアメリカ文学において、小説家兼劇作家Thornton Niven Wilder (1897-1975)はやはりそうした範疇に属する存在だといってよいであろう。
 
Wilderは、二十年代の終り頃、書物で読む劇ではなく、舞台で見る演劇に興味を失ってしまった。文学、詩であるべき劇作品が舞台で見ると、とたんに虚偽の扁列になってしまう。Wilderはこの原因を、19世紀以降中産階級の興隆によって、演劇が彼らの安易な慰安の具と堕してしまったところに見出す。観客から隔離された、いわば箱の中にはめ込まれたような舞台で演ぜられるものが、劇の生命を殺してしまうのだと考える。
 
演劇というものは何よりも、個別的なものを同時に普遍的なものとして示すべき形式であるのに、時間と空間に限定された子供じみた写生的輿実を追求して、それで観客の心を捉えようとしている。こうした傾向に反撥して、「見せかけのまことらしさ」(verisimilitude)よりも「想像的な真実性」(reality)を捉えようとして、自分は一幕物を書き始めたのだ、とWilderは述懐している。彼が理想として思い描くのは、Shakespeareの舞台、わが能舞台などに見出される遍在性、普遍性(ubiquity)なのであった。
 
Our Town はNew Hampshire 州の田舎町Grover's Corners をその背景として、そこに見出される平凡な人たちの平凡至極な生活を描いたものである。第一幕が「日常生活」、第二幕が「恋愛と結婚」、第三幕が「死」を収扱って墓場の場面を展開する。この劇では、普通舞台に見出されるような、写実的な背景、大道具小道其といったものは一切用いられない。つまり普通の意味での舞台装置は全く省略され、ハシゴとか椅子とか細長い板とか最小限の道具類に依って、象徴的に観客の想像の眼に訴えかけるのである。さらに進行係Stage Manager という劇の物語外の人物が終始舞台に現われ出て、観客に直接語りかけ、また臨時に劇中の人となっては端役的な役割を演ずる。
 
この劇の背景であるGrover's Corners は合衆国東部の州の片隅に位置する田舎町であるが、Grover's Corners はじつは地球上どこにあってもかまわないのである。そこに生活し恋愛し死んでゆく登場人物たちは、じつは地球上至る所どこにでも見出される人たちなのである。作者はこのことを次のように序文の中で語っている。  
 
(私はこの田舎町を最も大きな時間と場所の背景の下においた。この劇で繰り返し現われる言葉は(それに気づいた者は殆どいないが)「幾百」、「幾千」、「幾百万」などである。エミリーの歓びや悲しみ、彼女の代数の時間、彼女の誕生日の贈物、こうしたものは、かつて生存し、現在生存しつつあり、また今後生存するであろう何十億というあらゆる娘たちのことを考えるとき、一体それが何だというのであろうか。)
 
かくして私はすでに述べたことをもうー度ここに繰り返さねばならない。即ち、劇作家としても小脱家としても、Thornton Wilderは時流からはやや超然たる立場を保持しつつ、常に時間と空間に限定されない、人間の悠久な永続的な様相を取扱う作家である。



 
 

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