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かもめ 第二幕 アントン・チェホーフ

「かもめ」は、最初ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で演され、無惨な失敗に終わった戯曲であるが、のちにモスクワ芸術座の上演が大成功をおさめ、劇作家チェーホフの名前を不朽のものにした。
「かもめ」では、女優志望の娘ニーナと、作家志望の青年トレーブレフの運命が物語の中心になっている。名声を夢みて、有名な作家トリゴーリンのもとに走ったニーナはやがてトリゴーリンに捨てられ、彼の間にてきた子どもにも死なれ、精抻的にも肉体的にも傷つく、しかし二年後、すでに新進作家になったトレーブレフを訪れた陂女は、もはや自己の生きてゆく道をはっきりと自覚した女性であり、プロの女優としての意識に徹している。そして、「あなたは作家、あたしは女優」と決意を表明する彼女に対して、トレーブレフは二年前とまったく同じ台詞をつぶやくだけにすぎない。自分のものを持たぬ彼にとっては、これからの長い人生が無意味なものにしか感じられず、泥まみれなっても生き抜こうとするニーナとは対照的に、自殺の道を選ぶほかなくなるのである。

第二幕

 クリケットのコート、右手奥に大きなテラスのある家。左手に湖が見え、太陽がそこに映えてかがやいている。花壇。正午。暑い。コートのわきの、菩提樹の老樹の木蔭で、アルカージナ、ドールン、マーシャがベンチにかけている。ドールンの膝の上に、開けたままの本。

 アルカージナ  〔マーシャに〕ほら。立ってみましょうよ、〔二人、立つ〕ならんで立つのよ。あなたは二十二、わたしはほとんど倍近いのよ。エヴゲーニイ・セルゲーエウイチ、どっちが若く見えて?
ドールン  もちろん、あなたですよ……
ルカージナ  ほらね……でも、どうしてかしら? それはね、わたしが仕事をして、ものに感ずる心をもって、たえず気ぜわしくしているのに、あなたはいつも一つところにおさまって、生活していないからよ……それと、わたしには未来をのぞかない、という主義があるの。老境だの死だのってことは、決して考えないことにしているのよ。くるものは避けられないんだし。
マーシャ  あたしは、自分がもうずっと昔に生まれたみたいな気持がしてるんです。ドレスの黒い裳裾みたいに、自分の生活をずるずるひきずってるんですわ……だから、生きて行こうなんて意欲の全然なくなることも、しょっちゅうですもの。〔腰をおろす〕もちろん、こんなのくだらないことですけど、気を持ち直して、すべて頭から払いのけなければいけないんですわ。ドールン 〔小声で口ずさむ〕「花よ、彼女に話しておくれ……」
アルカージナ  それに、わたしってイギリス人みたいに几帳面ですもの。言わば弓の弦みたいに気持をビッと張りつめて、服装や髪だっていつもきちんとしておくわ。たとえこのお庭にだろうと、わたしがブラウス姿や、ほつれ髮のまま、家から出るような真似をしたことがあって? 一度もないわよ。わたしが若さを保ってこられたのも、そこらのおばさんたちみたいに、だらしなくしたり、自分を甘やかしたりしなかったからだわ……〔腰に手をあてて、コートを歩きまわる〕どう、まるでひな鳥みたいでしょ。十五歳の少女の役だってやれるわよ。
ドールン  ところで、それでもやはり続きを読みますよ。〔本をとる〕粉屋と鼠のところまで読んだんでしたっけね………
アルカージナ 鼠のところよ。読んでちょうだい。〔腰をおろす〕もっとも、本を貸してくださる。わたしが読むわ。わたしの番ですもの。〔本を受けとり、目で探す〕鼠、鼠と……ここだわ……〔読む〕「従って、言うまでもなく、社交界の婦人にとって、小説家をひいきにして身辺に近づけたりするのは、ちょうど粉屋が納屋で鼠を飼うのと同じように危険なことにほかならない。にもかかわらず、小説家はもてはやされる。だから、女性は心をとらえたいと思う作家に白羽の矢をたてると、お世辞だの、お愛想だの、お追従だのによって攻めたてるのである」……ま、フランス人の場合はこうなのかもしれないけど、ロシアじゃこんなことは全然ないわね。計画もなにもありはしないもの。ロシアではたいてい、作家の心をとらえる前に女の方が首ったけになってしまうわ。まったくね。手近なところで、このわたしとトリゴーリンを例にとったって……
〔ソーリン、ステッキをついて登場、ならんでニーナ。メドヴェージェコがこの人のあとから空っぽの車椅子を押してくる〕
ソーリン  〔子供をあやすような口調で〕そうなの? 喜んでいいんだね? 今日はご機嫌ってわけだ、結局のところ。〔妹に〕嬉しい話があるんだ! お父さんと、義理の母さんがトヴェーリに出かけたんで、これからまる三日間、自由の身なんだとさ。
ニーナ  〔アルカージナの隣に坐り、彼女に抱きつく〕あたし、うれしくて! 今からあなたのものですわ。
ソーリン  〔車椅子に坐る〕今日はこの子、特別きれいだね。
アルカージナ  おめかしして、魅力的だわ……お利口さんね。〔ニーナにキスする〕でも、あんまり賞めちゃいけないわ、なにかの祟りがあるといけないから。ボリス・アレクセーエウィチはどこかしら?
ニーナ  水浴び場で釣をしてらっしゃいますわ。
アルカージナ  よく飽きないものね!〔朗読を続けようとする〕
ニーナ  それ、何ですの?
アルカージナ  モーパッサンの「水の上」よ。〔数行、黙読する〕まあ、この先はおもしろくないし、でたらめだから。〔本を閉じる〕気持がおちつかないわ、うちの息子はどうしているかしら? なぜあんなふさぎこんで、とげとげしいの? まる何日もずっと湖ですごしていて、わたしなんかほとんど顔も合わせていないのよ。
マーシャ  ご気分がすぐれないんですわ。〔ニーナに、おずおずと〕おねがいだから、あの人の戯曲をどこか読んでくださらない。
ニーナ  〔肩をすくめて〕ほんとに? だって、おもしろくないわよ!
マーシャ  〔感激をおさえながら〕あの人が自分で何かを朗読なさる時って、目がかがやいて、顔が蒼ざめてくるのよ。淋しい素敵な声で、読み方もまるで詩人みたいだし。
 〔ソーリンのいびきがきこえる〕
ドールン  おやすみなさい!
アルカージナ  兄さん!
ソーリン  あ?
アルカージナ  眠ってるの?
ソーリン   いや。
 〔間〕
アルカージナ  兄さんは病気をなおそうとしないのね、いけないわ。
ソーリン  わたしだって喜んで治療を受けたいところだが、こちらの先生
が望まんのでな。
ドールン  六十にもなって治療を受けるなんて!
ソーリン  六十になったって生きていたいよ。
ドールン  〔腹立たしげに〕やれやれ! じゃ、鎮静剤でも飲むんですね。
アルカージナ  どこか温泉にでも行くといいんじゃないかと思うんですけど。
ドールン  そりゃね。行ってもいいでしょう。行かなくてもかまわないけど。
アルカージナ  それでわかれと、おっしゃるの。
ドールン  別にわかることなんて何もないんです。万事はっきりしていますよ。
 〔間〕
メドヴェージェンコ  ピョートル・ニコラーエウィチは煙草をおやめになる方がいいんじゃありませんかね。
ソーリン  下らんことを。
ドールン  いや、下らんことじゃありませんよ。酒と煙草は個性を失わせますからね。一本の葉巻やウォトカを一杯やったあとでは、あなたはもうピョートル・ニコラーエウィチじゃなくて、ピョートル・ニコラーエウィチ、プラスだれかになるんです。あなたの自我がぼやけてきて、もう自分自身に対して三人称で接するようになりますからね。
ソーリン  〔笑う〕あなたは理屈をならべるのもいいだろうさ。実のある一生を送ってきたんだから。ところが、このわたしはどうです? 法務省に二十八年勤続はしたけれど、まだ実のある生き方をしたことはないし、何一つ経験していないんだからね、結局のところ、だから、当然わたしだって、実のある生き方をしたいってわけだ。あなたは満ちたりていて、関心がないから、哲学なんぞに凝っていられるだろうけど、こっちは実のある生き方をしたいから、食事の時にシェリー酒を飲んだり、葉巻をくゆらせたりするってわけさ。それだけのことですよ。
ドールン  命はまじめに扱わなけりゃいけませんよ。六十になって治療を受けたり、若い頃あまり楽しまなかったのを侮んだりするなんて、わるいけど、軽薄ってもんです。
マーシャ  〔立ち上がる〕そろそろお食事の時間だわ、きっと、〔ものうげな、生気ない足どり〕足がしびれちゃった……〔退場〕
ドールン  あの子は先に行って、食事の前にグラスで二杯くらいあおるんですよ。
ソーリン  幸せに恵まれないからね、気の毒に。
ドールン  下らんことを、閣下。
ソーリン  あなたのは、満ちたりた人間の理屈ですよ。
アルカージナ  ああ、田舎のこういうしみじみしたさびしさくらい、気の滅入るものはないわね! 暑いし、静かだし、だれも何一つしないで、哲学ばかりぶって……こうしてお相手しているのは嬉しいし、お話をきいているのも楽しいけれど、でも……ホテルの部屋にこもって、台詞をおぼえこむ方がずっと楽しいわ!
ニーナ  〔感激したように〕素敵! わかりますわ。
ソーリン  そりゃもちろん、都会の方がいいさ。書斎にこもっていれば、召使は取次ぎなしにはだれも通さんし、電話はあるし……街には辻馬車や何かもあるしね……
ドールン  〔口ずさむ〕「花よ、彼女に話しておくれ」……
 〔シャムラーエフ登場、つづいてボリーナ〕
シャムラーエフ  みなさんお揃いですね! おはようございます! 〔アルカージナに、つづいてニーナの手にキスする〕みなさん、お元気そうでなによりです。〔アルカージナに〕家内の話ですと、奥さまは今日これを連れて町へおでかけになるおつもりだそうですが、本当でございますか?
アルカージナ  ええ、そのつもりよ。
シャムラーエフ  ほう……それは結構なことですが、奥さま、何に乗っていらっしゃるおつもりで? 今日は村でライ麦を運んでおりますために、作男たちはみんな忙しくしておりますが。ひとつお伺いしますが、馬はどれになさるおつもりです?
アルカージナ  どの馬? どうしてわたしにわかるの、どの馬にするかなんて?
ソーリン  うちには外出用の馬がいるじゃないか?
シャムラーエフ  〔興奮しながら〕外出用の馬? じゃ、馬具はどこで借りればいいんです? どこで馬具を借りればいいんですか? こいつはおどろいた! 理解に苦しみますな! 奥さま! すみません、わたしは奥さまを崇拝しておりますし、奥さまのためなら生命を十年縮めてもいい覚悟でおりますけれど、馬を提供するわけにはまいりません!
アルカージナ でも、もしわたしが出かけなければならないとしたら? おかしな話ね。
シャムラーエフ  奥さま! 奥さまは農業がどういうものか、ご存じないんですよ!
アルカージナ  〔かっとなって〕また、いつものきまり文句ね! それなら、わたしは今日のうちにモスクワへ帰ります、村へ行って、わたしのために馬をやとってきてちょうだい、でなければ歩いて駅へ行くわ!
シャムラーエフ  〔かっとなって〕でしたら、わたしは辞めさせてもらいます。ほかの管理人をご勝手にお探しになるんですね! 〔退場〕
アルカージナ  毎夏こうなんだから。毎年夏にここへきて嫌な思いをさせられるんだわ! こんなところ、もう二度とくるもんですか! 〔左手に退場。そのあたりに水浴び場があるという想定。一分ほどして、彼女が家に入って行く姿が見える。そのあとから、釣竿とバケツをさげたトリゴーリンが行く〕
ソーリン  〔かっとなって〕つけあがりよって! いったいなんてこった! うんざりだよ、結局のところ、今すぐ馬を全都ここへ出すんだ!
ニーナ  〔ポリーナに〕イリーナ・ニコラーエヴナほどの有名な女優さんの頼みをことわるなんて! あの方のご希望なら、たとえ気まぐれでさえ、お宅の農業なんかより大切でしょうに? 信じられない話ですわ!
ポリーナ  〔やけ気味に〕わたしに何ができまして? わたしの身にもなってちょうだい、、わたしに何ができるとおっしゃるの?
ソーリン  〔ニーナに〕妹のところに行ってやりましょう……帰らないように、みんなで頼みましょうや、どうです? 〔シャムラーエフの去った方向を見ながら〕やりきれん男だ。まるで専制君主じゃないか!
ニーナ  〔彼が立ち上がろうとするのをとどめて〕そのまま坐ってらしてください……あたしたち、お運びしますから……〔彼女とメドヴェージェン
コ、車椅子を押す〕ああ、ほんとにひどい話!
ソーリン  うん、まったく、ひどい話さね……しかし、あの男は辞めやしませんよ、今すぐわたしが話してみます。
 〔三人退場、ドールンとポリーナだけになる〕
ドールン  憂鬱な連中だな.本当なら、あなたの旦那をあっさりお払い箱にすべきところなんだろうけど、いつも最後には、あの女の腐ったみたいなピョートル・二コラーエウィチと妹が詫びを入れるんだから。見ててごらんなさい!
ポリーナ  うちの人は外出用の馬まで畑にだしてしまったんです、毎日こういう手違いばっかり。これでわたしがどれほど気をもむか、あなたにわかっていただければね! 病気になってしまいそう。ほら、こんなにふるえてるでしょう……あの人のがさつさには堪えられないわ。〔哀願するように〕ねえ、エヴゲーニイ、わたしの大事な人、わたしを引きとって……わたしたちの時は過ぎて行くわ、お互いもう若くないんですもの、せめて人生の終りくらい、人目を忍んだり嘘をついたりしたくないのよ……〔間〕
ドールン  僕はもう五十五ですよ、生活を変えるにはもう遅すぎる、
ポリーナ  知っているのよ、あなたがわたしをはねつけるのは、わたし以外にも親しくしている女の人がたくさんいるからなのね。みんなを引きとるわけには行かないもの。わかっているわ。ごめんなさい、わたしがもう厭になったのね。
 〔ニーナ、家の近くに姿をあらわす。花をつんでいる〕
ドールン  いや、別に。
ポリーナ  わたし、嫉妬で胸が張り裂けそうだわ。もちろん、あなたはお医者さまだから、女性を遠ざけるわけにはいかないわよね。わかっているわ……
ド-ルン  〔近づいてくるニーナに〕どうです、あっちのようすは?
ニーナ  イリーナ・ニコラーエヴナは泣いてらっしゃるし、ピョートル・二コラーエウィチは喘息を起こしてますわ。
ドールン  〔立ち上がる〕行って、二人に鎮静剤でも飲ませるかな。
ニーナ  〔彼に花束を渡す〕どうぞ!
ドールン   メルシー・ビアン。〔家に向かう〕
ポリーナ  〔いっしょに歩きながら〕なんて可愛い花でしょう!〔家の近くまでくると、声を殺して〕その花をちょうだい! ちょうだい、その花! 〔花を受けとると、ちぎってわきへ棄てる。二人、家に入って行く〕
ニーナ  〔一人〕有名な女優さんが泣いたりしてるのを見ると、なんだか変だわ。それもあんなつまらない理由で! それに、人気作家で、どの新聞にも書きたてられたり、写真が売りだされたりして、外国にまで作品が翻訳されている有名な小説家だってのに、一日じゅう釣をして、鯉が二匹釣れたなんて大喜びしてるのも、おかしいんじゃないかしら。あたし、有名人てのは傲慢で近よりがたいのかと思っていたわ。俗世間の人をばかにしているのかと思ってたわ。家柄だの財産だのを何よりもありがたがる俗世間の人を、名声やかがやかしい名前で見返してやるような感じなのかと思っていたのに。ところが、あの人たちときたら、泣いたり、釣をしたり、トランプをやったり、笑ったり、怒ったり、みんなと変わりないんだもの……
トレープレフ  〔帽子もかぶらず、銃と、射とめたかもめをさげて登場〕一人なの?
ニーナ 一人よ。
〔トレープレフ、妓女の足もとにかもめをおく〕
ニーナ これ、どういう意味?
トレープレフ  僕は今日このかもめを殺すような卑劣な真似をしたんです。あなたの足もとに捧げます。
ニーナ  どうなさったの! 〔かもめを拾いあげて、彼を見つめる〕
トレープレフ  〔間のあと〕もうじき僕はこんなふうに自分自身を殺すんです。
ニーナ  あなた、人が変わったみたい。
トレープレフ  そう、あなたが別人のようになった時以来ね。あなたはすっかり変わった。僕を見る目も冷たいし。僕の存在が気づまりなんだ。
ニーナ  最近あなたは怒りっぽくなって、おっしゃることも、よくわからないわ、なにやらシンボルめかして。現にこのかもめだって、どうやら何かのシンボルらしいけれど、ごめんなさい、あたしにはわからないわ……〔かもめをベンチの上におく〕あたしって単純すぎるから、わからないの。
トレープレフ  こんなふうになったのは、僕の芝居があんなばかげた失敗に終わった、あの晩以来なんだ。女性は失敗を許してくれないからな。僕は全部焼きすてましたよ、紙片一つ残さずにすっかり! あなたが冷たくなったのが、僕には恐ろしいし、信じられないんです。まるで、目がさめて見ると、この湖が突然干上がるか、地面へ吸いこまれるかしているみたいだ。あなたはたった今、単純すぎるからわからない、なんて言いましたね。ええ、何をわかる必要があるんです! 戯曲が気に入らなかったので、あなたは僕のインスピレーションを軽蔑して、僕をそこらにざらにいる平凡な、とるに足らぬ連中と同じように見ているんじゃありませんか……〔片足を踏み鳴らして〕僕にはそれがよくわかるんだ、わかりますとも! まるで脳天に釘をぶちこまれたみたいですよ。そんなものは、蛇みたいに僕の血を吸って苦しめつづける自尊心もろとも、呪われるがいいんだ……〔手帳を読みながら歩いてくるトリゴーリンに気づいて〕ほら、本当の天才がやってきますよ。ハムレットみたいな歩き方で、やはり本をかかえて。〔嘲笑する〕「言葉、言葉、言葉」……あの太陽がまだそばへ来ないうちから、あなたはもうにっこりして、眼差しまであの光でとろけてしまいましたね。お邪魔はしませんよ。〔足早に退場〕
トリゴーリン  〔手帖に書きこみながら〕嗅ぎ煙草をかいで、ウォトカを飲む……いつも黒い服。その娘を愛している教師……
ニーナ  今日は、ボリス・アレクセーエウィチ!
トリゴーリン  やあ、今日は。だしぬけに入り組んだ事情になって、どうやら僕らは今日帰るらしいですよ。あなたとは、いつかまたお目にかかれるかどうか。残念です。僕は若いお嬢さんたち、若いきれいなお嬢さんたちと会う機会があまりないもんで、十八、九の人がどういう気持でいるのか、もう忘れてしまったし、はっきり想像できないんですよ。ですから、僕の中篇や短篇にでてくる若い娘は、たいてい、インチキです。せめて一時間でもあなたの立場に身をおいて、あなたがどういう考え方をするか、概してあなたがどういう人なのかを知れたらと思いますね。
ニーナ  あたしは先生の立場に身をおけたらな、と思いますわ。
トリゴーリン  なぜ?
ニーナ  才能豊かな有名な作家はどんな気分でいるのかを知るために、ですわ、有名って、どういう気分ですの? ご自分が有名人だってことを、どんなふうに感じ取られますの?
トリゴーリン  どんなふうに? たぶん、どうってこともないんでしょうね。そんなこと、一度も考えたことがありませんでしたよ。〔ちょっと考えて〕二つに一つでしょうね。つまり、あなたが僕の知名度をオーバーに考えてらっしゃるか、さもなければ、そんなものは概して全然感じられないものか、どっちかですよ。
ニーナ  でも新聞などでご自分のことが書かれているのをお読みになったら?
トリゴーリン  賞められた畤は嬉しいし、けなされると、そのあと二日くらい気色がわるいですね。
ニーナ  すばらしい世界だわ! どんなにあたしが羨ましく思っているか、わかっていただけたらと思いますわ! 人間の運命って、さまざまですわね。一方に、目立たない退屈な一生をどうにか過ごしてゆく、みんなお互い似たりよったりの、不幸な人たちがいるかと思うと、たとえば先生みたいに、百万人に一人くらい、興味深い、華やかな、意義深い生活に恵まれる人もいるんですもの‥‥先生はお幸せですわ……
トリゴーリン  僕が? 〔肩をすくめながら〕ふむ……あなたは今、有名だとか、幸せだとか、なにやら華やかな興味深い生活だとか、言ってらしたけど、僕にとってはそういう結構な言葉はみんな、わるいけれど、僕が決して口にしないマーマレードと同じことでしてね。あなたはとてもお若くて、とても気立てのいい方ですね。
ニーナ  先生の生活って素敵だわ!
トリゴーリン  いったいどこが、特にすばらしいというんです? 〔時計を見る〕これから行って、また書かなけりゃならないんですよ。勘弁してください、忙しいもんで……〔笑う〕あなたは、言うなれば、僕のいちばん痛いところを突いたんですよ。だから僕はこんなに気持をたかぶらせて、いくらか機嫌がわるくなってきているんです。でもまあ、少しお話ししましょうか。僕の素敵な華やかな生活のことでも話しますか……そう、何からはじめましょうかね? 〔しばらく考えてから〕強迫観念というものがありますね、人間たとえば、昼も夜もお月さまのことばかり考えている、といったような。僕にも僕なりのそういうお月さまがあるんですよ。昼も夜も僕は書かなければいけない、書かなければ、書かなければという一つの考えにとりつかれて、苦しめられているんです。中篇を一つ書きあげるか書きあげないうちに、なぜかもう次のを書かなければいけない、それがすむと三つ目、三つ目が終われば四つ目という具合にね……まるで馬車馬みたいに、たえず書きつづけていて、そうしていないとだめなんです。こんな生活のいったいどこが素敵で華やかなのか、伺いたいもんですね。まったく、実に野蛮な生活です! 現にこうしてあなたといっしょにいて、気持をたかぶらせていても、一方ではたえず、書きかけの中篇が待っていることを思いだしているんですから。ほら、あそこにピアノのような形の雲が見える、すると、そのうち短篇か何かで、ピアノに似た雲が流れていた、と使わなけりゃいかんな、なんて考えるんです。ヘリオトロープの匂いがする、と、すぐに心に書きとめるんですよ。甘ったるい匂い、未亡人のような色、これは夏の夕方の描写に使えるぞって。自分やあなたの一言一句を捉えて、大急ぎでその言葉や文章を自分の文学の蔵にしまいこむんてすよ。だって、きっと役に立つんですから。一仕事終えると、劇場とか魚釣に逃げだす、そこなら骨休めできるだろう、何もかも忘れてしまえるだろうと思って。ところが、だめなんです。新しい主題という、重い鉄の玉がもう頭の中をごろごろ転がって、すぐに机に向かいたくなる、急いでまた書いて、書いて、書きまくらなけりゃならないんですからね。いつでもこの調子で、自分自身から休まる時がないんです。だから、自分の命を自分で食いつぶしているような感じがしますよ。広い空間にいるだれかに与える蜜のために、自分のとっておきの花から花粉を集めて、花そのものはひきむしる、根は踏みにじるという始末だ。これでも僕は気違いじゃありませんかね? 僕の親しい人たちや知人たちは、はたして僕を健康人として扱ってくれてるんでしょうか? 「今、どんなものを書いてらっしゃるんです? 今度はどういうものを読ませていただけるんですか?」なんて、いつも同じことばかり、一つのことばかりきくんですからね。僕はね、知人たちのこうした注目だの、賞め言葉だの、感激だのが、みんな欺瞞のような気がするんです。病人の僕を騙しているような気がするんですよ。だから時々、いきなりうしろから忍びよって、僕をとっつかまえるなり、あのポプリーシチンみたいに精神病院へ連れこまれるんじゃないかと思うこともありますよ、ものを書きはじめた頃、青春のいちばんいい時代にも、僕の作家生活はもっぱら苦しみの連続でしたね。二流、三流の作家なんて、特に不遇な時にはなおさらのこと、自分でも不器用な、ぶざまな余計者のような気がするもんだし、神経は張りつめて、ぴりぴりしていますしね。それでも文学や芸術にかかわりのある人たちのまわりをうろつかずにはいられないで、だれにも認められず、心にもとめてもらえずに、まるで一文なしの博打好きみたいに、相手の目を大胆に正視することさえ恐れる始末なんですから。僕は自分の読者に会ったことはありませんけど、どういうわけか、僕の想像の中では、敵意にみちた疑り深い人種のように思われていたものです。僕は読者を恐れてきた。こわかったんです。だから、新しい戯曲を舞台にかけることになったりすると、そのたびにいつも、ブリュネットの人は敵意をもっているし、ブロンドの人は冷淡で無関心なんだと、そんな気がしたもんでしたよ。いや、まったくやりきれない! なんとも言われぬ苦しみでしたね!
ニーナ  ですけど、インスピレーションが湧く畤や、創作なさるプロセスそのものは、高尚な幸せな瞬間をもたらしてくれるんじゃございません?
トリゴーリン  それはそうですね、書いている畤は、楽しいもんです。ゲラ刷りを読むのも楽しいな。だけど……いざ活字になってしまうと、やりきれませんね、その時はもう、これは違う、間違いだ、こんなもの書くべきじゃなかった、という気がして、腹立たしいやら、気が滅入るやらでね……〔笑いながら〕ところが、読者の方はそれを読んで、「うん、うまいじゃないか、才能があるよ………うまいけど、トルストイには遠く及ばないな」だとか、「いい作品だけれど、ツルゲーネフの『父と子』の方がずっと上だな」だとか言うんですよ、こんなふうに、墓穴に入るまでずっと、うまいし才能がある、うまいし才能がある、と言われるだけで、それ以上のことは何一つありゃしませんし、僕が死ねば、知合いの連中は墓のわきを通りしなに、「これがトリゴーリンの墓だよ。いい作家だったけど、ツルゲーネフには及ばなかったな」なんて言うことでしょうよ。
ニーナ  失礼ですけど、先生のお話は理解しかねますわ。先生は人気に甘えてらっしゃるだけみたい。
トリゴーリン  人気ですって? 僕は自分が気に入ったことなんて一度もありませんよ。僕は作家としての自分が嫌いなんです。なによりいけないことに、僕は何かの毒気にあてられて、時々自分が何を書いているのか、わからなくなるんです……僕が好きなのは、ほら、この水や、木や、空です。僕は自然を感じとるし、自然は僕の心に書きたいという情熱や、抑えきれぬ欲求をかきたててくれます。しかし、わたしは単なる風景画家じゃなく、一人の市民でもあるわけですからね。僕は祖国を、民衆を愛してます。作家である以上、民衆や、民衆の苦しみや、民衆の未来について語る義務がある、科学や、人間の権利や、そのほかいろいろなことについて語らなければいけないと感ずるもんだから。僕はあらゆることを論じて、生き急いでいるんです。僕は四方から駆りたてられ、叱りつけられて、まるで猟犬に追いつめられた狐みたいに、あっちこっちへとびまわっているうちに、見ると、人生だの科学だのは先へ先へと遠ざかってゆくのに、僕だけが汽車に乗りおくれた百姓よろしく、いつまでも取り残されていることに気がつく。そして、結局のところ、自分に書けるのは風景だけで、ほかのことに関してはみんな、自分はインチキなんだ、骨の髄まで偽物なんだと感じるんですよ。
ニーナ  先生は仕事で疲れすぎていらっしゃるから、ご自分の価値を自覚なさる時間も、意欲もないんですわ。いくら先生がご自分に不満だとしても、ほかの人たちにとって先生は偉大だし、素晴らしいんですもの。もしあたしが先生みたいな作家だとしたら、自分の全生活を民衆に捧げるでしょうけれど、でも、民衆の幸せはあたしのレベルまで向上することにしかないんだと自覚するでしょうね。そうすれば民衆だってあたしを、山車に乗せて運んでくれますわ、きっと。
トリゴーリン  ほう、山車に乗せてね……アガメムノンてわけですか、このわたしが!〔二人、微笑する〕
ニーナ  作家や女優になれるような幸せのためだったら、あたし、身近な人たちの憎しみにも、貧乏にも、幻滅にも耐えぬけると思いますわ。屋根裏に住んで、黒パンばかり食べて、自分への不満だの、自分が未熟だという意識だのに苦しんでもかまいません、その代りあたしは名誉を求めますわ……本当の、華々しい名声を……〔両手で顔をおおう〕めまいがするわ……ああ!
ルカージナの声  〔家の中から〕ボリス・アレクセーエウィチ!
トリゴーリン  あ、よんでる……きっと、荷作りだな。しかし、帰りたくないな。〔湖を眺める〕なんという恵まれた環境だろう! 実にいいな!
ニーナ  向こう岸に家と庭が見えますでしょう?
トリゴーリン  ええ。
ニーナ  あれが、亡くなった母の屋敷ですの。あたし、あそこで生まれたんです。生まれてからずっとこの湖のほとりで過ごしてきましたから、小さな島の一つ一つにいたるまで知っていますわ。
トリゴーリン  ここはいいところですね! 〔かもめを見て〕何です、これ?
ニーナ  かもめですわ。コンスタンチン・ガヴリールイチが射ったんです。
トリゴーリン  きれいな鳥ですね。ほんとに帰りたくないな。あなたからイリーナ・ニコラーエヴナに、もっといるようにおっしゃってくださいよ。   
 〔手帖に書きこむ〕
ニーナ  何を書いてらっしゃるんですの?
トリゴーリン  いや、ただメモをとっているだけですよ……主題が一つ浮かんだので……〔手帖をしまいながら〕ちょっとした短篇の主題がね。湖のほとりに若い娘が、ちょうどあなたのような娘さんが、子供の頃から住んでいる。かもめのように湖が好きで、かもめのように幸福で自由なんです。ところがたまたま一人の男がやってきて、その娘を見そめて、退屈しのぎに破滅させてしまうんですよ。ちょうどこのかもめのようにね。
 〔間〕
 〔窓にアルカージナが姿を見せる〕
アルカージナ  ボリス・アレクセーエウィチ、どこにいらっしゃるの?
トリゴーリン  今行きますよ! 〔歩きかけ、ニーナをふりかえる。窓のところでア儿カージナに〕どうLたの?
アルカージナ  残ることにしたわ。
  〔トリゴーリン、家に入る〕
ニーナ 〔フット・ライトの方に近づく、しばらく瞑想したあとで〕夢だわ!

幕                   

原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 
 

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