見出し画像

戯曲の世界

チェーホフの四大戯曲      原卓也


 チェ-ホフは、一幕物ヴォードビルや、初期の長編戯曲「プラトーノフ」をふくめて 、全部で十八の戯曲を書いている。
 「白鳥の歌」「熊」「プロポーズ」「煙草の害について」などの一幕ヴォードビルの多くは、初期短篇のいくつかを芝居に仕立て直したものであり、そこに描かれる世界もまた同じものである。
 ところが、晩年の四つの戯曲を、ふつうチェーホフの四大戯曲とよんでいるが、これはまさにリアリズム演劇の極致をきわめた名作といってよい。
 
 チェーホフの劇は「静劇」と形容される、この静劇という言葉を、チェーホフがドラマチックな事件を描かず、日常茶飯の出来事を舞台の上で示したからだと解釈する人もいるが、それは必ずしも正しくない。なぜなら、トレーブレフの自殺にしても、ワーニャ伯父さんの発砲にしても、トゥゼンバフの決闘にしても、桜の園の競売にしても、決して日常茶飯の出来事とは言えぬからだ。むしろそれらは、われわれの生活の中では、異常な出来事である。にもかかわらずチェーホフは、それらのドラマチックな事件をすべて舞台の背後で処理した。このことをさして「静劇」とよぶのである。「三人姉妹」上演の際、「トゥゼンバフの遺体が観客に見えたりしてはいけない」と、ネミロウィチ・ダンチェンコに指示したことを思いだす必要があるだろう。

 ところで、この四つの戯曲には一つの共通した状況設定がなされている。つまり、第一幕では「新しい人物」が到着し、第四幕でそれらの人たちは「出発」してゆく。ということは、到着した人物にとっても、それを迎える人物にとっても、舞台の上での生活は第一幕以前にその人たちのいとなんできた「日常的生活」とは異なることを意味している。そしてその一時的な生活の中で、各人物の過去の生活の意味が問い直されるのである。ちょうど「いいなづけ」のナージャが家から一年間とびだしたことによって、過去の生活のどうしようもない古くささをはっきり認識したように、舞台の上での生活をいかに受けとめるかによって、それぞれの人たちのその後の生き方も決まってくる。このことはチェーホフの戯曲のみならず、彼の文学そのものの本質を把握する上で、見のがしてはならぬ重要なポイントと言ってよい。

「かもめ」は、最初ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で上演され、無惨な失敗に終わった戯曲であるが、のちにモスクワ芸術座の上演が大成功をおさめ、劇作家チェーホフの名前を不朽のものにした。

「かもめ」では、女優志望の娘ニーナと、作家志望の青年トレーブレフの運命が物語の中心になっている。名声を夢みて、有名な作家トリゴーリンのもとに走ったニーナはやがてトリゴーリンに捨てられ、彼の間にてきた子どもにも死なれ、精抻的にも肉体的にも傷つく、しかし二年後、すでに新進作家になったトレーブレフを訪れた陂女は、もはや自己の生きてゆく道をはっきりと自覚した女性であり、プロの女優としての意識に徹している。そして、「あなたは作家、あたしは女優」と決意を表明する彼女に対して、トレーブレフは二年前とまったく同じ台詞をつぶやくだけにすぎない。自分のものを持たぬ彼にとっては、これからの長い人生が無意味なものにしか感じられず、泥まみれなっても生き抜こうとするニーナとは対照的に、自殺の道を選ぶほかなくなるのである。

「ワーニャ伯父さん」は、「森の主」を改作した戯曲であるが、前作では自殺することになっていたワーニャを、絶望の中で生きつづけさせるように改めたことによって、作品の主題はいっそう明確になったといえる。四十七年間すごしてきた自分の一生がまったく無意味なものだったことに思いいたったワーニャの絶望は、限りなく深い。だが現実は、それでもなお生きつづけてゆくことを要求するのである。

 同じことは姪のソーニャについてもいえる。六年間ひそかに、熱烈に慕いつづけてきたアーストロフヘの愛が、一瞬のうちに打ちこわされ、彼女もまた絶望につきおとされる。しかし、ソーニャは言うのである。「でも、しかたがないわ、生きていかなければ!」と。

 ソビエトの演出では、チェーホフカ信じた「新しい未来』を強調するあまり、ソーニャのこの台詞をリリカルにうたいあげるのであるが、これはそんなロマンチックなものではない。二十三歳の若い娘が、現実にぶちあたって絶望したあと、それでもなお生きてゆかねぱならぬことを自分自身に言いきかせる、健気というよりはむしろ悲愴な言葉の奥に、人生に対するチェーホフの考えが読みとれるのである。

 一九〇〇年に書かれた、一九〇一年モスクワ芸術座によって初演された「三人姉妹」では、同じ主題がいっそう暗いトーンで展開する。凡俗な地方都市に住む三人姉妹にとって、両親のいない家庭における唯一の男子であるアンドレイがやがて大学教授になり、そして自分たちが明るい少女時代をすごしたモスクワへ帰ることが、唯一の夢であり、生活の支えとなっている。しかし、彼女たちのそうした幻想は現実の生活によってしだいに打ち砕かれてゆく。

 そのことは、第一幕でモスクワ行きの夢を語るオリガとイリーナの会話の合間に、舞台奥での将校たちの「ばかばかしい」という台詞や、笑い声がはさまれていることによって暗示されている。アンドレイは浅薄な女と結婚して、イオーヌイチのように、クラブでの力-ドや酒だけが楽しみといった俗物になってしまう、労働にロマンチックな夢を託していた末娘のイリーナは、いざ実際に勤めにでて、毎日の散文的な仕事に追いまくられ、モスクワによって象徴されるばら色の夢がくだらぬものであったことを思い知るのである。

 また、世間的な体面や秩序だけを気にして生きているような教師クルイギンにとついだ二女のマーシャは、人類の明るい未来を美しく語るヴェルシーニンとの恋に生命を燃やそうとするが、そのヴェルシーニンとて、しじゅう自殺未遂をしでかすヒステリーの妻を扱いかねている頼りない人間にすぎない。こうして、連隊が町を去って行き、三人姉妹のすべての夢と幻想はぶちこわされ、彼女たちはあらためて「地に足をつけて」生きてゆかねばならぬことを決心するのである。

「桜の園」は一九〇三年に書き上げられ、翌年の一月に初演された。この戯曲は「喜劇」とチェーホフによって指定されている。従来ともするとこの戯曲は、没落してゆく貴族階級への同情に充ちた挽歌といった趣きで理解されてきた傾向があるが、チェーホフの主題は決してそんな感傷的なものではない。ラネーフスカヤ夫人は賢い、気立てのよい女性ではあるが、兄ガーエフの言うように「動作のはしばしに背徳的なところが感じられる」不身持な女性である。

  六年前、貴族でもない大酒飲みの夫に先立たれると、すぐにほかの男を作り、桜の園に帰ってくるまではパリでヒモ同然のその男と汚ないアパートに同棲していたのである。領地は抵当に入っており、今はまったくの無一文なのに、彼女は過去の習慣からぬけきれることができず、レストランに入ればいちばん高い料理を注文し、ボーイたちにチップをばらまく。そんな彼女に養女のワーリャは気をもみ、召使たちの食べるものまで極端に切りつめて倹約する。

 しかし、ここで注意する必要があるのは、ラネーフスカヤの経済状態である。たしかに彼女の手もとには、自由に動かせる金はないが、そのことは彼女に財産がないことを意味するものではない。彼女の領地は抵当に入っているとはいえ、ロバーヒンの指摘する通り、わが国の単位に直すと、桜の園と河沿いの土地だけでも実に三百万坪という広大なものなのである。これだけの領地を有しながら、自分のおかれている現実を直視することのできぬ彼女は、競売を回避するための策を何一つ講ずることなく、いたずらに時の流れに押し流されて、結局はパリにいる男のところへ戻らなければならぬことになる。これが悲しむべき喜劇でなくて、いったい何であろうか。
 
 一方、「桜の園」では、「いいなずけ」のナージャに共通する、「明るい未来」への信頼が、若い娘アーニャによって表現されている。「桜の園」が競売でロパーヒンの手に渡った時、彼女は他の人たちのように嘆き悲しむことなく、少しも未練もなしに古い生活に別れを告げ、トロフィーモフとともに「新しい自分たちの生活を築こう」と誓って、未来に向かって歩きだすのだ。もっとも、チェーホフが「これは重要な役ではない」とことわっているアーニャや、階段からぶざまに転げ落ちる「永遠の学生」トロフィーモフの役割を、あまり理想化しすぎることも考えものである。シンボリズムが隆盛をきわめ、新しい世紀の息吹きが社会をおおっていたこの時代に、「永遠の学生」という呼び方は、相も変らず十九世紀の社会主義者と同じような言辞をろうする一部の青年に対する軽蔑した形容になっていたことに注意しなければなるまい。

 これまで温室の中て育ってきたようなアーニャは、実際に新しい生活にとびこんでゆけば、凡俗な現実によって傷を負わされることであろう。だが、その時にも彼女はきっと「かもめ」のニーナのように立ち直り、今度は自分の足で大地を踏みしめて歩くに違いない。そしてその時こそ、本当の明るい新しい生活がはじまるのである。明日が今日と同じでない生活、惰性で流されることなく、日常性で麻痺されることのない、目的と意義とを自覚した生活、それがチェーホフの説いた真の生活であった。
 
 ところで、『桜の園』初演の一九〇四年一月十七日は、チェーホフの四十四歳の誕生日であり、文筆生活二十五年の記念式典の日でもあった。友人たちから祝辞を受けるチェーホフは、立っているのも苦しいくらい衰弱しきっていた。が、それでも彼は最後まで立ち通した。この年、日露戦争が勃発し、ロシアはさらなる激動に直面する運命にあった。ロシアを、ロシアのナロードを愛したチェーホフは、祖国のたどってゆく道を気づかわしげに見守りながら、療養生活をつづけた。

 しかし、青年時代から酷使しつづけ、すっかりこわしてしまった身体は、もはや元には戻らなかった。この年の七月二日、チェーホフは転地療養中のドイツの保養地、ワーデンワイラーで、妻オリガ・クニッペルに見とられながら、決して長いとはいえぬ生涯を終えた。四十四歳であった。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?