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遠い霧の匂い  須賀敦子追想

こひー3


       
須賀敦子さんが亡くなったあと、彼女を追想する本や雑誌が何冊も登場したが、そのなかに鈴木敏恵さんという方が次のような一文を書いている。

《年が明けて、三月二十日、強い風が吹いた朝、彼女は逝った。あの二人だけの乾杯の真似事が、結局は私たちの別れの最後の挨拶となった。
イグナチオ教会での告別式で、神父様の一人が、死の少し前に彼女が訪ねてきたときの言葉を伝えてくれた。
「私にはもう時間がないけれど、私はこれから宗教と文学について書きたかった。それに比べれば、いままでのものはゴミみたい」
私は胸をさされたまま、文化会館でのあの言葉と顔をよみがえらせていた。彼女は書かれるべきものが書けずに、最後まで「言葉」をあやつり続けたまま死んでいく現実を自嘲して、顔をゆがめたのではなかったのか》

鈴木さんが書き込んだこの下りの景色は、須賀敦子の著作の中でも頂点に立つような「ユルスナールの靴」のなかに書き込まれている。

《強靭な知性に支えられた、抑えに抑えた古典的な香気を放つユルスナールの文体と、それを縫って深い地下水のように流れる生への情念を織り込んだ、繊細で、ときに幻想の世界に迷い遊ぶ彼女の作風に、数年来、私は魅せられてきた。
 作風への感嘆が、さらに、彼女の生きた軌跡へと私をさとった。人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、ひとりの女性が世にさからって生き、そのことを通して文章を熟成させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた。
 ユルスナールのあとについて歩いていくような文章を書いてみたい、そんな意識が、すこしずつ私のなかに芽ばえ、かたちをとりはじめた。彼女が生きた軌跡と私のそれとを、文章のなかで交錯させ、ひとつ織物のように立ちあがらせることができれば、そんな煙みたいな希いがこの本を書かせた》

その本は、《ユルスナールのあとについて歩いていくような文章》を書くための、メモランダムのような本だった。彼女が本物の作家として地上に立つため、彼女が書かねばならぬ本当の仕事に立ち向かおうとしていたとき、病魔に襲われたのだった。

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対話編

───毎年のたくさんの新しい作家たちがうまれていくが、作家の寿命というものがいよいよ短くなっていくね。今をときめくベストセラー作家たちも、あの世にいってしまうともうたちまちに捨てられてしまう。一年後にはもう彼のおびただしい作品などゴミとなって捨てられていく。
───残酷な景色だけど、彼らの作品もそれだけのものだったということじゃないの。まあ、そういう作家ばかりを日本の読書社会はうみだしていることだけど、そんなか須賀さんは別格だね。須賀さんが亡くなったのは何年前だったけ?
───一九九八年がたら、もう二十三年前よ。
───もうそんな昔になるのか、そんな長い月日が流れているけど、いまでも須賀さんの本が新しく編集されて出版されている。須賀さんの根づよいファンがいっぱいいるからだろうね。
───それだけでなく、須賀さんという存在を知らなかった新しい世代の読者が、彼女の本に惹かれていくのね。
───どうして彼女の作品がかくも長くとぎれることなく愛されているのだろうか。
───吉本ばななが須賀さんの本は、豊かで、力強く、品があり、激しさを秘め、それでいて静かに深みをたたえている、そういう美しい旋律のような文章を書くことができる人だったと追想している。
───読み返すたびに新しい発見がある。彼女が最初に投じた「ミラノ霧の風景」という本は、高級なイタリア映画をみているようだ。
───そう、彼女の文体は、イタリア文学で鍛えられたからよ。


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