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樫の木に張り付けられたゲジ子

           
 漆があざやかに紅葉していた。ブナもカエデもミズナラもケヤキもまた葉を紅に黄にそめていた。いま山は晩秋の装いをととのえつつあるのだ。山道にはもう落葉がしきつめられていた。智子はわざと落葉をけちらしながら歩いていく。足にからまる落葉がかさかさと鳴って心地よいのだ。山のにおい、秋のにおい、木立ちのにおい、落葉のにおい。智子はいつも山のなかに入ると生き返る。
 長太を先頭に分校の生徒たちはどんどん山のなかに入っていく。暗い森を抜け、勾配のきつい山道をまいて登っていく。急な登りはそれだけ高度をたかくする。木の間から見える下界がぐんぐん小さくなっていく。
 峠を登りきりしばらく急勾配の山道を下っていくと、ちょろちょろと申し訳ていどの水をながす小川のふちにでる。山道はその川にそって下っていくのだ。川はぐんぐんと厚みをまし幅をひろげていく。せせらぐ音も次第に高く、大きな岩をかむほどの水勢になっていく。
 川がゆったりと蛇行したところにのんびりと広がった草地があり、その繁みのなかに捨てられたようにぽつんと小屋が立っていた。山仕事をする人たちの番小屋だったのだ。しかしいまや板壁があちこちはがれ、トタン屋根もぱっくりとめくれて、半ば廃屋同然のたたずまいだった。しかし春から夏にかけて、蔦がその小屋にうるさいばかりにからまって、なにか森の精のような景色をつくる。
 その小屋がすっかり気に入った長太は、そこを森のなかの拠点にしようと持主と交渉中だった。どうやらその話は進展しているようだった。
「あの小屋にぼくらの看板を立てたいですね」
 と先頭を歩いていた長太はもう子供たちに追い抜かれて、一番後ろを歩いていた智子と一緒になっていた。
「長太さんはその看板になんて書くんですか」
「ゼームス塾丹沢自然山荘とでもするかな」
「ヘええ」
「なんだか長ったらしくておかしいですかね、もっと簡潔なネーミングが必要だな、弘さんの子供団はなかなかいいですよ」
「どんな名前なんですか?」
「子供基地なんですよ、樫の木子供団子供基地、いいですよね、基地なんて」
 もしその話が具体的になったら、みんなの活動はさらに深く広くなるだろうなと智子は思うのだった。品川区のゼームス坂界隈からいっきにそのスケールが広がる。
 二人がその小屋に着くと、子供たちは待ちくたびれたとでもいうように、
「ねえ、もういってもいい」
「いってもいいでしょう」
「はやく会いたいよ」
「あたし、手紙を書いてきたんだからね」
 それは長太の仕掛けた自然観察の導入をなす第一章だった。彼はまず子供たちに、自分の好きな木を選びなさいという課題をあたえたのだ。彼はこんなふうに切り出した。
「いいかい、これから森のなかに入って好きな木を選ぶんだ、友達を選ぶようにね、いや友達よりももっと大事な、そうだね、恋人を選ぶようにさ、そして選んだらその木に抱きつくんだ」
「ぎゃあー」
「エッチ!」
「そんなこと、するわけがねえだろう」
「でも抱きつくんだ、大事な人を抱きしめるように、じっと耳を木におしつけて、木立のなかから聞こえて声に耳をかたむけてごらん、木も君たちに語りかけてくるはずなんだ、そいつは木の言葉で、はじめは人間にはわからない、しかしぼくたちがこの森にくるたびに、その木を抱きしめてじっと耳をあてていると、だんだんその言葉がわかってくる、木は一生懸命君たちに語りかけてくるよ、うそだと思ったらやってごらん」
 こうして《森は愛している》という壮大なカリキュラムはスタートした。それは大成功だった。みんなこの森にくると、それぞれ選んだ木のもとに走っていく。そして両手をひろげて抱きつき、なにやらしきりに語りかける。はじめはいやがっていた子も、木にむかってぶつぶつと喋っている。なかには手紙を書いてくる子もいたりした。いまでは子供たちが選んだ木立はほんとうに彼らの友達となってしまったのだ。
 子供たちが山のなかにそれぞれの友達めがけて散らばると、智子もまた森のなかに入っていった。智子は川のほとりにすくっと立っているニセアカシアの木を選んだ。どっしりとした存在感あふれる木立だった。葉群れのあいだから秋の太陽が黄金のひかりをこぼしている。智子は帽子をとって太い幹に体を寄せて、ざらざらとした幹にそっと頬をよせた。
 なにやらニセアカシアはよくきたねといっているようだった。寂しくはなかったかね、子供たちは元気に活動しているかね、宏美も元気だったかね、分校はうまくいっているかね、と。心地よい風が吹きぬけて葉がさわさわと鳴った。なにやらニセアカシアは智子に歓迎の歌をうたっているようだった。彼女はいつまでも木立を抱きしめていた。
 長太が木立を縫ってやってきた。智子のかたわらに立つと、
「このニセアカシア、いい木ですね」
「ええ、なかから木の声がほんとうに聞こえてくるみたい」
「そうです、聞こえてきますよ」
「なんだかしきりに語りかけてくるようで」
「智子さんのあのニセアカシアは、男なんでしょうね」
「ああ、どっちでしょうね、そういわれてみれば、なんだか男の人のような声でしたね」
「やっぱりね」
「長太さんの木はどっちなんですか?」
 長太が選んだ木は、ちょっとはなれた山の斜面に立っているブナの木だった。
「ぼくのは男ですよ、古い友人なんです、やあ、よくきたなって、太い男の声で語りかけてくるんです」
「どんな話をするんですか」
「まあ、いろんな話をしますよ、あいつはずいぶんぼくの子供のことが気になっているようなんです」
「子供ですか?」
「ええ、ぼくの子供です、もう間もなく九つになるんです」
 智子は長太が離婚したことを知っていた。子供がいたということも知っていた。しかしそれは弘から聞いたのであって、長太の口からではない。彼は一度も智子にそのことを話したことはなかった。だから智子も一度もそのことにふれなかった。他人にむやみに心のなかに踏みこまれたくない気持ちはよくわかるのだ。
 しかしいま長太ははじめてそのことにふれた。なにかそのさらりとした言い方のなかにも、智子は、ああ、この人はいまなおつらい時間を背負っているのだなと思うのだった。
 草の繁みのなかに背の低い木が紫の果実をつけていた。智子はそんな彼のいたいたしい傷にふれたくなかったから、そこを指して、
「あの実をつけている木は、なんという木ですか?」
 と訊くと、そちらの方に歩いていって、その果実をつまんだ。
「これはヤブムラサキですね」
「葉がムラサキシキブと似ていますね」
「そうなんです、花もよく似ていますよ、こっちはちょっと俗っぽいからですかね、ヤブなんて名をつけたのは」
 そのとき洋子とかおりが、ばたばたと山からかけおりてきた。荒い息をさせながら、
「おばさん、美香ちゃんがへんなのよ」
「美香ちゃんが、木に釘を打っているよ、呪い殺すんだって」
「どういうことなの?」
「美香ちゃん、おかしいよ」
「ちょっといってみましょう」
 と長太がいった。
 子供たちが友達としての木を選んだとき、その子の性格というものが投映されていておもしろいと思ったものだ。例えば、洋子はどっしりとそびえ立つイヌシデを選んだ。彼女は、一見繊細な感情をもった弱々しい子にみえる。しかし彼女の芯は、意外に太く、自分できめたことをきちんとやりとげるという強さをもっている。そんな洋子にイヌシデはぴったりだなと思った。あるいはまた明彦はすらりとした、しかしどこか弱々しい女性的なコナラを選んだが彼のやさしい性格そのままだ。
 美香が選んだのはサイカチだった。その木はうっそうと繁る高木のなかに隠れて、目だたない木だった。しかしその木が他の木立ちと異なっているのは、枝にするどいトゲをもっているのだ。人を拒むようなトゲをもったその木を美香が選びとったとき、智子はなぜか納得するものがあった。
 美香はいまその木に、マジックで人の姿を描いたダンボールを押しあてて、その上から釘を打ちこんでいる。すでにその顔や胸や腹部に五寸釘が打ち込まれていた。わざわざこんなことをするために釘やトンカチをリュックにつめこんできたというのか。彼女はさらに足に釘を打ちこもうとしていた。
 長太と智子はともに驚きの表情で顔をみあわせた。
「なにをしているの?」
 と長太が訊いた。
「みればわかるでしょう」
 美香は二人に目を向けたが、その目がなにか血走っているように見える。
「わかるけど、どうしてそんなことをするの」
 と今度は智子が訊いた。
「呪い殺してやるのよ」
「だれを呪い殺すの?」
「先生よ」
 智子と長太は思わずまた顔をみあわせた。
「ゲジ子のことよ」
「学校の先生のことね」
 と智子は長太に説明するようにいった。ゲジ子とは彼女を受けもっていた担任の教師だった。
「でもそんなことしたらあなたのお友達、痛いって悲鳴をあげるわよ、かわいそうじゃないの、お友達が」
「こんな木は友達じゃないよ、この木はゲジ子なんだから」
 そうか。それでこの険しいトゲのある木を彼女は選んだのか。智子は美香という子の内部がありありとみえるような気がした。
 夏休みの自転車旅行が成功し、分校は大きな活動を終えたあとのほっとした気分と、虚脱した雰囲気がただよっていた。そんな夏の終わりに、眼鏡をかけた神経質そうな木村貴子という母親が娘を引き連れて分校に現れたのだ。娘の名は美香といった。貴子は娘が学校にいけなくなった様子をきれいに整理され、分析された言葉でたんたんと話した。
「二学期になってもこの子は学校にいけないと思うんです、この子のなかに学校と先生にたいする不信があって、担任がかわらないかぎりだめだと思うんです」
「そんなに絶望的な関係なんですか、修復のきかないほど」
「とにかく担任の先生は、この子を目の敵にしているんですよ、憎しみの目でしかこの子を見てないんです、それはもちろん先生だって人間ですから、好き嫌いがあるのは当然だと思いますけど、でもその先生のえこひいきというのはちょっと桁はずれで、好かれた子にとってはそれはいい先生になるんでしょうけど、嫌われるともう大変なんです、嫌いな子は徹底的に嫌い抜くんですから、この子なんか一番嫌われて、クラスで発生する問題の責任はみんなこの子になすりつけられてしまうんですから」
「それはちょっと考えすぎではありませんか」
「いいえ、ほんとうなんです、だれもがそういいます、とにかくその先生、情緒不安定というか、精神がすごく不安定な先生なんです、怒ったり、泣いたり、それはもう大変らしいんです、それでとにかくこの子は嫌われて、なにかあるとこの子のせいにされてきた、そんな心の傷をいっぱいつけられたうえに、二千円が紛失するという事件がおこって、この子は決定的に学校にいけなくなったんです」
「その二千円の紛失ってなんなのですか」
「望月さんという子がもってきた給食費がなくなっていたのですね、それで大騒ぎになってクラス全員のカバンをしらべてみると、なんとそのお金は石田さんという子のカバンのなかに入っていたんですよ、その石田さんという子はクラス委員なんかしていて、大変先生のお気に入りの子なんですが、その子のカバンのなかに入っていた、そのことがもうはっきりしているのに、それを仕組んだのは美香だということになっていくんですね、美香が望月さんのお金をとって、それを石田さんのカバンのなかにいれたというふうに」
「そんな」
「そうなんです、悪いのはなんでも美香なんです、そんなひどい話をつくりあげて、なんでも悪いのは美香になすりつけてしまう」
「それはひどいわ、それは濡れ衣じゃないですか」
 と智子も怒りながらいった。
「もうその事件で、美香は学校にいけなくなってしまったんです」
「そのことは学校に抗議なさったのですか」
「それは何度も学校に足をはこびましたよ、そんなひどい話を許すわけにはいかないと思いましたし、でも学校側の結束がかたく一向にらちがあきませんでした、あれは美香がやったのだと決めつけられて、はっきりとそういわれました、それはほんとうに暴力だと思いましたね」
「それはないわ、そんなことが許されていいはずはありませんよ」
 と智子も憤慨するのだ。
 こうして美香は九月から分校に入ってきたのだ。しかし美香と毎日接触してみると、入校する時に説明された彼女の母親の話が、どうもそのまま受けとれなくなっていった。美香という子の人格に智子は次第に疑いをもちはじめていたのだ。
 丹沢の山行から戻ってきたその週に、長太の授業があった。長太はさっそく山での観察記録を子供たちに書かせたり、なぜ木の葉は黄色や紅色に色づいていくのかを話したり、子供たちが採集してきた葉を色鉛筆で描かせたり、図鑑をつかって木の名前を調べさせたりした。
 その授業が終わったあと、子供たちは外に遊びにでかけていった。がらんとした居間で長太は美香の観察ノートを智子の前に広げた。
「ちょっとこれを読んで下さい」
 智子はたたきつけるような乱暴な字で書かれているノートに目を落とした。

〈ゲジ子を木にはりつけて顔をくぎでがんがんたたいていった。めにもがんがんくぎをたてた。むねがすうっとしていった。つぎははらだった。ぐさりとさしてがんがんとたたいていった。どんどん胸がすうっとしていった。こんどはあしにくぎをさそうとしたら長太たちがきたのでできなかった。こんどしてみたいです〉

 智子は背筋に冷たいものが走りしばらく言葉がでなかった。
「どうもよくわからない子だったけど、いよいよわからなくなったな」
「そうなんです、私にもどう向き合っていいかわからないんです」
「ずいぶん乱暴な子だと思っていたけど、心のなかも荒廃しているという感じですね」
「そう思いますか」
「そう思います」
 それは智子もずうっと前から気づいていることだった。美香が入ってからもう三か月近くたっているというのに、彼女への接近の仕方がさっぱりわからなかった。とにかく行動の乱暴な子だった。動作が荒っぽく、礼儀というもの、あるいは常識とか社会のルールというものが、この子にはまるでないかのようだった。例えば、ドアを開閉するときとか、物を出し入れするときなど、わざとしているかのようにけたたましい音をたてる。それをなんど注意しても同じだった。力まかせにばたんとドアを閉める。
 みんなで昼食をとっているとき、彼女はぼろぼろとご飯やおかずをこぼす。落としたものはちゃんと拾いなさいと注意すると、足でそのこぼしたものをけとばすのだ。あるいはピアノをがんがんと掌で叩いたり、肘で打ったり、あるときはピアノの上にのぼって足で鳴らしたりした。そのときさすがに智子はかっとなって、思わず怒鳴ってしまった。
 そんな一つ一つの彼女の動作が、次第に智子には負担になっていくのだ。そしてこの子にたいする愛情は永遠にわいてこないのではないかと思ったりした。
「なんだかよくわからなくて、どうしたら交流できるのかと……」
「いますよ、そんな子は、ぼくの塾にも毎年入ってきます、性格があわないということではなくて、なんだか人間としてまるで愛情のわいてこない子が」
「そんな子とはどう向きあっているんですか?」
「授業料をとる以上なるべくその子を大事にしたいと思いますけど、でもだめですね、そういう子との関係ってすぐに底がわれてしまう、強く叱ったり、適当にあしらったり、その子もそんなぼくの気持ちがわかって.やめていきますよ、ぼくはそれでいいと思っているんです」
「そんなふうにあっさりと割り切れるといいですね」
「すべての子を平等に愛せなんて、ぼくのような凡人にはできません、だめなものはやっぱりだめなんです」
 それは本当かもしれなかったが、智子にはまだそこまで割り切れないものがあった。それができるできないは別問題として、教師はすべての子を等しく愛さなければならないという素朴なヒューマニズムを智子は捨てることはできなかった。
 それは十一月に入ったときだった。その日、ちょっと帰りが遅くなってしまった。外はもう真っ暗だった。だから洋子が帰るとき、智子は同じ大井町の駅にでる美香に声をかけた。
「もう暗くなったから洋子ちゃんといっしょに帰ってね」
 するとそこにいた宏美がちょっとこわい顔をして智子をにらむと、
「いいの、洋子は私が自転車にのせていくから」
 といった。そして洋子を駅に送ってきたあと、宏美は居間にかけこんでくると、
「お母さん、美香ちゃんに気をつけてよね」
「どうして?」
「美香は洋子をいじめているんだから」
「ほんとうなの?」
「まったく鈍いんだから、私とかお母さんがいないところでいじめているのよ、だから私はぜったいに洋子と一緒にさせないの」
「そうなの」
「そうよ、美香ってスカートの下とかブラウスの下とか、ぜったいに私たちのわからないところをつねったりひっかいたりするんだから、洋子ってとってもがまんづよい子でしょう、ぜったいに泣かないし、ちくらないから、それをいいことに美香はいじめるわけだからね」
 そういえば、ときどき洋子が涙をためて二階からおりてきたり、いかにも泣いたあとを隠しながらしょんぼりと外から戻ってきたこともあった。智子がどうしたのと訊くと、なんでもないのと目にためた涙をぬぐいながらこたえたこともあった。
 智子はそのことを軽く考えていた。しかし宏美のいう通りだとすると、そのとき洋子は美香の悪質ないじめにあっていたということなのだろうか。智子にとってそれは衝撃だった。この分校にはいじめにあって学校にいかれなくなった子が何人もやってきた。しかしなんとその分校でいじめが発生しているのだ。そのことがまったく見えていなかったとは。その夜、床に入ってからも智子はなんだかそのことが頭からはなれずなかなか眠りにつくことができなかった。
 智子はいつも五時におきて、六時過ぎには大森の会社に出かけていく。コンクリートの部屋は体の芯までひえきるほど冷たい。暖房をいれると机の上にのっている書類をてきぱきと片付けていく。あっという間に時間がたっていく。毎朝一番はやく出勤してくる塩田という社員が、おはようございますと声かけて入ってくると、それはもう智子の帰る時刻だった。机の上を整理して、その日にうちに処理しなければならない書類を鞄にいれると、またシビックを駆って自宅にもどってくるのだ。
 朝の食事は宏美がつくるようになっていた。彼女のレパートリーはまだ数えるほどだったが、いつも一生懸命つくったといった様子があって、智子は味よりも心で食べているのだった。その朝は玉葱と油揚げの味噌汁がつくってあった。ちょっと濃いめの味だったが玉葱の甘味がでてなかなかいい風味だった。いつも二人で朝御飯を食べていると、一番はやくやってくる洋子の元気な声が玄関で聞こえる。
 その朝も、やっぱり洋子が一番だった。智子は洋子を食堂に呼んだ。
「なんですか」
「あのね、ちょっとそこに座ってちょうだい、宏美ちゃんのつくった朝御飯の味見をしてほしいのよ」
 といって朝の食卓のテーブルに洋子も座らせると、ベーコンエッグをつまませたり、味噌汁が嫌いだという洋子にその玉葱の味噌汁をのませたりした。洋子にとって宏美はあこがれの人だった。その宏美がつくったものをことわるわけにはいかない。彼女もその味噌汁をおいしそうにすすった。
「あのね、洋子ちゃんにきくけど、ほんとうのことをおばさんにだけは話してほしいのだけど、美香ちゃんにときどきいじわるされることってあるのよね」
 洋子はちょっととまどっている風だったが、うんとうなづいた。
「美香ちゃんに、つねられたり、たたかれたりしたこともあるわね」
「そんなこともあるよ」
「そんなとき、ちゃんとおばさんにいってちょうだいね」
「うん」
「そういうことする美香ちゃんって、おばさんとても嫌いなの」
「美香ちゃんはだれも友達がいないの、それでストレスがたまって、だからいじわるするかもしれないと思うけど」
 洋子はこの分校のなかで一番遠くからやってくる。電車を三つも乗り継いで一時間半もかけて練馬からやってくるのだ。しかもいままで一日も休んだことはない。こんな子がまったく学校にいけないのだ。こんなに強くやさしい子が。
 十一月下旬になって、それは事件と呼んでもいい出来事がおこった。妙子の世界の料理という授業は毎月つづいていた。その授業は準備が大変だし、またそれに要する費用も智子が支払うものよりもはるかにかかっているのに、妙子は自分の勉強のためにやっているといって休むことなくつづいていたのだ。おかげで世界のレストランをひとめぐりするほどさまざまな料理を作り食べることができた。実に高価な時間、賛沢な授業だった。
 妙子の車が分校のなかに入ってくると、といっても智子のシビックが駐車している脇に入れるだけのことだったが、子供たちは歓声をあげて外に飛び出し、トランクのなかに積みこまれているその日の授業に使う材科を手分けして運びこむ。子供たちはその日を毎月楽しみにしていた。
 その月はキューバ科理の挑戦だった。馬肉をチリソースで煮たタサホと、米のなかに黒い豆をいれてたくアロス・モロス・イ・クリスチャノスという料理が仕上り、食堂のテーブルにならべて、それをぐるりとみんなで取り囲んで食べはじめた。子供たちはそれぞれ感想の第一声を放つ。子供たちの声はいつも正直だった。うまい、辛い、甘い、すっぱい、と。もちろん顔をしかめるときもある。しかしそんなときも子供たちはきちんと守るべき礼儀を知っているのだった。ただ一人をのぞいて。
 その日もまた美香は、タサホをスプーンで一匙すくって口にいれると同時にぺっと吐き出して、
「まずう、こんなもの食えないよ」
 と叫んだのだ。すぐに智子は叱った。しかし美香はそのあとで、もう一つの料理にも手をのばして、口にいれると、またぺっと吐き出して、
「食えば食うほどぱあぷうになるよ、こんなもの犬のえさにでもすれば」
 といったのだ。
 そのとき妙子がもう我慢できないとばかりにはげしくテーブルを叩きつけた。いままでじっと耐えていたものが、ついに爆発したといった様子だった。
「あんた、そこのガキ、さっきから我慢していれば勝手なことをぬかしやがって、なによ、まずいって、まずきゃあ食わなければいいだろう、こっちからごめんだね、あんたなんかに食わせるためにつくったんじゃないんだからね、先月もあんたそうだったね、まずいまずいっていって、そのくせ全部食べたじゃないの、いやなガキだと思ってたけど、今日は許さないからね、あんたはそこに立ってなさい、そのうしろの壁の前に、もうあんたは食べなくていいんだから」
 もうその食事はどこに入ったかわからなかった。それは智子だけではなく、子供たちもすっかり緊張してしまって、はちきれんばかりのにぎやかさはとうとう食事中にはもどらなかった。
 食事が終わると、妙子は壁を背にして立っている美香の前にいくと、さっきは自分もかっとなってあんな言い方をしたが、いまは反省しているのだということをその声ににじませて、
「あなたね、わかったかしら、人が一生懸命つくったものを、これはまずいではないでしょう、こんなもの犬のえさにすればはないでしょう、自分のことばかり考えるのではなくて、あなたと反対側に立っている人のことも考えなくちゃあ、そうしたらもっと人にたいするおもいやりが生れてくるはずなの、この間からあなたのことが気になっていたのよ、ずいぶん荒れている子だなって、それがいまわかった、あなたは人のことを少しも考えない人なの、あなたのおかげでせっかくの楽しい時間が台無しになってしまったでしょう、少しは反省したかしら」
 しかし美香は鋭い目でにらみかえしている。口をぎゅっと結んで、反抗の姿勢を貫いたままなのだ。視線を一瞬もそらさずに妙子をにらみかえしている。
「わかったわね、美香ちゃん」
 と智子も声をかけたが、美香はまばたきもせずに妙子をにらみつけている。なにか鬼気せまるばかりの気配だった。妙子の顔が怒りでゆがんでいく。そして、
「わかったわよ、あんたみたいな馬鹿につける薬はないわよ、とっとと消えてしまいな」
 といって追い払うように手を振った。
 智子と二人だけになると、妙子は吐きすてるようにいった。
「なんなのよ、あの子は、この前もひっぱたきたいほど腹がたったけれど、親はどういう教育をしているのかしら」
「いろいろとあるのよ」
「よくあんな子にあなたもがまんできるわね、けったくそ悪いったらないわ、あんなガキの顔なんて二度とみたくないわね」
 妙子が帰ろうとしたとき、第二ラウンドとでも呼ぶべき事件がおこったのだった。妙子の乗ってきた車のキイが、抜き取られているのだ。車は敷地内のスペースに駐車させているから、妙子はいつもキイをつけたままにしている。その日もまたそうしていた。智子はなんだかいやな予感がするのだった。
 智子は子供たちを呼んで、けっして美香にはその視線をむけずに、
「みんな、妙子おばさんの車のキイ知らないかしら、その車のキイにはお店の鍵までついていて、なくしたら困るのよ、ぜったいどこかにあるんだから、みんなでさがしてちょうだい。もしかしたらみんなのバックのなかにまちがって紛れこんでいるかもしれないから、みんなの持物のなかまでさがしてちょうだい」
「どうしてバックなのよ」
 とか、
「カギが一人で歩くのかよ」
 とか子供たちから不審の声があがったが、智子はさらに、
「妙子おばさんが、どこかに落としたかもしれないから、みんなで庭とか二階の部屋までさがしてちょだい」
 そのとき智子は確信していたのだ。犯行者は美香だということを。智子がそう確信するにはすでに十分な根拠があったのだ。美香は叱られると必ずといっていいほど仕返しをしてくる。あるとき二階からもどってくると居間が水びたしになっていた。そこにバケツがころがっていて、それで水をぶちまけたということが歴然としていた。そのことがおこる一時間ほど前に美香を叱ったのだ。またあるとき電話のコードがばっさりと鋏で断ち切られていた。そのときもまた美香をはげしく叱っていた。叱られ方のはげしさに応じて彼女はその仕返しをエスカレートしていくかのようだった。
 そんなことがたび重なっているものだから、車のキイを抜き取ったのは美香にちがいないと智子は確信するのだ。しかしそれならばいったいどうやって取り戻せばいいのだろうか。美香がしらを切ることは目に見えていた。いままでだってそれがだれの目にもはっきりとわかっているのに、一度だって自分だと告白したことはなかった。智子はどうすればいいのかのまったくわからなかった。
 そのとき、二階から、
「あった! あった!」
 と子供たちの騒ぐ声がきこえてきた。智子が妙子と一緒に駆け上がっていくと、子供たちは二階のトイレのなかにいるのだった。
「どこ? どこにあるの?」
 と子供たちをかきわけて、小さな窓から顔をだして下をみた。
 キイはその窓の真下に落ちていたのだ。それはあきらかに、そのトイレの窓から外に放り出したのだ。こんなところから投げ捨てるようなことをする人間はただ一人しかいなかった。しかしいまはだれがしたかということより、そのキイをどうやって回収するかだった。建物の前にすぐに塀が迫っていて、その間隔はわずかしかない。子供だって通り抜けられない幅なのだ。
 すると洋子が、
「あたしとってくる」
 といったのだ。
「無理よ、あそこは通り抜けられないわよ、狭くて」
 と智子がいい、
「そうよ、出れなくなったらどうするの」
 と妙子もいった。しかし洋子は、
「大丈夫、いってくるから」
 洋子はぱたぱたと階段を駆けおりていった。みんなが見守るなか、洋子はその小さい体をするりと狭い空問にはさみこむと、蟹のように横にしずしずと進めていく。キイの落ちているところまで進んでいくと、とてもそこでしゃがんで捨う余裕などないから、足でそのキイを少しづつけりながら外に向かう。そうやってそろそろと洋子は進んでいく。そしてキイが建物の端にけりだされると、わあっとみんなから歓声があがった。
 その夜、智子は宏美に訊いた。
「宏美はどう思う?」
「美香のこと?」
「そう、あれは美香ちゃんだと思うけど」
「決まってるでしょう、そんなことみんなわかっているのよ、だからすぐにトイレだと思ったのよ、美香はね、一度あそこの窓から洋子の筆箱を投げ捨てたことがあるの」
「そうだったの、そのときも洋子ちゃんは、ああやって取ったの?」
「そうなのよ」
「美香ちゃんって、ほんとうにどうしていいかわからないわ」
「でもあの子は、あれでいいとこもあるよ」
「それはそうだわ、だれだっていいところは一杯あるのよ」
「あの子は私のいうことはよくきくのよ、それに正憲君にのぼせているし」
「それはわかっていたけど」
「正憲君の前にでると、もうぽうっとなって、なんだかかわいいぐらい素直になるのね」
「そうなの」
「赤くなってさ、そういうとこってかわいいよ」
「でもお母さん、なんだかあの子がよくわからない、どうしていいのか」
「うん、それはわかる、お母さんが迷っていることはわかるよ」
「ぜんぜんわからないの、どうしてあの子のなかに入っていけばいいのか」
「でもここで美香を切ったら、お母さんの負けだと思うけどな」
 もうこの子は智子の助手だった。智子の心の底まで見透かしているところがあり、智子が何を考えているのかさえわかる子なのだ。怖いなと思ったのは、宏美が切るという言葉をなにげなく使ったことだった。それはしきりに智子のなかでうごめいている言葉だった。智子には美香にたいする愛情というものがさっぱり湧いてこないのだ。時間がたてばたつほど、むしろ僧しみがつのっていくようにも思えるのだ。最悪の事態が発生する前に美香を切ってしまうのだと。
 長太の言っていることも一つの大きな真実だった。人はすべての子供を等しく愛することなんかできはしない。かならずそりのあわない子供がいる。そういう子とはどこまでいっても結局溶けあうことがない。それどころかむしろともに歩けば歩くほど、二人の傷は深くなる場合だってあるのだ。そのことはよくわかるのだった。しかしだからといってここで美香を切ってしまったら、いったいなんのために分校をつくったかわからないではないか。智子が分校をつくったのは、学校にいけない子供たちのたまり場にすることだった。そういう子供たちの羽根を休めるための場だった。
 しかし、とまた智子の思考は反転するのだった。だからといってこの問題をあいまいにすることはできない。この鍵の問題はきちんと決着しなければならなかった。美香の生命の底に届くようなところで対決しなければならなかった。どうすべきなのだろうか。どのように踏み出していけばいいのだろうか。あれこれと思案をめぐらす智子のなかに、ゲジ子の存在がいよいよ大きくなっていくのだった。
 それは以前から思っていたことだった。美香がわからなくなるたびに、彼女の担任だったゲジ子に会いたいと思うのだった。美香の母親が話した学校での顛末をもう智子はそのまま信じてはいなかった。それどころか事実はまるでちがっていたのではないかと思うのだった。もっと深いいきさつがあり、もっと別の様相をみせた事件ではなかったのかと。ゲジ子はおそらく美香の母親とは全然別の言葉を語っていくはずだった。むしろそこにこそ美香という子とかかわる手蔓のようなものがあるかもしれないのだ。
 その翌日、智子は美香の通っている学校に電話をしてみた。
「富田先生はいらっしゃるでしょうか」
「富田先生?」
「ええ、富田恵美先生です」
「ああ、富田はいま休んでおりますが」
「じゃあ、明日電話をいたします」
 といって電話を切ったが、なんだかその電話の応対のされ方にひどくひっかかるものがあった。その翌日また電話をいれてはじめてそのひっかかるものがわかった。
「では、しばらく富田先生は、学校にこられないのですか」
「ええ、そうです」
「産休とかなにかなのでしょうか」
「いえ、そうではないのですが」
 と電話にでた先生の返事がどうも煮えきらない。智子は分校のことを説明して、どうしても野村美香のことでご指導をあおぎたいのだと食いさがると、その電話に学年主任と名のる男の教師が出てきた。
「いま富田先生はちょっと体を悪くしていましてね、しばらく郷里で療養生活をしているんですよ、いつ現場に復帰するかはいまのところわかっていないんです、野村美香のクラスはいま大沢という先生が担任になっていますが、大沢とお話しになりますか、あるいは私でも結構ですが、できましたらこういう問題は電話ではなんですから一度学校にいらっしゃってくれませんか」
 しかし智子が会いたいのは富田だった。
「富田先生がいま療養なさっている場所を教えていただけませんか、直接富田先生にうかがいたいと思うのですが」
「それはちょっと……」
「住所を教えていただけないのですか」
「ちょっといろいろと複雑な事情がありましてね」
「複雑な事情ですか?」
「複雑といってはなんですか、それはちょっといまはあきらかにできません」
 なんだかミステリアスな電話だった。なにかが隠されていてそのことを公表したくないという口ぶりだった。どうしたものかとその夜、小学校の教師をしている典子に電話をいれてみると、
「ちょっと調べてみるわね、私の知っている先生がその学校にいるかもしれないから、分かったら電話をいれるわよ」
 その電話はすぐにかえってきて、典子がよく知っている山崎という先生がなんとその学校に在籍しているというのだ。
「ずいぶん複雑なことがあったようよ」
「やっぱりね」
「山崎さんに直接会ったほうがよさそうよ、私も彼女に会いたいから、どこかで食事でもしましょうか」
「ああ、そうしてくれるとうれしいわ」
 それぞれ仕事をもっている三人が落ち合うのは日曜日しかなかった。その日の午後、待ちあわせた渋谷のレストランで待っていると、典子が山崎をつれてきた。山崎もまた典子と同年配の教師だった。ということはまた智子とも年齢が近い。そんなこともあってたちまち三人は打ちとけてしまった。
「富田さんは先生になってまだ三年目という新人だったのね」
 とようやく雑談が一段落すると、自然にその問題にふれていった。
「まだ大学生のように新鮮でナイーブで、それでいて撥刺としていて、とっても明るい先生だったの、ちょっと線の細いところがあったけれど、でも一生懸命だったし、とにかく子供たちにはとても人気があったのよ」
 なんだか美香の母親が話したイメージとまるでちがうではないか。美香はゲジ子などと呼んでいたから、攻撃的で管理教育にどっぷりとつかったやり手の先生を想像していたが、実像はまるでちがっているようだった。
「富田さんが一番苦しめられたのは野村美香なの、あの子はちょっと手におえないのね、たぶんどんな先生が担任になっても、あの子には手こずるでしようよ、あの子が富田さんのクラスだったということがとっても不幸だったのよ、とにかくわがまま、それがちょっと普通じゃないの、なんでも小さいとき心臓弁膜症で、あと二、三年の命だと診断されたりしたこともあって、わがまま一杯に育てられてきたのね、なんでも許される、どんなことをしても親がかばってくれる、欲望のおもむくまま育ったような子なの、乱暴で、しかも体が大きいし、体力もあるから、クラスのボス的存在になって、男の子だって歯向かうことができないほどなのよ、いま女の子が元気でしょう」
「そう、いまは女の子の時代ね」
「とにかくあの子は感情のおもむくままにクラスを混乱させていくのね、富田さんがいちばん手を焼いたのはいじめなの、あの子はものすごくしつっこくて、やり方が陰険で、徹底的にいじめぬくのね、富田さんは何度もその悪質ないじめに踏みこんでいくけど、でも踏みこんでいくたびに美香との関係が悪くなる、それにつれてクラスの雰囲気もどんどん悪くなっていったのね」
 智子には思いあたることがたくさんあった。それはいま智子が直面していることでもあったのだ。
「あの子は叱られると、かならずそのぶん復讐してくるのよ、その復讐が鳥肌が立つぐらい陰惨で陰湿なの、みんなで飼っていた金魚を放課後しのびこんで床にぶちまけ、おまけに靴で踏みつぶして帰ったり、貼ってあった班新聞をことごとく破り捨ててしまったり、給食のときのエプロンを何枚もトイレの便器のなかに投げ捨てていたり、とにかく富田さんがなにをされたら一番困るかをちゃんと知っていて、その一番困るところを狙ってくるらしいのね」
「おそろしい子ね」
「そうなの、ベテランの先生でも手こずるでしょうね、富田さんが不眠症になるほど苦しむのは当然だったよ」
「わかるわ」
「富田さんは美香の母親にも苦しめられたの、この人もまた普通じゃなくて、なにかあるとすぐに職員室に怒鳴りこんでくるような人なのよ、もう勝手にずかずか入ってきて、先生たちの前を素通りして、いきなり校長か教頭の前にいってわめきたてるわけなの、うちの子供はなにもしてないのにどうしてうちの子ばかりが叱られるのか、どうしてうちの子が悪者にされるのか、こんな差別は許せないってかみつくのね」
「三度ほど美香のお母さんに会いましたが、そんなイメージではなかったわ」
「彼女の本性を知らない人は、きっと物静かで理性的な人だと思うでしょうね、ところがなにか問題があると、それはもう激情的になって、気がちがったのではないかと思わればかりに豹変する、それはすごいものよ、ちょっとおそろしいばかりにね」
「とても信じられないわ」
「美香だけで手こずっているのに、さらにもっとすごい母親がいるんですから、富田さんは苦労したと思うわ、美香のなかに踏みこむということは彼女の母親との戦いでもあったんですからね、美香という子はトラブルメーカーで、次々に問題をひきおこしていく、そんなこんなで富田さんは教師であることにすっかり自信を失っているところに、給食費の事件がおこったの、それはお聞きになっているんでしょう」
「ええ、でもそれも母親の側からの話ですから、いまはそのまま信じられないのね」
 そこで智子は美香の母親がした話をざっと話すと、山崎はあきれたといわんばかりのためいきをつくと、
「よくもぬけぬけとそんなふうに話せるものね、そんなふうに話を歪曲されたら富田さんがかわいそうだわ」
「実際はどうだったんですか」
「お金をカバンのなかにいれられた子というのは、その頃美香たちが必死になっていじめようとしていた子なの、とにかくその子のことがむかつくわけなのね、顔も見たくないから、登校拒否児童にしてしまおうっていじめつづけていたけど、その子はなかなか登校拒否にならない、それじゃあ泥棒にしてやろうという計画になって、望月という子のカバンのなかからこっそり抜き取った給食費を、その子のカバンのなかにいれたわけなの、それで泥棒、泥棒とはやしたてて、その子を泥棒に仕立ててしまった、それが事実なの、美香と一緒に仕組んだ何人もの子が、泣きながら告白していることなの」
「なんて恐ろしい子なんでしょう」
 と智子がいうと典子もまた、
「悪魔のような子だわ」
 といった。
「さすがの富田さんも美香をはげしく叱ったら、美香は、私じゃないんだから、どうして私のせいにするのって、椅子とか机なんか放り投げて大暴れして、ぷいと家に帰ってしまったの、それから一時間もしないうちに母親が怒鳴りこんでくるわけ、もう職員室がしんとするほどそれははげしい抗議だったわね、翌日になると今度は夫婦そろってやってきて、富田さんをクラス担当からはずしてくれとまで要求してくるわけなの、その要求が通らないと今度は新聞社に訴えるわけですからね」
「ひどい話ね」
「それで新聞社とか週刊誌とかが取材にきたのよ、いくらなんでも片方だけの話では記事にできないから、その裏をとるためにあちこち取材するわけでしょう、そうすると次第に富田先生のほうが正しくて、訴えてきた側の話がおかしいということになって、結局一行の記事になることもなかったわね、でもそれは富田さんの心がこわれるばかりの事件だったのよ、彼女、その頃から、声がでなくなったんだから」
 山崎はその事件がどんな結未になったかを、静かにしかし怒りをにじませてつけ加えた。
「彼女はその事件でもうずたずたにされたのよね、いま安曇野で療養生活をしているけど、その心の傷がいえたとしても、もう二度と教壇に立つことはないように思えるわ」
 智子は二人と別れて家路にむかうなかで、また同じ思いをめぐらすのだった。長太がいっていたように、人はすべての子供を等しく愛することはできない。どこまでいっても理解しあうことができない子供だって、どんなに深い交流をしても愛することができない子供だっているのだ。そのことは多分、美香にもわかっているにちがいない。子供たちは実に鋭く大人の心の内をのぞいているものなのだ。どんなに智子が無理をして美香とつきあっているかを。
 このままいけばきっとどこかで衝突するだろう。あの仮面をかぶった母親とも。そのとき泥試合にならないともかぎらない。そんなことはごめんだった。そんなことをしたくなかった。深い傷をたがいに作らぬうちに、結論をだした方がいいのかもしれないと智子はしきりに思うのだった。
 それから一週間ほどたった日だった。その日、正憲と明彦と宏美は藤沢の『自由の広場』での定期の交流会に朝からでかけていって、分校に残っているのは低学年ばかりだった。二階には智子の部屋と宏美の部屋のあいだに、十畳ほどのがらんとしたスペースがあった。子供たちはそのスペースが好きで、よくそこにこもっているのだが、そこからぱたぱたと洋子がスリッパをならして降りてきた。顔がゆがんでいる。涙を必死にこらえている顔だった。
「どうしたの、洋子ちゃん」
 とテーブルで分校新聞をつくっていた智子が声をかけた。
「お弁当こぼしちゃったの、雑巾ある?」
 と涙声でいった。
 ぴいんときた智子は二階にあがっていった。そこにきたのが洋子だと思ったのか、寝っころがって、だらしなく足を壁におしつけて、マンガを読んでいる美香がぞっとするような声でいった。
「はやく拭けっていっただろう、ったくのろいんだから、てめえは」
 しかし部屋にあらわれたのが智子だとわかると、
「なんだ、おばさんか、洋子がお弁当をひっくりかえしちゃったんだ」
 それはあやまってこぼしたというものではなかった。壁に叩きつけられて、ぱっくりと蓋があいて、弁当の中身があたり一面に飛び散っていた。智子ははげしい怒りをおさえて、
「これをしたのは美香ちゃんじゃないの?」
「どうしてそんなこというの、見もしないで」
「おばさんにはちゃんと見えるのよ、見えないものまで見えるんだから」
「でたらめいわないでよ、見えないものがどうして見えるの」
「見えるのよ、美香ちゃんの心のなかまで見えるんだから、これは美香ちゃんがしたのよね、そうでしょう」
「でたらめいわなでよ!」
「でたらめじゃないわ、こんなことする人、美香ちゃん以外にいないのよ、洋子ちゃんがこんなことするわけないでしょう、お母さんが毎日毎日心をこめてつくってくれるお弁当を」
「あたしはしてないんだからね、大人ってすぐにきめつけるんだから」
 そしてはげしく智子の目をにらみつけた。かみついてくるような鋭い目だ。いままでこの目の正体がわからず、いつも智子の側から目をそらしてしまった。美香は威嚇しているのだった。そして同時に相手を値踏みしているのだった。智子は美香の日をはねつけるようににらみかえした。美香の視線よりも、もっとはげしく、もっと深く、もっと怒りをこめて。そのにらみあいはしばらく続いたが、いつもとちがう智子のはげしい視線に、美香の視線がゆらゆらとゆらぎはじめた。そしてずるずると後退するかのように目をそらしたのだった。智子は静かにしかし鋭くいった。
「美香ちゃんがここをきれいにしなさい、下にいってバケツと雑巾をとってきて、すぐはじめなさい」
 美香はまだふてくされたままだった。しかしもう智子にその目を挑みかけてくることはなかった。目をそらしたままだった。智子はさらに強く言った。
「いいわね、それをしてくれるわね、それと洋子ちゃんはこれでお昼のお弁当がなくなったんだから、美香ちゃんの分を半分あげるのよ」
「あたしはお弁当じゃないもの」
「マクドナルドにいくわけね、それだったら美香ちゃんが買った分の半分を洋子ちゃんにあげなさい」
「そんな金ねえよ」
「あなたが食べる分の半分を、洋子ちゃんにあげるということよ」
「そんなのおばさんがつくればいいでしょう、そのためにお金払ってるんだから」
 智子はかっとなってしまった。
「それどういう意味なの? もう一度いってくれる」
 いつもとちがうはげしい見幕に、美香はもう観念したのか、
「わかったわよ、そうする」
 といってすごすごと雑巾をとりに下に降りていった。
 しかしそれでことは終わらなかった。美香の復讐というものがやっぱりおこったのだ。
 智子の家の階段には踊り場があった。その小さな空間の壁に叔父から分校の開校記念にプレゼントされたアメリカの画家のリトグラフをかけてあったのだ。リトグラフといえそれは相当に値をはるものだった。
 智子はその絵が好きだった。なにか生きる力というものがわいてくる絵だった。のんびりとした草地のなかに小さな建物がたっている。それは学校だった。開拓時代の学校なのだろうか。荒野のなかにぽつんと立っているその孤独な姿は、しかしまた未来と理想を一杯にはらんでいるのだった。その絵はいまでは智子の精神そのものだった。
 そんなに大事にしている絵にマジックでばっさりといくつもの乱暴な線が書き込まれていた。美香はどんな仕返しをすれば相手が一番困るかをよく知っていた。一番大切なものを狙って復讐するのだ。こうしてこの子は自分の存在を訴えてきたのだろうか。叱られるたびに、怒りと悲しみを相手にしらしめるために仕返しをしてきたのだろうか。家で、学校でこうしてきたのだろうか。復讐することが彼女の表現だったというのだろうか。
 智子は怒りに燃えて叫んでいた。
「美香ちゃん! 美香ちゃん!」
 そして彼女が姿をみせると智子はおどりかかっていた。
「なんていう悪い子なの、あなたという子は」
 抵抗する彼女をおさえつけて腿やお尻をはげしく叩くのだった。智子は怒りながら泣いているのだった。
「冗談じゃないわよ、明日、お母さんを連れていらっしゃい、もうお母さんにはっきりといいますからね、もうあなたとはつきあいきれないって、もう美香ちゃんはここにくる必要がありませんって、あなたは自分のしていることがわかっているの、どんなに悪いことをしているのかわかっているの、あなたはどんなに人を傷つけているかわかっているの」
 智子のなかに富田恵美の悲しみが乗り移ってくるかのようだった。心をずたずたにされたその若い教師が。やわらかく、やさしく、誠実な心を引き裂かれたその教師が。この悪魔のような子に。悪魔の心をもった子に。
「あなたは富田先生にどんなことをしたのかわかっているの、あなたは富田先生の悲しみや苦しみを知らないで呪い殺してやるなんて、冗談じゃないわよ、あなたこそ呪い殺されるがいいわ、あなたこそゲジ子じゃないの、あなたこそサイカチの木に釘で打ちこまれたゲジ子なのよ、こんな悪い、こんな卑怯な、こんな乱暴な子なんて、生きていく資格なんてないからね」
 美香はもう智子にされるがままだった。それなのに智子はなにか悲しみと怒りを美香にぶつけるように叩き続ける。
「この分校は、あなたのような人の悲しみがわからないような人のくるところではないの、もうあなたはここにこないでいいの、ここはあなたのくるところではないの、ここは思いやりのある子だけがくるところなの」
 そのときだった。それはまったく智子も予測しないことがおこったのだ。美香が火のついたようにはげしく泣きだすと、智子に飛びついてきたのだ。両手を智子の首にまわすと、あふれる涙で濡れた頬を智子の顔におしつけて、
「やめさせないで下さい、ごめんなさい、もうしません、もうしませんからここにおいて下さい、ここをでるともうどこにもいくところがありません、お願いします、ここにおいて下さい、やめさせないで下さい、もう悪いことはしませんから」
 彼女は激しくしゃくりあげながら、わめくようにうめくようにいった。智子は呆然としてしまった。いったいこれはどういうことなのだろうか。この子はいまやっとその心を開いたというのだろうか。あるいはこの子のなかに住みついていた悪魔が、いま智子の打擲で抜け落ちていったとでもいうのだろうか。この子はいまはじめて智子の言葉をその心のなかで受けとめたというのだろうか。このはげしい憎しみのエネルギーを使わなければこの子のなかに入っていけないとでもいうのだろうか。
 智子もなんだかわけのわからぬ涙を流して、しかと美香を抱きしめるのだった。




 
 

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