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西郷隆盛  2  内村鑑三

4 征韓論事件
 
 西郷の場合はたんに征服の目的だけで戦争をすることは彼の良心が許さなかった。東方アジアの征服という彼の目的は、当時の世界情勢に対する彼の見地から必然的に導き出されたものである。すなわち、ヨーロッパの強国に対抗するためには日本はある程度領土を拡張することが必要であり、また国民精神を奮いたたせるためには積極政策以外に道がないと彼は考えたのである。その上彼の胸中には日本は東方アジアの指導者としての大使命を持つものだという自覚もあったとわれわれは信ずる。弱者を圧しつぶす気もちは毛頭なく、弱者を導いて強者に対抗させ、驕れる者を粉砕することに彼はその全力を注ごうとしたのである。彼の理想の英雄はジョージ・ワシントンであり、ナポレオンやそれと同型の人物をいたく忌みきらったということだが、この一事のみによっても彼が低い野心の奴隷でなかったことはわかると思う。
 
 このように西郷はかねてから自国の使命について高い見解を抱いていたが、しかし十分な理由もなしに戦争を始めようなどとは思わなかった。それは天の法則にそむくことだと彼はよく承知していたのである。しかし機会は向こうからおとずれた。これこそ世の始めから日本に定められていた使命を達成すべき天与の機会だと西郷が考えたのも無理はない。事は隣国の韓国で起こった。アジア大陸の中で日本に最も近く位置する韓国が、維新の新政府から派遣された使節らに無礼な態度を示したのである。のみならず韓国は在留日本人に対しても明白な敵意を示し、また友好的な隣国日本の尊厳を薯しく傷つけるような布告を国民に向けて発した。こんな無礼を黙って見過ごしてもよいものかと西郷ならびに彼と意見を同じくする人々は言い張った。
 
 韓国の横暴は兵火で報いるほどのものではないとしても、わが国は直ちに高官数名から成る新しい使節団を半島の王宮につかわして、さきの無礼をとがめねばならぬ、そして韓国がなおその高慢な態度を改めずに、わが使節を侮辱し、また万が一彼らの身に危害を加えるようなことがあったならば、その時こそ国民は大陸に軍隊を派遣し、天のゆるすかぎりその征服を推し進めるべきだと悟るであろう、この使節の責任は重くまた極度の危険を覚悟せねばならぬから、この役目にはぜひ自分を当たらせてもらいたい、と西郷は主張した。国民の前に征服の道を開くために、まず征服者自身が自分の命を投げ出そうというのである このような方法で企てられた征服がかつて歴史上に見られたであろうか。
 
 平素はゆったりとして無口な西郷も閣議の席上、韓国派遣使節の問題が討議される時には別人のように激して活動的となり、自分を全権使節に任命されたいと同僚に哀願したほどである。それゆえその願いが首尾よく叶えられた時の喜びは、ちょうど欲しい物を手に入れた子供がおどり上って喜ぶような様子だった。ここに彼が友人の板垣に宛てて書いた手紙がある。西郷の任命は板垣の特別の尽力により秘密のうちに決定したのであった。
 
 板垣様
 昨日、お宅に参上いたしましたが、お留守だったのでお礼を申し上げることもできずに帰宅いたしました。私の願いがことごとくかなえられたひとえに御尽力のたまものであります。病気もすっかり癒りました。私は喜びにわれを忘れ、三条大臣邸から宙を飛んで、お邸へ馳けつけたのでありました。もう横槍のはいる恐れもないと存じます。これで私の望みは果たされましたから、以後は青山の家に引きこもり、ひたすら発令を待つことといたします。まずは御礼の心もちのみ申し述べました。
                             西郷
 
 この折りしも、岩倉、大久保、木戸の三人が海外視察の旅から帰って来た。文明の中心地でその快楽と幸福とを見て来た彼らは、もはや外国との戦争などを考えもしなかった。それはちょうど西郷の頭の中にパリやウィーンの生活が存在しなかったのと同様である。そこで三人は虚偽と卑怯とのあらゆる手段に訴えて、自分たちの留守の間に閣議で決定された決議をくつがえすことに努め、三条大臣の病気に乗じてついにその目的を達した。すなわち一八七三年十一月二十八日、韓国へ使節派遣の議は取りやめとなったのである。
 
 かつて怒りを表に現わしたことのない西郷であるが、長袖の廷臣らのこの卑劣きわまるやり方には心底から怒った。さきの決議が撤回されたことよりも、撤回に至るまでのやり方とその動機とに対しておさえきれない憤りを発したのである。この腐敗した政府に再びかかわるまいと決意した西郷は、閣議の卓上に辞表を投げつけると、直ちに東京の家を引き払って故郷の薩摩に引退した。こうして彼はほとんど彼一人の努力で出来上ったにひとしい政府に二度と加わることはなかったのである。
 
 征韓諭の禁圧以来、政府の積極政策はすべて取りやめとなり、それ以後の全政策は支持者たちのいわゆる「国内発展」の線に沿うこととなる。そして岩倉以下の「平和派」の願望さながらに国内は彼らのいわゆる「文明」の色に染められて行く。だがそれとともに柔弱の風も生じ、決然たる行為を避け、明白な正義を犠牲にしても平和に執着するなどの真の武士を嘆かせる風潮がひろがって行った。
「文明とは正義が十分に行なわれることにほかならぬ。家屋の壮大や、衣服の美や、外面的な装飾を文明と呼ぶことはできない」
 
 これは西郷が文明に対して与えた定義であるが、この意味における文明は彼の時代以後あまり進歩しなかったことをわれわれは遺憾とせざるを得ない。西郷の征韓論がもし実行に移されていたら、国民は多くの血を流し複雑な対外関係の渦に巻き込まれたことであろう。だがこの企ては同時に多くの健全な効果を国民にもたらしたであろうことを私は疑わない。西郷の計画が斥けられたことにより、国民は物を得て精神を失った。そしてどちらの道を選ぶべきであったかは、未来が判定するであろう。
 
 
5 反逆者としての西郷
 
 西郷の生涯で最もいたましいのはその最後の時期である。これについて多くをしるす必要はない。時の政府に対し彼が一転して反逆者となったのはまぎれもない事実である。彼がなぜこのような立場に追い込まれたかについてはさまざまの説があるが、その生来の弱点である鋭すぎる感受性のゆえに、反逆の群れに与したのだという説が最も真相をついているように思われる。西郷を天下唯一の人と崇める五千人ほどの青年が、明らさまに反逆の旗を翻したのであるが、これは西郷の知らぬことであったらしく、もちろん彼の意志に反したことであった。
 
 ところがこの挙の成功のためには、彼の名と影響力とを貨してやることが絶対に必要であった。窮地に追いつめられた青年たちの必死の懇請を前にしては、最も強い人であるはずの西郷も全く無力であったのだ。二十年前、客僧月照に対する真心のしるしとして、その命を捨てようとした西郷は、このたびは彼を崇拝する後進に対する友情のしるしとして命も名誉も何もかもを犠牲にしようと心を決めたのであろう。これが彼を最もよく知る人々の見方である。
 
 時の政府に対し彼が強い不満を抱いていたことは確かである。しかし彼ほど穏健な人が憎しみのためだけで戦争をするとは考えられない。少なくとも彼の場合、その生涯の大目的が失望に終わった結果として、反逆の群れに投じたのだと想像するのは誤りであろうか? 一八六八年の革命が、彼の理想とはおよそ反対の結果に終わったのを見たとき、その直接の責任者ではないにもせよ、彼は言い尽くしがたい心の苦痛を味わったのである。万が一反乱が成功したら自分の生涯の偉大な夢を実現させる機会をもう一度つかむことができるのではあるまいか? 確実とは言えないが、全く望みがないわけではない。こうして彼は反徒に加わり、自分では本能的に承知していたと思われる運命を、同志と共に分け合ったのである。しかし彼の生涯のこの部分が歴史の上で残りなく解明されるのは、今後さらに百年の後のことであろう。
 
 この西南戦争を通じ西郷は受身の立場に終始して、桐野らが戦争の作戦方面を担当した。戦争は一八七七年の二月から九月まで続いたが、反乱軍の敗北が決定的となるに及び全軍は死にもの狂いで鹿児島へ退却しようとした。彼らは先祖の墓に葬られることを願ったのである。官軍は彼らを追って、ついに城山で反徒を包囲した。官軍がその総力を山のふもとに集結したとき、われらの主人公は上機嫌で碁を打っていたが、従者の一人を顧みて、
「いつか私が駄馬を引いて野良から帰る途中、下駄の鼻緒をすげてやったのは君ではなかったかね?」
と言った。従者は当時のことを思い出し、恐縮してひたすら彼の許しを乞うた。
「なに、いいのさ、あまりひまなのでちょっと君をからかってみただけだよ」
というのが西郷の答えだった。
 
 事実はこうである──あるとき大将は生意気な二人の若者の言うがままにその下駄の鼻緒をすげてやった。薩摩の風習として武士たる者は道で出会う農夫にそれを命じる権利があったが、その時の農夫こそはからずも大西郷であったのだ。彼は一言の不平も言わずにその卑しい仕事を済ませると、きわめて謙遜な態度で立ち去ったという。西郷の死の瞬間に立ち会った人の回想談として、こうした話が残されていることをわれわれは心から感謝する。われらの西郷の謙遜さには、聖アクイナスも及びはしない。
 
 一八七七年九月二十四日の朝、官軍は城山に向かって総攻撃を開始した。同志に取り巻かれた西郷は、敵に向かうため立ち上ろうとしたその刹那、飛んで来た銃弾に腰を撃たれた。城山に籠った小部隊が全滅して、西郷の遺骸が敵の手に落ちたのはそれから間もなく後のことであった。「遺骸に無礼を加えてはならぬぞ」と敵将の一人が叫び、他の一人は「なんと安らかな顔だろう」と言った。彼を殺した者どもはひとしく悲嘆にくれ、涙ながらに彼の遺骸を葬った。今に至るまで涙とともに彼の墓をおとずれる人は絶えない。こうして武士の中の最大の者、そしておそらくはその最後の者は世を去ったのである。
 
 さきに私はこの書の中で、偉人という言葉は現在までのところ日本人の特色を現わすものではないと書いた。西郷は偉大であったがゆえに彼の国人に斥けられ、反逆者となるまでに追い詰められたのである。彼が大陸に生まれなかったのは、惜しんでも余りあることながら、しかしこのような英雄を生んだ島国は幸いなるかな。摂理が遠い昔に結んだ契約の保証として、西郷をこの国に送ったのだと私は信ずる。無知のゆえに、汚名を着せて彼を殺した国人も、彼の偉大さにまで成長すれば、彼のような人物を歓迎するようになるだろう。願わくはわれらの英雄の安らかに眠らんことを。彼の偉大さと高貴さとは長くこの国民の霊感の中に生きるであろうし、この国の将来に託した彼の大きな夢は未来において現実となるかもしれないからである。ただしわれわれは当時の時代と社会情勢下で彼が唯一のものと考えたその手段を選ぶものではない。
 
6 彼の生活と人生観
 
 西郷が日本国のためにいかなる貢献をなしたかを歴史的に正しい評価を下すにはいま少しの時を待たねばならない。だが彼がいかなる人間であったかを正しく知るための材料は十分にある。そして彼の人と成りを知ることが、彼の歴史的評価を決定する上の重要な参考となるとしたら、彼の私生活と私見とについて私がしばらく筆を費やすのを読者は許してくださることと信じる。
 
 第一に言いたいことは、彼ほど人生の欲望の少ない人はなかったということである。日本陸軍の総司令官、近衛総督、大臣中の有力者という栄誉を身に帯びながら、彼の外見は普通の兵卒と異ならなかった。数百円の月給のうち十五円あれば十分だとして、残りのすべては困っている友人に快く分けてやった。東京の番町の家は月の家賃三円という見すぼらしい建物だったし、その服装はといえば薩摩がすりの綿服に、太い白木綿の兵児帯を締め、足に大きな下駄を突っかけるというありさま。この風態で宮中の正餐の席をはじめ、あらゆる場所に出かけて行ったのである。食物にしても出される物は何でも食べた。あるときある人が彼の家を訪問したところ、主人公は兵士や従者たちと車座になって大きな木鉢を囲み、その中から冷やそうめんをすくい上げては食べている最中だったという。若者たちといっしょの食事をするのが大好きだったという彼自身、単純きわまる大きな子供であったのだ。
 
 自分の身体に対してと同様、自分の財産に関しても彼は至って無頓着であった。東京市中の最も繁華な場所に持っていた立派な地所を、当時発足した国立銀行に引き渡すに際し、値段を聞かれても答えることを拒んだという。それゆえ時価数十万円のその地所は今日に至るまでその銀行の所有するところとなっている。また高額の恩給はすべて鹿児島に創立した学校の維持費にあてた。彼の漢詩にいわく、
 
  わが家の遺法、人知るや否や
  児孫のために、美田を買わず
 
 そのようなわけで彼は妻子に何の遺産も残さなかったが、しかし国家は反逆者西郷の遺族の生活を保証したのである。近代の経済学は西郷のこの無頓着に対して多くの異議を唱えるであろう。
 
 しかし彼にも一つの道楽があった。それは犬であった。贈り物と思われる物は何一つ受け取らなかった彼も、犬に関する物であれば大喜びで受け取った。着色石版画、石版画、鉛筆で書いたスケッチなど犬に関する物は何でも彼を喜ばせた。東京の家を引き揚げる時などは、大きな箱が犬の画でいっぱいになったという。大山大将に宛てた彼の手紙の一つに、犬の首輪について細かくしるしたものがある。
 
「犬の首輪の見本、御親切にお送りくだされまことにありかたく存じます。舶来品よりも上等なものばかりでありますが、ただこれより三インチばかり長くしていただけたら、当方の希望にぴったりであります。それを四、五本と、もう一つは見木より少し幅広で五インチ長いものをお送りくだされたく、お願いいたします……」
 彼は生涯犬を友とした。犬どもを連れ山の中で幾日幾夜を過ごすことさえ稀でなかった。最も孤独な人であった西郷は、もの言わぬ獣とその孤独を分かち合っていたのである。
 
 彼は人と言い争うことがきらいで、できるかぎりそれを避けようとした。あるとき宮中の宴会に招かれ、例の薩摩がすりに兵児帯という服装で参内したまではよかったが、退出しようとすると皇居の玄関にぬいだ下駄がない。しかしその事で誰彼を煩わすのは好まないので、はだしのまま外へ出てぬか雨の中を歩き出した。皇居の門まで来ると、守衛が彼を呼び止めて身分を釈明せよと言う。あまり粗末な身なりなので怪しい人物とみなされたのだ。「西郷大将だ」と答えても相手は信用せず門を通ることを許さない。そこで彼は雨の中に立ち、自分の身分を証明してくれる人の来るのを待つことにした。間もなく岩倉大臣を乗せた馬車が通りかかって、はだしの男はまさしく大将であることがわかり、二人はそのまま馬車に同乗して立ち去つたという。
 
 西郷はまた「熊」という名の下男を召しかかえていた。「熊」は質素な家風の西郷家に長く仕えて人にもよく知られていたが、あるとき重大な罪のために職を取り上げられるという破目におちいった。しかし寛大な主人は失業後の下男の生活を気づかって、彼を従前どおり家に置き、その後の長い年月一度として彼に用事を命じなかった。主人よりもずっと長生きした「熊」は、この不運な英雄を深く悲しむ者の一人であった。
 
 西郷の私生活を親しく知るある人は次のように言っている。「私は十三年間、彼と生活を共にしたが、その間彼が雇い人を叱ったのを見たことがない。彼は寝床の上げ下ろし、雨戸の開け閉て、その他身の廻りの事はほとんど自分でやった。しかし他人がやってくれている事には決して手を出さなかったし、また手伝いしましょうという申し出を断わることもなかった。彼の無頓着さと無邪気さとはまるで子供のそれのようだった」
 
 彼が衷心からきらったのは他人の平和を乱すことだった。人の家をたずねても声をかけて中の人を呼びたてるようなことをせず、そのまま玄関にたたずんで誰かがひょっこり現われて自分に気付くのを待っていたという
 これが彼の生き方だった。これほどまでに謙虚で、これほどまでに単純な生き方が、またとあろうか。しかも彼の思想は、聖者や哲学者のそれにひとしかったことはすでに他の機会に述べた通りである。
 
 敬天愛人──彼の人生観はこの言葉に尽きている。彼にとりすべての知恵はそこにあり、すべての知恵は自己を愛することにあった。西郷が「天」に対していかなる考えを持っていたか、天を力と解したか、または人格を持つ者と解したか、また日々の形式的礼拝とは別に彼が天に対する尊敬をいかなる形で表したか等を確かめることはわれわれにはできない。しかし彼が天とは全能者であり、不変なる者であり、あわれみに満ちた者であり、天の法はすべての人の守るべき完企無欠のものであって、しかもきわめて恵み深いものであると解していたことは、彼の言動によって十分に知ることができる。
 
 天と天の法とについて彼が語ったことにはさきに触れた。彼の書いたものは、天に関する思想で満ちているが、それらをここに引用する必要はないであろう。「天はすべての人を平等に愛したもう。それゆえに、われわれは自身を愛するにひとしい愛をもって、他の人を愛さねばならぬ」という彼の言葉は、律法と預言者とに関するすべてを言い尽くしたものである。この偉大な教義を彼がどこから学びとったかを知りたいと思う人もあるであろう。
 
 彼はまた人間は至誠の限りをつくして、この「天」にまで達しなくてはならぬ、それでなくては天の道に関する知識は得られないと考えた。人間の知恵を彼はきらった。すべての知恵は、人間の心と目的との真実さからのみ生まれる。心が清く動機が高くあるならば、会議の席であろうと、戦場であろうと、必要な時にはいつでも道が閧けるであろう。たえずたくらみをめぐらす者は、いざ大事という時に途方にくれる者である。西郷自身の言葉を借りるならば、
「至誠の王国は人目に触れぬ密室にある。一人居るとき強い者はどこに居ようとも強い者である」
 
 不誠実とその長子である利己心とは、人生の失敗の最大原因である。西郷いわく、
「人は自分自身に勝つことによって成功し、自身を愛することによって失敗する。十のうち八まで成功しながら、残りの二で失敗する人の多いのはなぜであるか? その理由は、事業の成功とともに自己愛がきざし、自戒の念がゆるみ、安逸を慕い、仕事を重荷と感じるようになるからだ。これが失敗のもとである」
 
 それゆえわれわれは、命を投げ出して人生の大事に当たらなければならない。責任の位置にある西郷がある行動を提議しようというとき、「私は命をさし出します」と言うことが稀れでなかった。完全な犠牲の精神こそ彼の勇気の秘訣であったということは、次の重大な発言によって知られる。
「命も、名も、地位も、金も要らぬ人ほど扱いにくいものはない。しかしこういう人と共にでなければ人生の苦しみを分かち合うことはできず、またこういう人のみが国家に大きな貢献をすることができる」
 
 天を信じ、天の法と時とを信じた西郷は、また自分自身を信ずる人であった。一つの信念は必ず他の信念を伴うという言葉の通りである。
「心に決してこれを行なえば、神々ですら君の前から退くだろう」
と彼は言い、また次のようにも言った。
「機会には二つの種類がある。求めなくても来るものと、自分で作り出すものとである。世間で言う機会とはおおむね前者だ。しかし真の機会とは、理に従い、時の必要に応じて行動した結果として生まれるものである。危機が目前に迫っている時には、われらは機会を作り出さねばならぬ」
 
 それゆえ彼は人を、有能な人を何よりも尊重した。
「方法や制度についていかに論じようとも、これを運用するに足る人がいなければ無益だ。まず人があって、その後に方法が行なわれるのだから、人は第一の宝である。すべての人がまず人たるように努めなければならぬ」
 
 天を敬う者は必ず正義を敬い正義の道を守る者である。文明とは正義が実際に行なわれることであると西郷は考えた。彼にとり天が下に正義より大切なものはなかった。わが命はもとより、わが国さえも正義より大切ではなかった。
 
「正義の道を踏み、正義のためとあらば、国もろともに倒れるほどの精神がなければ、外国と満足な交際に入ることは望めない。外国の強大を恐れ、事なかれと念ずるあまり、彼らの要求に卑屈に応じるならばやがて彼らの侮りを招くに至る。その結果として、友好関係は終わりを告げ、われらはついに彼らの奴隷と化するであろう」
 
 同じ調子で彼はまた言う。「何らかの形で国家の名誉が傷つけられた場合には、たとえ国家の存在が危険にさらされようとも公正と正義との道に従うのが政府の絶対の義務である。戦争という言葉におののき、怠惰な平和を保つのに専心するような政府は、商社の支配人ではあっても政府と呼ばるべきものではない」
 
 そしてこのような言葉を述べた西郷は、当時、東京に在留していたすべての外国使節の尊敬を一身に集めたが、中でも特に彼を尊敬したのはイギリス女王の派遣公使ハリー・パークス卿であった。パークス卿は東洋外交に精通するところから、長く公使として日本にとどまり、わが国におけるイギリスの利益を抜け目なく擁護した人である。「正義に立って恐れるな」というのが、西郷の政府運営法であった。これはヘブライの預言者たちの考えるところと同じである。誠意が外交の精神であることは今も昔と変わらない。地球上の大国になりたいことを望むなら、天の法をなおざりにしてはならぬ。
 
 西郷の考えはこのように簡明であったから、周囲の情勢の見通しも実にはっきりしていた。明治維新というものがその唱道者たちにとってすらなお白日夢であったころ、それは西郷の心中ですでに完成された現実となっていた。久しく孤島で流刑の月日を送った西郷のもとに、彼を再び往時の要職に呼びもどすための使者がつかわされたとき、彼は海岸の砂の上に図を描いて、新帝国建設の腹案を使者に示したが、後の事実と照らし合わせてその日の予見があまりにも正しかったため使者は後に友人にこう語ったという、「西郷は人間ではなくて神様だ」と。
 
 また革命の進行中、西郷は終始冷静さを失わなかったが、これも彼に明確な見通しがあったればこそである。いよいよ革命が始まろうというとき、新機構の中における天皇の位置について、新政府内の一部の人々は非常に心を痛めていた。過去のほぼ十世紀の間、天皇の立場はきわめて曖昧なものであったからだ。高名な宮廷歌人福羽氏はこの事について次のように西郷にたずねた。革命は私も願うところでありますが、しかし新政府が成立したとき天皇の御位置はどうなるのでありましょうか。これに対する西郷の答えは、次のように明白なものであった。
「新政府においては天皇を本来の位置にお迎えいたします。これによって天皇は自ら国事をみそなわしたまい天の定めた使命を遂行されるでありましょう」
 
 西郷には廻りくどいところが少しもなかった。正義の道が常にそうであるように、彼は簡潔であり、率直であり、太陽の光のように明確であった。
 西郷は著書を書かなかったが、多くの詩歌と数篇の論文とを残した。折りに触れて彼の心からあふれ出たこれらの作品を通して、われわれは彼の内なる世界をうかがうことができ、彼の行為はまさしく彼の内心の反映であることを知るのである。彼の書いたものには学者ぶったところは一つもない。同じ程度の学識を持つ他の学者連とちがい、彼の言葉とたとえとはおよそ考え得る限りの簡潔なものであった。たとえば次の詩よりも簡潔なものがまたとあるであろうか、
  
 われに干絲の髪あり
 さんさんとして墨より黒し
 われに一片の心あり
 皓々として雪より白し
 わが髪はなお断つべし
 わが心は截つべからず
 
 また次のものは、彼の特性をよく現わしている。
  
 一貧、唯々の諾
 従来、鉄石の肝
 貧居は傑士を生み
 勲業は多難にあらわる
 雪に耐えて、梅花うるわしく
 霜を経て、楓葉丹し
 もしよく天意を知らば
 あに、あえて自ら安きを謀らんや
 
 われわれはまた次の「山の歌」の一節に、自然のままの彼の姿を見ることができる。
 
 池、古く、山、深く
 夜よりも静かなり
 人語を聞かず
 ただ天を見る
 
 彼の書いた評論のうち「富の生産」と題するものの一部をここに取り上げてみよう。
『左伝』の中に徳こそ富の源であるとしるされている。徳が高ければ富はおのずから集まるが、徳が衰えればそれに応じて富も減る。その理由は国土を豊かにし国民に平和を与えることによって初めて富を得ることができるからだ。小人は自己の利益を目ざすが、偉人は国民の利益を願う。前者はその利己主義のゆえに衰え、後者は公共心に富むゆえに栄える。心をどこに置くかによって、繁栄と衰微、富と貧、興降と滅亡との差が生じるのである。このゆえにわれわれは常に警戒に努めなければならない。
 
 俗に取ることによって富を得、与えることによって富を失うというが、これは大きな誤りである! そのことは農事について考えてみるとよくわかる。けちな農夫は穀物の種を惜しんでわずかしかまかず、その後は座して秋の収穫を待つから得るところはただ飢えのみであるが、良い農夫は良い種をまきこれを丹精して育て上げるから穀物は彼の手に余るほど豊かに実るのである、集めることにのみ心を用いる者は、刈り取ることを知って種をまくことを知らぬ農夫のような者であるに反し、賢い人はいそしんで種をまくから、求めずとも、豊かな実りを刈り取ることができる。
 
 徳を修めようと努める人には、おのずから富が集まる。それゆえ世の人の言う損とはほんとうの損ではなく、また得もほんとうの得ではない。昔の賢人は人々を恵み、これに与えることこそ「得」であり、彼らから取り立てることを損と考えた。今とは全く反対である。ああ、この賢人の道にそむく方法によって、人々に富とうるおいとを与えようとする ことが賢明な道であろうか? 損得の法(真の)に反して、国家を富まそうと計ることこそ愚かと言わるべきではなかろうか? 賢人は慈善を施すために節約し、おのれの苦難を忘れて人々の苦難をのみ思い煩うから、富は泉のわくように生じ、雨のように下る恵みに人々はうるおうことができる。これもみな賢人が徳と富との正しい関係を知り、徳の結果なる富を求めず、富の源なる徳を求めたがゆえである。
 
 古めかしい経済学だと近代ベンタム主義者(功利主義者)の言う声が聞こえる。しかしこれはソロモンの経済学であり、またソロモンよりも大いなる者の経済学であって、宇宙過去幾世紀を経てなお存在していると同様、決して古びることのないものである。
「施し散らして増す者あり、与うべきを惜しみて、かえりて貧しきに至る者あり(旧約聖書・箴言)、まずは神の国とその義とを求めよ、さらばこれらのものはみななんじらに加えらるべし」(マタイ伝六・三三) 西郷の評論はこれらの聖書の言葉の適切な注解ではあるまいか?
 
 わが国の歴史上、最も偉大な名を二つ挙げるとすれば私は少しもためらわずに、太閤秀吉と西郷との名を挙げる。この両者とも大陸征服の大望を抱き、全世界をその活動の場と考えていた。そして両者とも彼らの国人とは比較にならぬほど偉大であったが、この両者の偉大さは全く異質のものであった。太閤の偉大さはナポレオンのそれにやや類するものではなかったかと思う。ナポレオンにはっきりと現われている山師的の要素は、わずかながら太閤にもあった。太閤の偉大さは天才的のものであって、彼は生まれながらに優秀な頭脳を恵まれ、労せずして偉大となり得たのであるが、西郷はそれと違った。
 
西郷の偉大さはクロンウェル的であって、彼は単に清教徒主義を知らぬばかりに清教徒(ピューリタン)たり得なかったのだと私は思う。西郷の場合は意志の力が大いにものを言ったのである。すなわち同じ偉大さでも、これは道徳的の偉大さであって、偉大さの中で最高のものである。彼は正しく道徳的基盤の上に国家を再建しようと努め、これにやや成功したのであった。
 
 さきにも述べたように、彼は武士の中の最後にして最大のものであり、輝く明けの明星であった。この明星はもと来た道である夜を照らすとともに、彼が道しるべをした昼に光を投げ与える。もし混迷と争論とがわれらを再び暁闇につきもどすようなことがあったとしたら、そのとき再びわれらを照らすのはこの星であろう。
 
 彼を殺しながら、彼によって建てられた社会に生きているわれわれにとり、彼の名は彼の道徳性のゆえに尊い。新日本は道徳の産物であった。明治維新は卑劣な精神や下等な必要性から生み出されたものではなく、また私利私欲から生じたものでもない。われわれはこれらの事実を永久にわれらの心にとどめ、これを世界に向かって告げようではないか。ルーテルのドイツに、クロンウェルのイギリスに、ワシントンのアメリカにこの事を理解させよう。天がその子でありその崇拝者である西郷をつかわして新日本を創造したのである。
 
 日本人がクリスチャンでないからといって、こうした言い方をしては悪い理由がどこにあろう? 天よ、みそなわしたまえ、彼らは「経礼を幅広くし、その衣のふさを大いにし」(マタイ伝二三・五)、十字架を携え白の法衣を着てクリスチャンである人々にクリスチャンと呼ばれることを好むのです。しかし、クロンウェル、ルーテル、ワシントンら、彼ら偉大なる先人は、彼らをその名では呼ばないであろう。正義に基づいて建てられた国家こそキリスト教国家と呼ばるべきではあるまいか? そしてそのとき日本に対する不当な取り扱いは初めて影をひそめるであろう。西郷の日本は異教徒たる恥辱に甘んずべきではない。酉郷よ、起きよ。クロンウェルよ、起きよ。すべて正義を愛する先人よ、起きて、地球のこの一角に正義の行なわれるのを見よ
 
 

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