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ぼくは降りしきる雪の中を歩いていた


 俳優は太く熱い声で世界に放つ。いまから百年も前の詩人のうたなのだが、まことにこの日の彼らの旅立ちにふさわしかった。俳優はいよいよその詩に陶酔していくかのように吠えたる。
 
 やがてラッパが鳴りわたり
 遥か遥かかなたに
 夜明けの合図が
 鳴り響くまで聞きたまえ
 高らかに朗々と
 鳴らされるあの音を
 急いで、隊列の先頭に急いで
 君らの部署に駆けつけよ
 開拓者よ、おお開拓者よ
 
 ラッパが鳴り渡った。管楽器がふける人間たちを寄せ集めてつくった素人バンドといった一隊の三本のトランペットが鳴ったのだが、練習不足のせいか、あるいは寒さのせいか、不揃いで調子はずれの音が鳴り、思わず群衆から笑いが起こった。そのにわかバンドは彼らの国の国家といったものを奏で出した。軽快に弾むその歌をだれもが知っていて、その通りを埋めつくした大群衆の大合唱になっていったのだ。
 その通りには先発隊が乗っていく自動車がずらりと止めてあった。ここから隊列を組んで北海道まで走っていくのだ。さまざまな自動車があった。幌をつけたトラックもあれば、小猫のような小型トラックがあり、ワゴン車もあればジープもあり、ポンコツ寸前の軽自動車もあればベンツもあった。
 ラウンドクルザーの助手席に乗った令子を、彼女の友達が沢山とりまいていた。ぼくはその列をかきわけて、彼女に小箱を渡した。
「なにが入っているわけ」
「万年筆だよ」
「これで手紙を書けというわけ」
「うん。それにいい仕事をしてくれということ」
「ありがとう」
「今朝の君は素晴らしく素敵だった」
「出征兵士という感じだわね」
「そんな感じだな」
「でも私たちは開拓者なのよ」
「そうさ。君たちは冬の時代を切り開いていくんだ」
「向こうに着いたら、すぐに創刊号をだすの」
「できたら真っ先にぼくのところに送ってくれよ」
「ノウスランドという雑誌。すごく土くさい雑誌にするの」
「うん」
「それでいてしゃれた都会風の雑誌にするわけ」
「ぜったいうまくいくよ」
「いろんな本も発行していきたいのよ」
「ああ、それはいいな」
「文化の新しい発祥地になるわよ。そのうち」
「それはいいな」
「私も本を書いていこうと思うの。私たちの建国の歴史をつぶさに書いていくの」
「大草原の小さな家になるかもしれないな」
 令子は希望の雲をちぎっては投げちぎっては投げてくるようだった。新生のきらめきが、彼女のからだの全身から立ちのぼってきている。
 やがて緑の旗をたてた先頭の車が、群集をかきわけてそろそろと走りはじめた。拍手が起り、がんばれよという声援があがる。男を乗せた車が走っていく。女を乗せた車が走っていく。老人や赤ちゃんを乗せた車が走っていく。令子の車も走りはじめた。彼女が手を振っていた。ちぎれるばかりにぼくらに手を振った。どこか茶番じみていた。なにかサーカスの一隊のような、なにかどさまわり劇団の一座のような出発の光景だった。この大雪ではどこかで通行止めをくらうにちがいない。しかし彼らの車には情熱と未来と希望がいっぱい積みこまれているのだ。

 ぼくは降りしきる雪のなかを歩いていた。未明から降りつづける雪は、裏通りをもう厚く覆っていた。ぼくの靴が白い肌に痕跡を残していく。裏通りには人の影はまったくない。しんとしたなかにうるさく雪が舞うばかりだった。ぼくは歩き続けた。裏通りから裏通りへと歩き続けた。なにかが出ようとしている。なにかがしきりに外にでようとしているのだ。
 そのとき突然、宏子を打ち倒したのは、だれあろう実藤光延という男だったという思いが走ってきた。その男こそ彼女の敵であり、彼女を打ち倒した張本人だったのだ。危機は確実に迫っていた。頭上にすべてをのみこむ雪崩が起きることを彼女は恐怖にふるえながら感じとっていたのだ。それは妄想でもなければ錯覚でもなく、少しずつ彼女をつき崩していく小さな雪崩は起こっていたのだ。まもなく大崩壊はどっと空から落ちてくる。だからこそ彼女はわが身が孕んだ大作を書き上げるためにロンドンに渡ったのだ。あの論文は迫りくる大きな危機に立ち向っていくための唯一の方法だった。
 あのとき彼女は奇妙なことを言った。イギリスにいくのは、あなたに向かって歩いていくためだと。もしその意味が少しでもわかっていれば、ぼくたちはこんな敗北はしなかっただろう。創造者としてのきらめく才能を宿していたことの証拠でもあったのだが、彼女が背負った宿題は大きく重かった。残されたノオトをみるとき、もしそれが彼女がたくらんだような形で完成するとき原稿二千枚になんなんとするのだ。その巨大な山に向かって歩いていたのだ。行く手を照らすものも彼女自身の光であり、未踏の頂にいたるルートもまた自分自身で切り開いていかなければならないのだ。急がなければならなかった。大崩壊の日は近づいているのだ。彼女が渡ったイギリスはその巨大な山に立つための、この世に創造者として立つためのまことにふさわしい国だったのだ。
 その国で「光と影」を彼女が企んだように書き進めていたら、あんなにもろくあっけなく崩壊しなかっただろう。一つの峠を越せば、さらに次なる険しい峠が現れる。それはきりがないばかりで、めざす頂はあきれるばかりに遠いのだ。しかし一歩一歩進めていくにつれ次第にその巨大な相貌が姿をみせはじめていく。それは感動的なことだった。創造の喜びと充実が彼女を強くしていくのだ。立ち上がれという呼ぶ声がする。勇気をふるえという声がきこえる。彼女の頭上にある雪崩などは幻想なのだ、黒い血などというのもまたおろかな迷信なのだ。たとえ恐れていたことが襲いかかろうとも立ち向えばいいのだ。それなのにわずか半年で戻ってきてしまった。
 冷たい秋雨のなかを、雨に打たれながら戻ってきたのだ。あのときぼくは狂おしいばかりの歓喜につつまれ、ずぶ濡れになってひな鳥のように震える宏子を抱きしめた。とうとう宏子はすべてを投げ捨ててぼくの胸にとこびこんできたのだ。それは輝かしい愛の勝利だと思ったものだ。しかしそれは愛の勝利などというものではなかった。宏子はあのとき自らの背骨をぽきりと折ってしまったのだ。あのときイギリスから戻ってきてはいけなかったのだ。たとえ一文字も打てなくとも、大きな闇と孤独につつまれようとも、彼女は帰ってきてはいけなかったのだ。そこに立ち止まって、気の遠くなるような長い時間を、ただひたすら彼女が企んだものに捧げなければならなかった。創造者としてこの地上に立つにはそれ以外の方法はないのだ。彼女が東京にいる男に抱いていたイメージは幻想だったのである。彼には彼女を奮いたたせる愛の精液などというものはなく、ただ彼女の背骨を叩き折って、ひざまずかせることしか考えない男だったのだ。
 彼女はたった一人でこの地上に立とうとしていた。それは男たちにだってできないことだった。男たちは一人でこの世に立っているようにみえるが、実はそうではない。だれもが組織に身を売っているにすぎず、いわば組織によってかろうじて自立の姿勢を保っているだけにすぎないのだ。それは葉狩のいうように少しも立っていることではなかった。この男もそうだった。百万部を売った雑誌の編集長として鼻高々だが、いわば雇われマダムのようなもので、売れ行きがにぶればたちまちどこかに飛ばされる運命にある。すでにこの男のもう一つの目は、この雑誌のいき方に冷たい視線を向けているではないか。そしてその冷たい批判の視線が昂じて、いつの日か古田や村田書店と対立する日がくるような予感さえしている。そのとき否と叫び、その対立を貫くためにあの令子のように一人で立つことができるのだろうか。この卑劣な男はまたもや高給と居心地のよさに、あっさりと会社に白旗を上げるのではないのたろうか。だからこそ男も女も力をあわせなければならなかったのだ。愛するものを打ち倒すことではなく、ともにその根を深く地中にはわせ、ともにその幹を高く太く空へと伸ばすために愛しあわなければならなかったのだ。
 その通りに小さな喫茶店があった。いかにもまずいコーヒーを飲ませるという安っぽい店だった。ドアを押すといま起きたばかりという顔をした女が、どろんとした視線をぼくに向けた。
「いいのかな」
 とぼくは断ってみた。こんな雪の日に朝から開いている店なんてめずらしいのだ。
「いいわよ」
「すごい雪だな」
「そうね」
 と読んでいた新聞をばさりとたたむと、女は無感動に言った。
「コーヒーできるかな」
「いいわよ」
「熱いやつをね」
「ホットね」
「そう、熱いやつを」
 暖かい部屋の窓から灰色に染まっていく景色をながめていた。車が飛沫をあげて通りを走っていく。葉狩たちの車も一路北の国をめざして走っているにちがいない。今朝見た壮行会がいまのぼくにははるかに遠い、なにか夢の世界の出来事のように思えた。
 重苦しく憂鬱な雪が降り積もっていく。それはまるでぼくのなかに降り積もっていくかのようだった。もっと降り続けばいいとぼくは思った。この都会を雪で埋めつくしてしまえばいいのだとぼくはさらに思った。


 
 

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