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「草の葉」の序文 W・ホイットマン

初版の序文 ウオルト・ホイットマン
ニューヨーク、ブリックリンにて

アメリカは過去を拒まず、たとい古い政治体制の下で、古い政治体制のさなかで生み出されたものであっても、たとい身分制度の思想であれ今は人心をはなれた宗教であれ、ともかくも過去のいっさいの所産を拒まず──平然とその教訓を受けて入れ──すでにその役目を果たした生命が今は新しい形式を得て生まれ変わっているというのに、意見や風俗や文学が未だに過去の形骸に装われ、露命をつないでいるからとて、けっして苛立つことなく──その屍が寝室や食堂からゆっくりと運び出されていくのを認め──それが戸口のところに至ってしばしためらう姿を認め‐―それがその時代には一番ふさわしかったのだということを──そして今や登場を待つ頑健で見事な肉体をそなえた後継者の手中に活動のバトンが譲り渡され──この新たな人物も、やはりその時代には最適だろうと認めるのである。
 
いつの時代のいかなる民族も、おそらくアメリカ国民ほどに、豊かな詩心をそなえたものはいない。合衆国そのものが、本質的に最大の詩篇なのだ。古今の歴史を通じて、もっとも大きくもっとも興奮をそそる国ですら、合衆国にそなわる無類の広大さと感動に比べれば、穏健で物静かにみえる。ついにこの国に至って、人間の行為の中にも、昼と夜とが織りなす広大な宇宙の行為に匹敵するものが誕生したのだ。ここには、制約の糸から解き放たれ、特殊なものや末梢のことには目もくれず、威風堂堂と隊列をくんで進む行為がある。
 
ここでは、英雄ならではとしか思えぬ愛想のいいもてなしぶりで、万人を歓迎し迎えいれている。ここでは、群集と集団にそなわる驚嘆すべき不敵さと、その展望の力強さにかけては及ぶもののない偉業とが、とるに足らぬものは歯牙にもかけず、奔放に、流れるように広がりゆき、豊饒で見事な実りをふんだんに雨を降らせる。たしかにこの国は、夏と冬が産みだす富をそっくり所有しているにちがいない。だから、穀物が地中から成育し、果樹園には果実が熟れ、人江には魚が泳ぎ、男が女によって子供を産むかぎりは、けっして破産するには及ばないのだ。
 
他の国なら代表者をたてて国威を示しもしようが──しかし合衆国の真価を、はっきりと、あるいはくまなく表わしているのは、行政部でも立法部でもなく、さては大使、作家、大学、教会、社交界でもなく、新聞や発明家たちですらなく──東西南北のあらゆる州に、その力強く豊かな国土のいたるところに生きる民衆こそ、つねに最大の代表者なのだ。
 
しかしながらこの国の大きさは、もしも市民の精神が、それに匹敵するだけの大きさと寛やかさを持たなければ、ただのこけおどしにすぎぬだろう。ひしめきあう多くの州も、街並も汽船も、実業の繁栄も、農地も、資本も、学問も、人間の理想にとってはおそらく不充分だし──詩人を満足させることもできないだろう。どんなに想い出の鉱脈が豊かでも、やはり充分というわけにはゆかない。生命力の盛んな国は、いつも深い足跡を刻むことができるし、最上の権威を、願ってもない費用で──つまり、自分自身の魂から、買いとることができるのだ。
 
この魂の権威こそ、さまざまな個人や州が、現在の輝かしい行為が、すべて有効に用いられてゆけば、やがて到達するはずの極点であり、詩人たちの心に芽生えるかずかずの主題が彼方に目指す究極でもある。
 
(なんだかまるで、世代から世代へと歴史の道をかけ戻り、東洋人の生き方に帰一することが必要であるかのようだ。証明可能な事柄にそなわる美と神聖も、神秘な事柄のそれに比べれば、とうてい太刀打ちかなわぬかのようだ。人間はどの時代にも、せっかく生きてきたその証しを残していないかのようだ。西方の大陸が発見によって開発されたことも、南北アメリカの歴史も、なさけないことに、古代の微微たる劇場や、あるいは中世の意味もない夢遊病に比べてすら、見劣りがするかのようではないか)
 
合衆国はその誇りのゆえに、並みいる都会の富と華麗にも、商業や農業の収益にも、国土の巨大さや物質的勝利の景観にもあきたらず、さらに進んで、完璧な発育をとげた無敵で素朴な個人、あるいはその集団を眺めては、しきりにうなずき目を細めるのだ。
 
アメリカが世界に無比の国であるからには、当然アメリカの詩人なら、ことの新旧を問わずに歌うべきである。アメリカの詩人がとるべき表現は、精神の世界を歌う新しいものでなければならぬ。間接的に暗示する方法をとるべきで、直接的な、描写的な、叙事的な方法などは避けねばならない。このアメリカ的表現の特徴は、ただこれだけにとどまらず、これを通してもっと多くのものにかかわっている。他の諸国民の時代や戦争を歌うのもよい、その歴史や人物たちを描くのもよかろう。因襲的な韻文詩なら、それでこと終われりとするのもよい。だが、共和国の偉大な賛歌はそれではすまぬ。
 
この国の歌の主題は創造的で、未来への展望をそなえている。慣習や服従や法律の浅い湿地にはまりこむと、たいていのものが淀んでしまうのに、偉大な詩人だけは絶対に停滞することがない。服従心が彼を支配することはなく、彼が服従心を支配してしまうのだ。手の届かぬ高所に立って、強烈な光を操作する──その光源の旋回支軸を彼は指でまわす──立ち姿のままで彼は、もっとも速い走者をすら唖然たらしめ、楽楽と追いついては自らの光の中に封じこめてしまう。
 
背信と虚飾と軽薄に踏み迷う時代の襟首を、彼はゆるがぬ信念の手で引き戻す。信念は魂の防腐剤であり──民衆の心にしみ渡って、心の腐敗を防ぐ──民衆は信仰と期待と信頼をけっして棄てることはないのである。文肓の人間にも、このうえなくけだかい表現能力をそなえた天才をすら、卑小で愚鈍にみえさせるあの名状し難い新鮮さと無心さとがあるものだ。詩人の目から見れば、大芸術家ではない人間が、最大の芸術家に比べてすらなんの遜色もなく、神聖で完璧なこともありうるという事情は、少しも異とするにあたらないことなのである。
 
破壊したり改造したりする能力は、最大の詩人によって存分に用いられるが、攻撃の能力は詩人にはほとんど無縁である。過去はしょせん過去にすぎない。もしも詩人が、すぐれた模範をはっきりと世間に示し、その歩みの一歩一歩が自己の証しとなるのでなければ、彼は無用の長物にすぎない。大詩人は、そこにいるという事実だけで相手をいっきょに征服してしまうものであって──交渉を重ねたり、闘争したり、かねて立てておいた計画の実現に浮身をやつしたりすることはない。
 
そういえばたった今、大詩人が向こうの方へ行ったところだ。彼の後姿をとっくりと 見たまえ。彼が通りすぎた後には、絶望や人間嫌いや狡智や排他心、あるいはおのれの出生や皮膚の色を恥じる心、地獄についての妄想や邪信などは、ほんの少しの痕跡すら残されてはいないのだ──そして、大詩人の後姿を見送ってからというものは、何びとも無知や弱点や罪のゆえに堕落することはないだろう。最大の詩人には、つまらぬとか些細ななどという評言はほとんど理解できない。
 
以前には卑小だと思われていたものでも、いったん詩人が息を吹きこめば、それは宇宙の壮大な生命をはらんで拡大する。詩人は予言者であり──独自な存在であり──自分だけで完全に充足している──しかし、そうはいっても、他の人びとが彼より劣るというわけではなく、ただ詩人には、他人とのこの平等が理解できるが、一般の人びとの目にはこの真理が映らないのである。詩人は合唱隊の一員ではなく──他人の声に合わせて調整するために自分の歌を中断することはない──むしろ詩人は、調整を統べる基準である。
 
いわば視覚が他の器官に対して果たす機能を、詩人は世間に対して果たすのである。視覚にそなわる不思議な謎はまさに神秘だ。他の感覚は互いに力を合わせて証明しあうが、視覚の証しとなるものは視覚以外にはなく、精神の世界に住む実体たちの先ぶれとなる。この視覚がちらと一瞥をくれただけで、人間が積み重ねてきた凡百の調査や、地上のありとあらゆる道具や書物、いっさいの理論までがすべて無に帰してしまう。
 
桃のたねにも比すべき小さな眼球を見開き、遠いもの近いものの観客となり、落日の風景を眺め、そしてそれらすべてのものたちを、鮮烈な速度で、ひそやかに整然と、混乱も騒動も混雑もなしに、吸収しつくしてしまうという経験をただの一度でも味わったことがあれば──果たして不思議などということがこの世にあろうか、信じられぬものがあろうか、不可能な、根拠のない、あるいは曖昧なことが、果たしてあるだろうか。
 
陸と海、動物と魚と鳥、天空と天体、森と山と川もけっして些細な主題ではない──しかし世間は、もの言わぬ現実の物象にはつきものの美や威厳だけでは満足せず、現実と自分たちの魂との間に通じる道を教えてくれることを詩人に期待する。世間の男女も美を感じる能力なら充分にそなえている──おそらくは詩人と同じくらいに。猟師や木樵や早起きする人たち、庭園や果樹園や田畑に働く人たちが自然に寄せる強く激しい愛着、健康な女性が男性の肉体に、船乗りや御者たちに寄せる慕情、光や大気を求める情熱──これらすべての感情は、戸外を愛する民衆の内部に、美に対する確実な感覚がそなわり、詩心が住んでいることをさまざまに示す昔ながらの証しにほかならない。
 
民衆が美を感じるのに詩人の助けはいらない──なかには例外の人間もいようが、民衆にはまったく不必要なのだ。詩の真髄は、押韻や一貫した形式を与えたり、対象に抽象的に呼びかけたり、あるいは愁わしげな不平や気のきいた教訓を述べたりするだけでは、とうてい表現しきれるものではない。むしろ詩の真髄は、これら個々の特色や、そのほか多くのありようを支える生命であり、魂の内部に存在しているのである。
 
押韻の利点は、それがさらに甘美で豊かな韻律のたねをまくということであり、一貫した形式の利点は、それがやがて、目には見えぬ土壌の中に張りめぐらされたそれ自身の根に帰一していくということである。完璧な詩の押韻と一貫した形式は、韻律の法則が思いのままに成長してきた姿を示すものであって、ちょうど繁みに咲くバラやライラックの花とおなじように、確実にそしてゆったりと、その法則の中から芽生えてきて、栗の実やオレンジ、メロンや梨のように固くひきしまった姿をとって、形式ではとらえきれない微妙な芳香を漂わすのである。
 
このうえなく見事な詩、音楽、演説、朗唱などにそなわる流暢さときらびやかな特性は、けっしてそれ自体としてあるのではなく、何かほかのものに依存して存在している。美しさはすべて、美しい血液と美しい頭脳から生まれる。もしも男や女の内部でこの二つの偉大な資質が結びついていれば、それでもう充分であり──この理想的な状態が事実としてあれば、宇宙のすみずみまで向かうところ敵なしであろう。
 
それに反して巧計や虚飾は、たといそれを百万年の歳月かけて積み重ねたとしても、しょせんは無力なのだ。言葉を飾り流暢さのみに腐心する者は敗北する。敗北を望まぬ人のなすべきことはこうだ──大地と太陽とすべての動物たちを愛し、富を侮蔑し、求める人にはすべて施しを与え、愚鈍にして狂気なる者を擁護し、おのれの収入と労役を他人に与え、暴君を憎み、神について言挙げせず、人民に対しては忍耐と寛容をそなえ、既知であれ未知であれ何ものにも脱帽せず、あるいはいかなる個人や集団にも屈従することなく──無教育の逞しい人たちと若者たちと人の子の母親たちを友として自由に進み──かつて学校や教会や書物を通じて語りきかされたことを、あらためてひとつ残らず再検討し、そしておのれの魂に無礼をはたらくものは、きれいさっぱり追放してしまうことだ。
 
そうすれば、自分自身の肉体がそのまま一篇の偉大な詩となり、単に言葉づかいだけにとどまらず、もの言わぬ唇や顏に刻まれたしわの中にも、目をおおうまつげの間にも、肉体のあらゆる動きと関節の中にも、このうえなく豊かな流暢さがそなわるはずだ。詩人は、不必要な仕事に、あたら貴重な時間を空費してはならぬ。土地はすでに鋤き終えられ、施肥も終わっていることを知っているはずだ。余人はさておき、詩人なら心得ているはずである。詩人はわき目もふらずに創造の作業に直進する。詩人の自己信頼は、彼がふれるものすべてにそなわる自信を征服し──それぞれのものの身を守るいっさいの附属物を征服するであろう。
 
ぼくらが知っているこの宇宙は、願ってもないひとりの愛人を持っている。この愛人とはつまり最大の詩人である。彼は永遠の情熱を傾けつくし、その愛の道行の行手にたといどのような偶然が起ころうと、またどのように思いがけぬ幸運や不連がかりに起こることがあっても意に介せず、毎日毎時間、ひたむきに宇宙に向かって想いを述べては、甘美な愛の満足を得る。余人なら心を挫かれ中断してしまうような破局も、いとしい宇宙との触れあいと恋の歓喜とを目指して進む詩人には、その燃えさかる情熱をさらに燃えたたせるための燃料なのだ。
 
歓喜を迎えて、たとい余人の心がどれほど大きく広がりゆこうとも、詩人の心の限りなさに比べれば、たちどころに収縮し、無いも同然の姿になってしまう。夜明けや冬の森の風景を眺めたり、遊びにふける子供たちの姿に見とれたり、あるいは男や女の肩に腕をまわしたりするとき、詩人は、天空、つまり究極の高みから流れ出るすべての霊気と和合している。なべての愛にまさる詩人の愛には、ゆとりと広がりがそなわり──愛するものに近づくときにも、いつもゆとりを保ちながら進む。
 
詩人の愛には不決断や猜疑はなく──確信のみがあり──愛するものとの間がたとい隔たっていても問題にしない。詩人の経験、それに苦痛や恐怖も、けっして無駄ではないのである。何ものも詩人の前進を阻むことはできない──苦悩も闇も──そして死も恐怖も。詩人の目から見れば、不平や嫉妬や羨望は、地中に埋められ腐れ果て屍にすぎぬ──すでに埋葬されたその姿を、詩人は自らの目でしかと見届けたのだ。たとい海が岸辺を信じ、岸辺が海を信じるとも、詩人がおのれの愛の結実を信じ、完成と美のいっさいを信じるその心にはよもやかないはすまい。
 
美の開花はいちかばちかの偶然ではなく──生命の開花に劣らず必然的であり──引力とおなじように正確で絶対的なものである。視覚から新たな視覚が生まれ、聴覚から新たな聴覚が生まれ、声から新たな声が生まれて、物と人間との調和を永遠に探りつづける。これらの感覚は、雑然と群がるものにも奔放に流れ出るものの中にも、完成の法則が働いていることを理解している──この法則がおおらかで選り好みをしないことを──光や闇の一瞬たりとも、あるいは陸や海の一部たりとも、この法則なしには存在しないことを──そしてまた、四方に広がる空のどこにも、どんな商売や職業にも、あるいは事件のどんな展開の中にも、必ずこの法則が働いていることを理解している。だからこそ、美が適切に表現された場合には、正確さと均衡が伴うのである。それぞれの部分がぶざまに重なり合うようなことがあってはならぬ。もっともすぐれた歌い手とは、もっともしなやかで力強い発声器官の持主のことではない。詩の魅力は、もっともきれいな韻律と響きをそなえた詩にはない。
 
なんの苦もなく、そして楽屋裏はけっして人目にさらさずに、最大の詩人は、事件や情熱や光景や人間たちに内在する精神を、選り好みせずにひとつ残らず描きつくして、読者や聴衆の個性の上に、あるものは多くあるものは少なく、それぞれに影を落とさせる。この仕事を充分に果たそうとすれば、おのずから〈時間〉に追随する諸法則と対抗することになる。真の目的はたしかに精神を表現するということにあるし、目的実現のための手がかりも、やはりそれを果たすことにあるにちがいない──ごくかすかに表現しただけでも、それはとにかく最上のものの表現なのであって、やがてはこの上なく明確な表現になるはずである。
 
過去と現在と未来はたがいに断絶しているのではなくて、ひとつに結びついている。もっともすぐれた詩人なら、過去と現在の内部から、やがて未来へとつながっていくひと筋の糸を作りだす。彼は、死者たちをその棺からひきずり出し、ふたたび自らの足で立たせる。詩人は過去に向かって言うのである──立ち上がってわたしの前を歩め、わたしがお前の姿を知るために、と。こうして詩人は過去からの教訓を学び──未来が現在となる場所に身をおくのである。
 
もっともすぐれた詩人なら、人物や場面や情念に強烈な光をあてるだけで終わることなく──ついには高みに上がり、すべての部分を完成させる──彼は高くそびえる山脈をぼくらに見せてくれるが、誰にもその峰が何のためにそびえ、その彼方にどんな風景が開けているか分らないのである──遠くはるかな峰の先端に立って、詩人の姿は一瞬ひかり輝く。彼の面貌に最後に浮かぶひそかな徹笑や渋面はまことに絶品である。別離の瞬間にひらめくその表情を見た者は、以後何年にもわたって、勇気を得たり恐怖に脅えたりすることだろう。もっともすぐれた詩人ならば、道徳のお説教を試みたり、それを織りこんだ寓話を語るようなことはない──彼には魂というものがよく分っているからである。
 
つまり魂には、それ自身の口から語られるものを除いて、いかなる教訓も説話も認めないという事実にみられるような、あの測り知れぬ誇りがあるのだ。しかし同時に魂には、誇りにおとらず測り知れぬ思いやりもあって、均衡を保っている。そして、この両者が相伴うときには首尾よく前進を果たすが、一方が他を制して進みでることはほとんどできない。芸術の深奥の秘密は、この両者といわば同衾の仲にある。もっともすぐれた詩人なら、この両者の間にぴったりと身を横たえてきたはずであり、彼の文体や思考には、この両者が生きているのである。
   
芸術を創造する秘訣は、つまり、表現の花であり文学を照らす陽光ともいえるものは、単純さである。単純さにまさるものはない──過剰を補なえるものは何ひとつなく、明確な輪郭の欠如を補なえるものも皆無である。盛り上がる衝動に支えられ、知性の深淵をくぐり抜けて、あらゆる主題に明確な表現を与えることは、月並な能力ではないが、またきわめて非凡だというほどでもない。けれども文学の分野で、たとえば動物の身のこなしのように、完璧な正確さと伸びやかさで語り、森の木々や路傍の草のように、清らかな情感をこめて語ることは、まさに芸術の完全な勝利である。もしもこの難事を達成した人物があるとすれば、それこそあらゆる国や時代の芸術家たちの中で、まさに巨匠のひとりにちがいない。
 
このような巨匠の姿を眺めるときにぼくらが感じる充足感は、たとえば入江の上を灰色のかもめが飛び、純血種の馬が元気に跳ねまわり、ひまわりの花がすんなり伸びた茎にもたれかかり、あるいは太陽が登って天空を旅し、やがて日暮れて月が登るさまを眺めるときの充足感と比べても、よもや劣りはしないだろう。大詩人とは個性的な文休の持主をいうのではなく、むしろ思想や物象を、ほんのわずかな増減すら加えずに、元のままの形で通過させる水路であり、自分自身を思いのままに通過させる水路なのである。こうして詩人は、おのれの芸術に誓うのだ、ぼくは余計な手出しはしないよ、ぼくの作品の中へ優雅さや効果や独創性を出しゃばらせて、ぼくとほかの物たちとの間に邪魔なカーテンみたいにぶらさがらせたりはしない。
 
絶対にだよ、たといこの上なくぜいたくなカーテンでもね。ぼくが作品の中で語るものは、かけ値なしにそのもののありのままなのだ。読者を有頂天にさせたり驚かせたりうっとりさせたり慰めたりすることは、そうしたい奴にまかせておいて、このぼくには、健康や夏の日照りや冬の雪とおなじように、ちゃんと期するところがあるし、同じように傍目かまわずわが道をいくつもりだ。ぼくが経験したり描いたりするものは、ぼくの手を離れるときにも、ぼく自身の手は少しも加えられてはいないのだ。どうかぼくの傍にいて、鏡に映る姿をぼくといっしょに眺めてほしい。
 
 大詩人の体内に昔ながらの赤い血が流れ、一点の曇りもない気品がそなわっていることは、彼らの奔放さによって証明されるだろう。雄雄しい精神の持主なら、たとい慣習や先例や権威であっても、もし自分の心にそぐわないときには、ゆったりそこを通りぬけて新しい世界に踏み出すものだ。第一級の作家、学者、音楽家、発明家、芸術家たちにそなわる特性のなかで、何よりもまずぼくらの感嘆をさそうものは、新しく自由な形式を踏まえた静かなる気概である。詩、哲学、政治、機械、科学、行為、美術工芸、適切な国産のグランド・オペラ、造船技術、あるいはその他いっさいの技術が必要とされているときにあたって、独創的で実際的な最大の模範を示してくれる人物こそ、永遠に偉大なのである。完全無欠な表現とは、それ自身にふさわしい世界が見つからぬままに、自ら独自の世界を創り出す表現のことである。
 
偉大な詩がひとりひとりの男や女に訴えかける言葉はこうである、どうかぼくらを読むときには、何のひけ目も感じずに読んでほしい、平等の足場が崩れぬかぎり、君はぼくらを理解できる。ぼくらとて君よりまさっているわけではなく、ぼくらの中にあるものは君の中にもあるのだし、ぼくらが嬉しいと感じるものは、君だって恐らくそう感じるだろう。ところで君は、宇宙の〈至高者〉が一体だけのはずだと思ったのか。ぼくらに言わせれば(至高者〉は無数にいて、しかも、ちょうど無数の視力がお互いに相殺しあうことがないように、この〈至高者)たちも、それぞれに至高のままであることができ──人間が完全な、あるいは壮大な存在となることができるのは、ひとえに自分の内部に至高者を意識するためなのだ。
 
万物を砕きつつ吹き荒れる嵐、死闘とその残骸、暴風雨のこの上なく激しい狂気、海の力強さ、自然の動き、欲望に悶える人間の苫悩、そして威厳と愛と憎しみ──これらのものの壮大さはいったい何であろうか。それこそ魂に内在する至高者であって、それがこう語りかけるのだ。猛りつづけよ狂いつづけよ、わたしのいくところ、つねにわたしが主人──空が激しく打ち震え海が砕け散るときも、それはほかならぬわたしの業。自然と情熱と死と、そしてあらゆる恐怖とあらゆる苦痛の、わたしは主人。
 
新しい国アメリカの詩人たるものは、寛容と愛情、そして競争相手を励ますことをその特性とすべきである。詩人自身が本来ひとつの〈宇宙〉であって、ひとり占めにしたり隠しごとをしたりせず、どんな物でも喜んで万人のために用だて──自分と匹敵するほどの人物が出現することを日夜激しく求めている。詩人は富や特権に注意を奪われるべきではなく──詩人自身がその富や特権となるべきであり──もっとも富裕な人間とは誰であるかを知るべきなのだ。もっとも富裕な人間とは、目にうつるすべての虚飾におめず臆せず、彼自身という確固たる宝庫の中から、少しも遜色のない宝物をつかみ出してみせる人物のことだ。新しいアメリカの詩人たるものは、個人を差別する階級制度を描くべきではなく、累積する関心事の中からほんの一つか二つだけを偏愛したり、愛だけを、真理だけを、魂だけを、あるいは肉体だけを熱心に描いたり──西部諸州よりも東部諸州を、南部諸州よりも北部諸州を好んで支持すべきではない。
 
実証科学とその実用的な動向は、もっともすぐれた詩人に対しては、なんの制約にもならないばかりか、つねに彼を勇気づけ支持しつづける。そもそもの発端と、後にしてきた故郷の記憶は、まさにこの現実の中にこそあるからだ──そこにこそ、詩人を初めて抱きあげ、このうえなく心地よく抱きしめてくれた母がいる──そこを目指して詩人は、さまざまな放浪を経たあげくに帰っていく。船乗りも旅人も──解剖学者、化学者、天文学者、地質学者、骨相学者、心霊学者、数学者、歴史家、辞書編集者も、もちろん詩人ではないが、しかし彼らはすべて、詩人の守るべき法を定める人たちであって、完全な詩というものは、つねに彼らが築いた土台の上に造られている。
 
はるかな天空にたといどのような想像力が羽ばたこうと、あるいはたといどのように優雅な言蘖が語られようとも、それを詩人の内部にみごもらせるためのたねはこの人たちが与えたのであり──魂のありようを目に見える形で証してくれる実例も、やはりこの人たちの手中にあり、この人たちの世界の中にあるのだ。もしも父と子の間に愛と満足が通いあい、子の偉大さが本来は父の偉大さのにじみ出た結果だとすれば、詩人と実証科学者との間には愛の交流があるはずだ。こうして詩の美しさの中には、科学の成果と、科学に寄せる満腔の賛意がこめられているのである。
 
知識にみなぎる活力と、さまざまな特質や物象の深みを探ってゆく能力とに寄せる信頼は、まことに絶大である。この認識の世界の中を押し開いて進み、そのまわりをめぐっていると、詩人の魂は、いぜんとして独自な歩みを保ちながら、しかも感動のあまりに大きくふくらむ。この世界の深みは底知れず、したがって静かである。ここでは、かつて無心におのれの裸身をさらしていた態度が復活しており──謙虚でもなく不遜でもない。超自然に関する、そして超自然とないまぜにされたり、あるいはそこから引き出されたすべての幻想に関する理論が、あたかも一夜の夢のようにそっくり消え去ってしまう。かつて起こったこと──いま起こっていること、そして今後起こるかも知れず起こるにちがいないこと、これらすべてのことが本質的な諸法則の中に含まれている。
 
どんな事柄にも、そしてあらゆる事柄に対して、これらの諸法則は充分にあてはまるのであり──本来の秩序を崩して、せき立てたり引きとめたりできるものは何ひとつなく──事物や人物に関しても、この広大にして明晰な秩序の中では、いかなる特殊な奇蹟も許されず、むしろここでは、あらゆる動作、あらゆる草の芽、男や女たちの肉体と精神、そしてそれに関わるすべてのものが、名状し難いほどに完全な奇蹟なのであって、そのひとつひとつが互いに結びつきながら、しかもそれぞれに明確な個性をそなえ、そのところを得ているのである。さらにまた、この宇宙の中に、男や女たちよりも神聖なものがあるなどという考えは、魂の本当のありようとは矛盾している。
 
男や女たち、そして大地とその上に住むすべてのものたちとは、ありのままの姿でとらえられるべきであり、彼らの過去と現在と未来を探る試みは、けっして途絶えることなく、虚心坦懐に果たされねばなるまい。この試みを踏まえて哲学の思索が行なわれる。つねに詩人の姿に敬意を表し、万物が幸福を目指す永遠の傾向こそ、健全な哲学の唯一の核心だからである。この核心を理解できぬものは──光と天体の運行とを支配する法則にまで思いいたらぬものは──また、泥棒や嘘つきや大食漢や大酒飲みが、生まれてから死ぬまで、そしてもちろん死んだ後までも、従いつづけるその法則にまで思いいたらぬものは──あるいはまた、広大な時間の流れ、濃密な世界の緩慢な形成、累積する地層のたゆまぬ隆起に理解が届かぬものは、すべてとるに足らぬ思索である。
 
詩や哲学体系の中で、何かの存在や力に敵対するものとして神を思い描こうとする試みも、すべてとるに足らない。健全さと総合的思考こそが巨匠の特性なのであって──何かひとつの原理が損なわれると、全体が損なわれてしまうのである。巨匠は奇跡にはまったく無縁である。彼は、大衆のひとりであることにおのれの健康な活力を見出し──ただひとりそびえ立つことに活力の枯渇を発見する。完全な巨匠の姿には、共通の基盤が必要である。全体的な法則に従うことは偉大であるが、それは、従うことがそのままその法則と一致することになるからである。巨匠といわれる人物なら、自分が名状し難いほどに偉大であることはもちろん、万人がすべて名状し難いほどに偉大だということも分っており──たとえば、子供をみごもり、みごとに育てあげることよりも偉大なことは何ひとつなく──生きているということだけで、たとえば認識したり語ったりする行為に少しも劣らず偉大なのだということも分っている。
 
偉大な巨匠となるには、政治的自由の理念が不可欠である。男や女の住んでいるところなら、たといそれがどこであろうと、自由は英雄たちに信奉されるが──しかし、詩人ほどに自由を信奉したり歓迎したりするものはいない。詩人は自由の代弁者であり解説者である。古今の詩人たちこそが、自由というこの壮大な理念にふさわしく──彼らの手にその理念がゆだねられ、彼らにはそれを支持する義務があるのだ。この理念にまさるものは何ひとつなく、それを歪めたり卑しくさせたりできるものもまた皆無である。
 
宇宙の秩序を歌う詩人たちのさまざまな属性は、実際の肉体と、物に対する感覚的な喜びとに共通の中心を持っているから、どんな虚構や夢物語よりも、真実さという点でまさっている。詩人の属性はそれ自身が光源体であるから、その対象となる事実の上には一面に光が降りそそぐ──日の光はさらに軽やかな光を浴びて輝き──昇る陽と沈みゆく陽とを隔てる深い闇は、さらに何層倍も深くなる。
 
明確な物体、状態、結合、過程のひとつひとつが、それぞれに固有の美を表わしている──掛算の九九表も美しく──老年も美しく──大工の職業も美しく──グランド・オペラも美しく──蒸気で動くにせよ満帆を張るにせよ、海に浮かぶニューヨーク快速船の清潔な巨体は比類ない美しさで輝き──まろやかに具足し、広大にして調和したアメリカの諸州も、それぞれに美しくきらめき──そしてまた、この上なく平凡で有限な意図や行為ですら、それなりに美しく輝いている。整然たる宇宙を歌う詩人たちは、ありとあらゆる干渉や隠蔽や混乱や術策をくぐり抜け、万物の根源目指して前進する。詩人はけっして無為徒食のやからではなく──貧しい人びとをそのさもしさから解放し、富める人びとからはその思いあがった心を追放する。
 
富める人びとに向かって彼らはいう、いくら君たちが大きな財産を持っていても、真理を悟ったり認識したりする能力が格別ふえるわけではない、と。蔵書の持主とは、それを所有する法的な資格を持ち、それを購入して代金を支払った人のことではない。多種多様なすべての言語や主題や文体の相違をくぐり抜けて同一不変の真理を読みとれる人、ゆったりと書物の森に分け入って、しなやかに、力強く、豊かに、大きく成長することができる人なら、たとい誰であろうと、そのひとりひとりが、(その彼や彼女だけが)、蔵書の正当な所有者なのだ。
 
逞しくて健康で完全なこれらアメリカの諸州は、自然のままの素朴な形が犯されることを喜ぶべきではないし、認めてもならない。絵や塑像、鉱物や木材を用いた彫刻、書物や新聞の插絵、織物の模様、あるいはまた、部屋や家具や衣裳を飾り、なげしや記念像の上に、あるいは船のへさきやともの上にかけ、さては屋外であれ屋内であれ、どこであろうと人間の目を楽しませるための物などが、もしも本来の真当な形を歪め、あるいは奇怪な形象や場面や事件をでっちあげたりすることがあれば、それは不快と嫌悪を感じさせるにすぎない。
 
とくに人体の場合には、きわめて偉大なものであるから、けっして滑稽に描かれてはならない。作品を飾る装飾物の場合にも、奇異な要素は完全に排除されるべきだが──しかし、野外の大気に息づく完璧な自然物たちにならい、その作品の本性から、しかも抑え難い勢で流れ出てきて、作品の完成に不可欠な部分として結びつくような装飾品なら、当然許されていい。たいていの作品は装飾物のない場合がもっとも美しい。人間の肉体も、どの部分かが誇張されると、その報いは必ずあるものだ。清浄で溌刺とした子供は、自然物の模範に毎日どこでもお目にかかれるような社会の中で、はじめて受精されみごもられることができる。この国の偉大な特質やこれら諸州の人民は、夢物語に描かれるほどに卑しめられてはならぬ。歴史が正しく語られさえすれば、夢物語などは、とたんに無用の長物になりさがるのだ。
 
偉大な詩人を知る目やすは、小手先芸がないことと、内部から湧き起こる完全な率直さで支えられていることである。完全な率直さをそなえている人なら、おそらくどんな欠点も許されるだろう。だからぼくらの仲間からは、嘘つきを出さないようにしよう。これまでのぼくらの経験からすれば、あけっぴろげな態度をとれば、外界も人の心も例外なくぼくらの意に従うものだし、ぼくらの地球が冷却し固まってからこのかた、欺瞞やごまかしやでたらめが、地球のほんの微細な断片や、蔭にひそむきわめて淡い色合いをすら、引きつけるだけの磁力をそなえたためしはない。
 
ある国の、あるいは国々が力を合わせて築く共和国全体の、国土に生きる富める者貧しい者の隊列の中から、卑劣でずるい人間の姿は必ず看破され侮蔑をうけ──人間の魂は未だかつて愚弄されたことはなく、けっして愚弄されることはあり得ず──魂がやさしくうなずいて同意を示してくれなければ、あたら繁栄も単に悪臭を放つ一陣の毒気にすぎず──地球上のどの大陸にも、どの遊星や衛星にも、誕生に先立つ胎児の世界にも、人生の有為転変の間にも、活力が衰えあるいは盛んな時期にも、どこであれ生成や再生の過程のさ中でも、真理を憎む本能の持主は、未だかつて生育したためしはないのだ。
 
最大限の用心深さや分別、こよなくすこやかな肉体の健康、大いなる希望と識別にたえる能力、女性や子供たちに寄せるやさしさ、貪婪な食欲と破壊欲と因果の糸をたぐり寄せる能力、さらに加えて、自然はひとつであり、自然に内在するのと同一の霊が人間の世界にも及ぼされることの正しさを完全に認識する能力などが、宇宙の脳髄ともいうべき原初の混沌の中から呼び出されて、最大の詩人が母の胎内から生まれ、毋がさらにその母の胎内から生まれ出る遙かな昔から、早くも詩人の属性となりおおせているのだ。用心深さは前進の役にはほとんどたたぬ。
 
世間一般の考えでは、分別ある市民とは、堅実な収益をあげることに専念し、自分と家族のために努力し、法にかなった生涯を負債も犯罪もなしに終える市民のことであった。最大の詩人ですら、これら市民のつましい行為が、たとえば食物や眠りとおなじように、何はさておいても必要であることを理解しているが、さりとて詩人は、分別というものが、戸締りにわずかばかりの注意を払うことにつきるなどとは夢にも考えてはいない。分別の前提は、生活がぼくらを愛想よく迎えいれてくれることでも、やがて実りの季節がくれば、その生活の収穫を手がたく刈りとるということでもない。
 
埋葬費にと小銭をため、やっと手に入れたアメリカの大地のほんのひとかけらの上に、四方は羽目板で囲み、頭の上は屋根板でおおって雨露をしのぎ、粗衣をまとい粗食に甘んじれば、何とか一年を過ごすだけの収入は楽に手に入る──こういった独立自存の生活にとどまっていればまだしも、あたら人間という偉大な存在を手離してまで、おろおろしたり青ざめたりしながら、焼けつく日照りも凍てつく夜も、残酷な詐欺と人目をしのぶ不法行為に明け暮れしては、幾歳月を利殖に狂奔し、無理算段して小さな客間を作ったり、他人が飢えているのを横目で見なから恥じ知らずにもたらふく詰めこみ、こうして大地の新鮮さや香りを、花や大気を、海を、若い頃や中年になってから、ふとすれちがったり、あるいは関わりをもつにいたる女たちや男たちの真の味わいを、もはやすっかり忘れ果てる。
 
その結果、人生の終わりに辿りついた頃に病気にかかり、いまは精神の高揚もひたむきな情熱も冷えきって、ただむやみやたらにじたばたしてみる(たとい一万ドルの年金が保証されていても、議員か知事かに選ばれていても事情はおなじである)、そして迫りくる死のことを、落ちつきも威厳も失って、ただ恐怖のままに語り暮らす──こういった憂うつな分別というものは、現代の文明と期待を大きく欺くものであり、文明がはっきりと素描してみせる展望の表面と構図を汚し、魂が差しのべてくれる接吻を受けようとして、非常な速さで文明がくりひろげつづける無数の成果の晴れやかな顏を涙でぬらすのである。
 
分別についての正しい説明は未だなされてはいない。いくら世人の尊敬を集める生き方であっても、永遠の生命にふさわしい分別の理念のことを考えただけで、大小にかかわらずすべてのものが音もなく姿を消していくとき、単に富と品位しかそなえていない分別では、あまりに影が薄くてぼくらの観察にすらたえないようだ。幾星霜を経ていながら、時いたるとふたたび新鮮な活力でよみがえり、花嫁たる君のもとへ高価な贈り物を捧げる叡知に比べれば、そしてまた、見渡すかぎりありとあらゆる方角から、この婚姻の式に列なろうと、心をはずませ君を目指して走り寄ってくる客たちの晴ればれした顔を目の当りにするとき──ほんの一年ぼっちの、あるいはせいぜい七、八〇年かそこいらの薄っぺらな知恵がいったい何であろうか。
 
ただ魂のみがひとり立ちの存在であり──その他のいっさいのものは、すべてこの魂から流れ出るものに結びついている。人間が自分でしたり考えたりすることは、ひとつ残らず大切である。また、慈愛、あるいは内心から湧き起こる力の衝動は、たといすぐには適当な諭証が思い浮かばぬ場合でも、そのままでこの上なく深い説得力を持たずにはいない。末節に亙る説明はいっさい不必要である──加減乗除などはものの役に立たぬ。小柄であれ巨体であれ、学者であれ無学であれ、白人であれ黒人であれ、嫡子であれ私生児であれ、病気であれ健康であれ、たといどんな人物であろうと、最初に吸いこんだ息が気管をくだってから、それが最後に吐き出されるまで、活力と慈愛に溢れる汚れない男女のすべての行動は、宇宙のゆるがぬ秩序の中では、そしてその秩序が支配する全域にわたって、永遠にその人自身にとって確実な利得となるのだ。
 
最大の詩人の分別がついに魂の切望と飢えに答えてくれる。それは何ものをも排除せず、それ自身のためであれ、あるいは何のためであっても、いっさいの休止を認めることなく、特定の安息日や審判の日を定めず、生きている者を死者から、正義の人びとを不正の者たちから区別することもなく、現在に満足し、思想や行為のひとつひとつに、その欠陥を補う思想や行為を結びつけてやり、そして罪に対しては、赦しが与えられたり代りのものを犠牲にしてそのあがないをすることができるなどとは、まったく思いもつかぬことなのである。
 
最大の詩人になると目される人物の直接の試金石は現代である。もしもその人物が、広大な大海原の潮流を浴びるように、現前の時代の波におのれの全身をひたすことがなければ──もしも彼自身が現代の化身ではなく、あらゆる時代と場所と過程と、そしてあらゆる生物無生物とに類似の相貌を与え、それ自身は時間を制するものでありながら、考えも及ばぬほどに茫漠たる限りないその故郷から、現代を浮遊するさまざまな姿に変じて浮かび上がり、この人生の柔軟な錨につながれ支えられて、現在というこの時点を過去から未来への道程とし、このひとときの波と、その波に浮かぶ六〇人の美しい子供たちのひとりひとりを描き出すことに専念する──このような永遠というものの姿が、もしもその人物の目に見えていなければ、彼はいぜん凡人のひとりにすぎず、そこからぬきん出るのはまだまだなのである。
 
ところで、詩の、あるいは性格や仕事の、価値を見定める究極の尺度について、語ることがまだ残っている。洞察力をそなえた詩人は、何世紀も未来の時代に身を投じて、そこから行為者や行為の価値を、時代の変移に照らして判定する。果たしてこれは、時代の変移をくぐって、この未来の時点まで生きぬいてくるであろうか。果たしてあれは、ここまで辿りついたときにも、まだ元気なままで生きつづけるだろうか。現在とおなじ文体が、現在とおなじような地点を目指す時代精神の方向が、この未来になっても、まだぼくらを満足させつづけるだろうか。数十年、数百年、数千年の時代の歩みは、果たしてこの人物のために、右や左へわざわざ廻り道をしてくれているであろうか。この人物は、埋葬された後までも、永いあいだ愛されつづけるだろうか。若者は、この人物のことを何度も思ってみるだろうか。乙女は彼のことを何度も思ってみるだろうか。果たして中年や老年の人びとは、彼のことを思ってみるであろうか。
 
偉大な詩は、時代から時代へと受け継がれてゆく共有財産である。それは、あらゆる地域や人種のために、あらゆる部門や宗派のために、そして男とおなじように女のために、女とおなじように男のためにも存在しているのだ。偉大な詩は、男や女にとって、けっして完成されつくしたものではなく、むしろひとつの始まりにすぎない。なにか適当な権威の庇護を受けることになれば、それでようやく安心して、あとはその権威者から説明を受けるだけで安住していながら、しかもなお真理を認識し、満足と充足を味わうことができるなどと、虫のいい考えをいだいたものがこれまでにあろうか。こんなに安易な終着駅には、最大の詩人は、けっしてぼくらを連れてきてはくれない──彼は休止も、ぬくぬくとした庇護や安住も与えてくれはしない。
 
彼は〈自然〉とおなじように、自分にふれるものをすべて行動に促すのである。詩人がぼくらをとらえるとき、彼はしっかりと確実に襟首をわしづかみにして、いきいきした未踏の世界にぼくらを連れこむ──さあこうなったら運のつき、もうぐずぐずしてはいられない──これまではひとかどの場所であり光であったものを、生命の通わぬ真空地帯に変えてしまう広大な空間と、えもいわれぬきららかな光が、ぼくらの目に映る。いまやひとりの人物が、波たちさわぐ混沌のさ中から誕生し、明確な容姿を現わすことだろう──年長の詩人は、新しく生まれでたこの若者を励まし、進むべき道を教え──二人はともに雄雄しく、混沌の世界をあとに前進を始める。やがて新しい世界は自らの軌道をととのえ、恥じらいもせずに群小の星たちがめぐる凡百の軌道を見下ろして、限りなくつづく光輪の林をくぐりぬけ、以後二度と安住に甘んじることはないのだ。
 
やがて牧師は姿を消すことであろう。彼らの任務は終わったのだ。新しい聖職者たちの一団が登場して、人間を導く師となるだろう。そしてすべての人間が、それぞれ自分自身の師となるだろう。彼らは、過去と未来の象徴にほかならぬ現代のさまざまな具象物に霊感を見出して、永遠の生や神、物の完成、自由、あるいは魂の絶妙な美しさと真実性などについては、いまさら敢て弁じたてることはしないだろう。彼らはアメリカを舞台に登場して、地球上のいたるところから湧き起こる歓迎の声に迎えられることだろう。
 
英語は壮大なアメリカの表現に役だつ言語であり──その逞しさも申しぶんなく、しなやかさと豊かさも充分である。状勢がどのように変わろうとも、すべての自由の生命ともいうべき政治的自由の理念を、がんとして守りつづけた種族の豪毅な血筋に魅せられて、優美で陽気で繊細で優雅な諸国語のさまざまな表現が英語に加わった。英語は力強い抵抗の言語であり──常識を尊ぶ民衆特有の言語である。それは、誇りたかく憂愁をたたえた民族が、憧れを知るすべての人が口にする言葉である。成長、信念、自尊、自由、正義、平等、友情、広大、分別、決断、勇気──これらかずかずの美徳を表わすうってつけの言葉である。表現し難いものを、ほとんどくまなく表現してみせる媒体である。
 
すぐれた文学であれば、同様にすぐれた行動や雄弁の様式であれば、また社交や家政、社会の諸制度、社長が社員に与える待遇、行政の細目や陸海軍の事情、議会や法廷を支配する精神、治安や教育や建築、あるいは歌や娯楽、これらのものがすぐれたものであるかぎりは、アメリカの掲げる規範にこめられたきびしく激しい本能の鋒先を、そういつまでも避けていることはできまい。人民自身の口からは、たといそれらしい手がかりを聞けなくても、その本能は、自由を愛する男や女の心臓を、生き生きした疑問で鼓動させる。はかなく消えたあれのあとを、今度はどれが追うであろうか、これは果たして踏みとどまり、永続するように作られていようか。この国にぴったりふさわしいものであろうか。処理の仕方に、目にあまるほどに不名誉な点はないか。
 
古い時代の典型などとうてい及ばぬほどに、大きくて、団結していて、誇りたかく、どのような典型も及ばぬほどに広やかで、兄弟たちや恋人たちが力を合わせて築きあげる発展限りない社会のために、果たしてこれは貢献するであろうか。今日ここでぼくに使わせようとて、田畑に新しく育ち、あるいは海から引きあげられたものなのか。テキサスであれ、オハイオであれ、カナダであれ、たといどこの地域のものであろうと、アメリカ人であるこのぼくにふさわしいものならば、ぼくの詩の素材として役だついかなる個人にも民族にも、たしかにふさわしいものだ。これはふさわしいであろうか。共和国の若者たちの養育に役立つであろうか。〈多産の母〉の乳首からほとばしる甘美な母乳とすぐに溶けあうであろうか。
 
アメリカは、来訪の意を伝えてきた訪問者たちのために、落ちついてにこやかに歓迎の準備をする。その際、来訪する彼らの資格と歓迎を保証するものは知能ではない。才人も芸術家も発明家も編集者も政治家も学者も、誰ひとり不当な処遇を受ける者はなく──それぞれにふさわしい持ち場を得て、自分の仕事を果たしてゆく。この国の魂もその仕事を果たし、何ものをも拒まず、すべてのものを認める。ただおのれの姿に似ているものたちだけを、この国の魂は自ら途中まで出迎える。個人がこの国におとらず素晴しいのは、彼にこの国を素晴しく作りあげていくだけの資質がそなわっているときである。だから、この上なく大きく豊かで誇りたかいこの国の魂ですら、国民詩人の魂が訪れることになれば、むろん途中までいそいそと出迎えることであろう。

翻訳 杉木喬、鍋島能弘、酒本雅之

1971年刊行の杉木喬、鍋島能弘、酒本雅之訳の「草の葉」は、もはや廃物廃品同様に地底に捨てられて、いまや私たちは手にすることは出来ない。そこでウオーデンは、その優れた労作をこの大陸に植え込むことにした。
 
それから26年後に、酒本さんは再度「草の葉」全訳に取り組むことになる。そのときの経緯を酒本さんは次のように記している。
「訳者はかつて同じ岩波文庫で「草の葉」の全訳を刊行したことがある。だが四半世紀以上の時間が経過して、若いころの自分の仕事にさまざまな不満や反省を感じるようになり、まだ力が残っているあいだにできる限り良いものにしておきたいと考えた。旧訳を徹底的に見直し、むしろ新訳のつもりで取り組んだが、少なくとも今の自分としては精いっぱいのものができたと思いたい」
こうして1997年に、酒本雅之単独の「草の葉」全訳が刊行されたが、今ではこの本も私たちは手にすることができない。


 
 
 
 

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