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かもめ 第一幕 アントン・チェーホフ

「かもめ」は、最初ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で上演され、無惨な失敗に終わった戯曲であるが、のちにモスクワ芸術座の上演が大成功をおさめ、劇作家チェーホフの名前を不朽のものにした。
「かもめ」では、女優志望の娘ニーナと、作家志望の青年トレープレフの運命が物語の中心になっている。名声を夢みて、有名な作家トリゴーリンのもとに走ったニーナはやがてトリゴーリンに捨てられ、彼の間にできた子どもにも死なれ、精抻的にも肉体的にも傷つく、しかし二年後、すでに新進作家になったトレープレフを訪れた彼女は、もはや自己の生きてゆく道をはっきりと自覚した女性であり、プロの女優としての意識に徹している。そして、「あなたは作家、あたしは女優」と決意を表明する彼女に対して、トレープレフは二年前とまったく同じ台詞をつぶやくだけにすぎない。自分のものを持たぬ彼にとっては、これからの長い人生が無意味なものにしか感じられず、泥まみれなっても生き抜こうとするニーナとは対照的に、自殺の道を選ぶほかなくなるのである。

かもめ  アントン・チェーホフ


 登場人物
アルカージナ(イリーナ・ニコラーエヴナ) 婚家の姓はトレープレフ、女優。
トレープレフ(コンスタンチン・ガヴリーロウィチ) その息子、青年。
ソーリン(ピョートル・ニコラーエヴナ) アルカージナの兄。
ニーナ(ミハイロヴナ・ザレーチナヤ) 若い娘、裕禍な地主の娘。
シャムラーエフ(イリヤ・アファナーシエウィチ) 退役中尉、ソーリン家の管理人。
ポリーナ(アンドレーエヴナ) その妻。
マーシャ その娘。
トリゴーリン(ボリス・アレクセーエウィチ) 小説家。
ドールン(エヴゲーニィ・セルゲーエウィチ) 医者。
メドヴェージェンコ(セミョーン・セミョーノウィチ) 教師。
ヤーコフ 下男。
料理人。
小間使。

舞台はソーリン家の地主屋敷──第三幕と第四幕の間に二年が経過している。

第一幕

ソーリン家の領地内の庭園の一郎、観客席から庭園の奥にある湖に向かってのびている広い並木道が、家庭劇用に急設された舞台で仕切られているため、湖はまったく見えない、舞台の左右に灌木、椅子が数脚、小テーブル一つ。
今しがた日が沈んだばかり、幕のおりている舞台の上にヤーコフと他の下男たち。咳ばらいや槌音がきこえる。マーシャとメドヴェージェンコ、左手から登場。散歩の帰り。

メドヴェージェンコ  どうして、いつも黒い服を着てらっしゃるんです?マーシャ  これはあたしの人生の喪服なの。あたし、不幸な女ですもの。メドヴェージェンコ  どうして? 〔考えこんで〕わかりませんね。……あなたは健康だし、お父さんだって、そりゃお金持じゃないにしても、何不自由ないじゃありませんか。あなたより僕の方が、生活はずっと苦しいですよ。月給はたった二十三ルーブルだし、その上、退職金の積立て分をさっぴかれるんですからね。それでも僕は喪服なんか着ませんよ。〔二人、腰をおろす〕
マーシャ  問題はお金じゃないわ。貧乏人だって幸せになれるもの。
メドヴェージェンコ  そりゃ理論上はね。でも実際はこういうことなんです。僕と、それから母、妹が二人、小さな弟、それでいて月給はたった二十三ルーブルですからね。まさか飲まず食わずじゃいられないでしょう? お茶や砂糖だって必要だし。煙草もいるでしょう? これじゃきりきり舞いしなけりゃなりませんよ。
マーシャ  〔舞台を見まわしながら〕もうじきお芝居がはじまるわ。
メドヴェージェンコ  そうですね。出演はザレーチナヤ、脚本、トレープレフ作。あの二人は恋人同士だから、今日は同じ一つの芸術的形象を作りだそうという意欲に、二人の魂が融け合うことでしょう。そこへゆくと、僕とあなたの魂には、共通の接点がないんですものね。僕はあなたを愛している。恋しさに家にじっとしていることができないで、毎日六キロも歩いてここへ通って、帰りがまた六キロ。それでいて出会うものといや、あなたの無関心な態度だけなんだから。それも当然ですよね。僕は財産はないし、家族は大勢だし……食うにこと欠くような男と結婚するなんて、そんなもの好きな話があるもんですか?
マーシャ  つまらないことを。〔かぎ煙草をかぐ〕あなたのお気持には心を打たれますけれど、それにお応えすることができないんです。それだけのことですわ。〔煙草入れ を彼にさしだす〕いかが?・
メドヴェージェンコ  いえ、結構です。〔間〕
マーシャ  蒸し暑いわ。きっと夜中に雷雨がくるわね。あなたって、いつも哲学をならべたてるか、でなけりゃお金の話ばかりなんですもの、あなたに言わせると、貧乏ほど大きな不幸はないらしいけど、あたしの考えでは、ぼろを着て乞食暮しをする方が千倍も楽ですわ、それより……もっとも、あなたにはわかっていただけないわね……
〔手からソーリンとトレープレフ登場〕
ソーリン  〔テッキをつきながら〕わたしは、君、田舎にいるとどうも調子が狂ってね。だから、もちろん、いつになってもこの土地に慣れることはあるまいよ。ゆうべだって十時に寝たのに、今朝目がさめたのは九時で、あまり寝すぎたもんだから、まるで脳味噌が頭蓋骨にこびりついたみたいな気持だったよ。すべてこの調子なんだ。〔笑う〕ところが、昼ご飯のあと、ついまたひと眠りしちまったもんで、今や全身がくたくたで厭な気分さ、結局のところ………
トレープレフ  たしかに、伯父さんは都会で暮らす必要がありますね。〔マーシャとメドヴェージェンコに気づいて〕みなさん、はじまる時にはよびますから、今はここにいないでください。あっちへいらしててくださいませんか。
ソーリン 〔マーシャに〕マリヤ・イリイーニチナ、まことに恐縮だけれど、あの犬の鎖をはずしてやるように、お父さんに頼んでくれませんか。でないと、吠えるんでね。妹はまた夜通し眠れなかったんですよ。
マーシャ  ご自分で父とお話しになってください。あたしは厭ですわ。勘弁してください。〔メドヴェージヱンコに〕行きましょう!
メドヴェージェンコ  〔トレープレフに〕それじゃ、はじまる前に、知らせによこしてください。〔二人、退場〕
ソーリン  つまり、また一晩じゅう犬が吠えるってわけか。困ったね。わたしは田舎に来て、自分のしたいような暮しなんぞ一度もしたことがないんだよ。前にはよく、二十八日間の休暇をとって、骨休めや何かにここへ来たもんだけれど、来たとたんになんだかんだとくだらぬことに煩わされるもんで、ついたその日から逃げだしたくなったものだよ。〔笑う〕ここを引き上げる時は、いつも大喜びだったね……ところが、今や退職の身で、行くべきところもないときたもんだ、結局のところ。否でも応でも、ここで暮らせってわけさ……
ヤーコプ  〔トレープレフに〕コンスタンチン・ガヴリールイチ、わたしら、一泳ぎしに行ってきます。
トレープレフ  いいとも。ただ十分後には持ち場についてくれよ。〔時計を見る〕もうじきはじまるから。
ヤーコプ  わかりました。〔退場〕
トレープレフ  〔舞台を見まわしながら〕これですよ、劇場ってのは。幕があって、それから袖、そしてもう一つ袖があって、その先は何一つない空間です。装置は全然なし。いきなり湖と地平線の眺めがひらけるんですよ。幕はきっかり八時半、月の出とともに開けるんです。
ソーリン  すばらしいじゃないか。
トレープレフ  ザレーチナヤが遅れたりしたら、もちろん効果は全部パーですがね。そろそろ来てもいいころだけどな。お父さんとまま母の目がうるさいんで、家をぬけだすのは、牢屋から脱走するのと同じくらいむずかしいんですよ。〔伯父のネクタイを直してやる〕髪の毛も顎ひげも、くしゃくしゃじゃありませんか。少し刈りこんだ方がいいんじゃないかな……
ソーリン  〔顎ひげを撫でつけながら〕これが一生の悲劇でな。若いころからこんな見てくれなんて、まるでいつも大酒をくらってるみたいなんだ。それだけさ。女に愛されたことなんぞ一度もないしな。〔腰をおろしながら〕妹のやつ、どうしてご機嫌斜めなのかね?
トレープレフ  どうしてですって? 淋しいんですよ。〔隣に腰をおろす〕妬いてるんです。母さんは今からもう、僕にも、この芝居にも、僕の脚本にも反感をいだいてるんです。というのも、出演するのが母さんじゃなくて、ザレーチナヤだからですよ。僕の脚本を知らないくせに、もう敵視してるんですからね。
ソーリン  〔笑う〕考えすぎだよ、そりゃ……
トレープレフ  母さんはね、この小さな舞台で人気を集めるのが自分じゃなくて、ザレーチナヤなのが、癪なんですよ。〔時計を見て〕心理学上の変種ですからね、母さんは。そりゃ、文句なしに才能はあるし、頭もいい、本を読んで泣くこともできれば、ネクラーソフの詩を全篇あざやかに暗誦してもみせる。病人の看護をさせたら、天使みたいですしね、だけど、母さんの前で女優のドゥーゼをほめたりしてごらんなさい。ぎょ、ってなもんですよ! 誉めるのは母さんのことだけでなけりゃいけないんです。劇評だって母さんのことだけ。「椿姫」や「人生の毒気」で見せた母さんの絶妙な演技をほめそやして、感激しなけりゃいけないんです、ところが、この田舎にはそんな麻酔薬がないもんだから、気が滅入って、つんけんするんです。僕たちはみんな、母さんの敵なんすよ。僕たちみんなの責任てわけだ。その上、母さんは迷信深くて、三本の蠟燭や、十三日という日をこわがるんですからね。母さんはけちなんだ。オデッサの銀行に七万ルーブルも預けてるくせに、僕、ちゃんと知ってるんだから。そのくせ、借金でも申し込んでごらんなさい。母さん、泣きだしますよ。
ソーリン  君は、自分の脚本が母さんの気に入らないと思いこんで、もう気をたかぶらせているんだよ、それだけさ。気を静めなさい。母さんは君を崇拝してるよ。
トレープレフ  〔花びらをむしりとりながら〕好きか、嫌いか。好きか、嫌いか。好きか、嫌いか。〔笑う〕ほらね、母さんは僕を好きじゃないんだ。そりゃそうさ! 母さんは生きてゆきたいし、恋もしたい、派手なジャヶツトも着たいというのに、僕がもう二十五にもなって、たえず母さんにもう若くないんだってことを思いださせるんですからね。僕がいなけりや、三十二で通るのに、僕の前だと四十三になっちまうんだ。それで母さんは僕を憎んでるんですよ。それに母さんは、僕が劇場なんてものを認めないことも知ってますしね。母さんは劇場を愛しているし、人類や神聖な芸術に奉仕してるような気になっているけど、僕に言わせりゃ、現代の劇場なんて因習と偏見のかたまりですよ。幕が開くと、夜の照明を受けて、三方を壁にかこまれた部屋の中で、神聖な芸術に仕える偉大な名優たちが、飲んだり食べたり、恋をしたり、歩いたり、背広を着たりするところを演じてみせる。通俗な場面や台詞からモラルをひねりだそうと努める。しかもそのモラルたるや、ちゃちで俗受けして、日常生活でためになるようなものばかりなんだ。何百、何千というバリエイションこそあれ、うやうやしく差しだされるのはいつも同じもの、同じこと、同じ代物なんですからね。これじゃ、こっちはただただ逃げの一手あるのみですよ。ちょうどモーパッサンが、エッフェル塔の俗悪さに肝をつぶして、さっさと逃げだしたのと同じでね、
ソーリン  劇場なしというわけにはゆかんだろう。
トレープレフ  新しい形式が必要なんです。新しい形式が必要なんで、それがないくらいなら、いっそ何も要らないんだ。〔時計を見る〕僕は母さんが好きです。とても好きです、だけど、母さんはでたらめな生活を送っているし、年中あの小説家にうつつをぬかしていて、母さんの名前はいつも新聞で叩かれ通しですからね。これで僕はげんなりするんですよ。そりゃ、時には僕だって凡人のエゴイズムに動かされることもありますよ。つまり、母親が有名な女優なのが残念で、もしごく普通の女性だったら、僕はもっと幸せだったろうに、という気のすることがあるんです。ねえ、伯父さん、これ以上ぶざまな愚かしい立場がありますか。だって、母さんの客間に集まるのは、みんな有名人や、俳優や、作家ばかりなのに、その中でたった一人僕だけが、何でもない人間なんです。みんなが辛抱してくれているのも、僕が息子だからにすぎないんだ。この僕が何者です? 何だというんです? 例の「その筋の命令により」という理由で大学を三年で中退した人間で、才能はからきしないし、金だってビタ一文ありやしない。しかも、パスポートによると、僕はキエフの町人ってことになってるんですからね、なにしろ父さんは、やっぱり有名な俳侵でこそあったけれど、キエフの町人でしたものね。というわけで、母さんの客間でそういった俳優だの作家の先生だのがお情で僕に関心をよせたりしてくれると、まるでその連中が僕の無価値をじろじろと測っているみたいな気がしたもんです。その連中の考えを推測して、屈辱感に苦しんだものでした……
ソーリン  ついでに、ひとつ教えてくれないか、あの小説家はいったいどういう人間なんだい? さっぱりわからんよ。いつもむっつり黙りこんでるんでな。
トレープレフ  頭のいい、気さくな人ですよ、いくらか、そう、メランコリックでね、実にまともな人間ですよ。四十にはまだだいぶ間があるってのに、もう有名人で、すべてに満足しきってるんです……あの人の書くものに関して言うと……そう、どう言えばいいかな? うまいし、才能もあるけれど……トルストイやゾラのあとでは、トリゴーリンを読む気は起こらないってとこですかね。
ソーリン  ところで、君、僕は文学者が好きでね。かつてはわたしも熱烈に二つのことを望んでいたものだよ。一つは結婚することで、もう一つは文学者になることだったんだが、どちらもうまくいかなかったな。うん、ちゃちな文学者だって、なれりゃ嬉しいからね、結局のところ……
トレープレフ  〔耳をすます〕足音がきこえる……〔伯父を抱く〕僕は彼女がいなけりゃ生きてゆかれないんです……足音まで素敵だ……幸せだなあ、気が狂うほど! 〔登場してくるニーナ・ザレーチナヤを、急いで迎えに行く〕僕の魔法使が来てくれた、僕の夢が……
ニーナ  〔心配そうに〕あたし、遅れなかったでしょ……もちろん、遅れなかったわね……
トレーブレフ  〔彼女の両手にFにキスしながら〕うん、うん、大丈夫ですよ……
ニーナ  一日じゅう気をもんでいたわ、とても不安だったの! お父さんが出してくれないだろうと思って……でも、お父さんは今、母といっしょに出かけたわ。空が赤いし、もう月が出はじめているでしょう、だから馬を思いっきりとばしてきたのよ。〔笑う〕でも、嬉しいわ。〔ソーリンの手を強く握る〕
ソーリン  〔笑う〕その目は、泣いたみたいだよ……ほら、ほら! いかんね!
ニーナ  これは別に……ほら、息をするのが苦しくって。三十分したら帰ります。いそがなければいけないの。いいえ、だめよ、おねがいだから、引きとめたりなさらないで。あたしがここに来ているのを、お父さん知らないんですもの。
トレープレフ  ほんとに、もうはじめる時間だ。みんなをよびに行かなけりや。
ソーリン  わたしが行ってくるよ、それだけのことさ。今すぐにな。〔右手へ行きながら、うたう〕「擲弾兵が二人、フランスに向かう……」〔振り返る〕いつだったか、こんなふうにうたいはじめたらね、ある検事がこう言うんだよ。「いや、閣下、力強いお声で」……それからちょっと考えて、付け加えたもんだ。「しかし……厭な声ですな」だとさ。〔笑って、退場〕
ニーナ  お父さんも後妻の人も、あたしをここへよこしたがらないのよ。ここはポヘミヤンの巣だなんて言って……あたしが女優にでもなりはしないかって、心配しているんだわ……でも、あたし、かもめみたいにここの湖にひきつけられるわ……あたしの心は、あなたのことでいっぱい。〔あたりを見まわす〕
トレープレフ  僕たちだけですよ。
ニーナ  あそこにだれかいるみたい……
トレープレフ  いませんよ。〔キス〕
ニーナ  これ、何ていう木?
トレープレフ  にれ。
ニーナ  どうしてこんなに黒いのかしら?
トレーブレフ  もう夜だから、物はみんな黒く見えるんですよ。ね、早く帰ったりしないで、おねがいだから。
ニーナ  だめなの。
トレープレフ  じゃ、僕があなたのところへ行こうか、ニーナ? 夜通し庭にたたずんで、あなたの窓を見ているんだ。
ニーナ  だめよ。番人に見つかるわ。トレソールだって、まだあなたに馴れていないから、吠えるでしょうし。
トレープレフ  愛しているよ。 
ニーナ  しィ……
トレープレフ  〔足音をききつけて〕だれ、そこにいるのは? ヤーコプかい?
ヤーコプ  〔舞台の裏で〕はい、たしかに。
トレープレフ  みんな、持ち場についてくれ。時間だ。月はのぼりかけてるかい?
ヤーコプ  はい、たしかに。
トレープレフ  アルコールはあるだろうね? 硫黄もあるかい? 赤い目が現われる時に、硫黄の匂いがしてないといけないからね。〔ニーナに〕じゃ、頼むよ、すっかり準備できてるから。あがってる?
ニーナ  ええ、とっても。あなたのお母さまは、大丈夫なの。お母さまはこわくないんだけど、トリゴーリンさんが見えてるんでしょう……あの人の前で演ずるなんて、不安だし、恥ずかしいわ……有名な作家なんですもの……若い人?
トレープレフ  うん。
ニーナ  あの人の短篇、とてもすてきだわ!
トレープレフ  〔そっけなく〕知らない。読んでないから。
ニーナ  あなたの戯曲、とてもやりにくくて。生きた人間がいないんですもの。
トレープレフ  生きた人間がね! 人生を描くには、ありのままでもなければ、あるべき姿でもなくて、空想にあらわれるように描かなけりゃいけないんですよ。
ニーナ  あなたの戯曲は、動きが少なくて、読みだけですもの。あたしの考えでは、お芝居には必ず恋愛がなけりゃいけないと思うわ。〔二人とも舞台喪に引っ込む〕
 〔ポリーナ・アンドレーエヴナとドールン登場〕
ポリーナ  湿っぽくなってきましたわね。引き返して、オーバーシューズをはいてらっしゃいな。
ドールン  僕は暑くて。
ポリーナ  ご自分を大切になさらない方ね。そんなの、やせ我慢だわ。あなたはお医者さまだから、湿っぽい空気が身体にわるいことくらい、よくご存じのくせに、あたしに気をもませたいんですのね。昨日だって、わざと宵のうちずっとテラスに坐ってらしたりして……
ドールン  〔口ずさむ〕「言いたもうな、青春を滅ぼしたなどと……」
ポリーナ  アルカージナさんとのお話にすっかり夢中で……寒さにも気づかないほどでしたわね。白状なさいな、あの人が気に入ってるんでしょう……
ドールン  僕は五十五ですよ。
ポリーナ  そんなこと。男にとって、年寄りとは言えませんわ。あなたはいつまでも若々しいから、まだ女性にもてますもの。
ドールン  だから、どうしろとおっしゃるんです?
ポリーナ  あなた方ってみんな、女優さんの前に出ると、ひれ伏してしまうのね。みんなそうだわ!
ドールン  〔口ずさむ〕「われ、ふたたび君の前にあらわれ……」世間で俳優をちやほやして、たとえば商人なんかに対するのと違った応対をするとしても、それは当然ってもんですよ。それは、理想主義なんです。
ポリーナ  いろいろな女の人がいつもあなたに熱をあげて、気をひこうとしてきましたわね、これも理想主義ですかしら?
ドールン  〔肩をすくめて〕どうして? 僕に対する女性たちの熊度には、立派な面がたくさんありましたよ。僕がもてたのは、主に、優秀な医者としてなんです。あなたもおぼえてらっしゃるでしょうけど、十年から十五年ほど前には、僕はこの県内で唯一のまともな産科医でしたからね。それに、僕は常に誠実な人間で通してきたし。
ポリーナ  〔彼の片手をとる〕ねえ、あなた!
ドールン  静かに。だれか来ます。
〔ソーリンと腕を組んだアルカージナ、トリゴーリン、シャムラーエフ、メドヴェージェンコ、マーシャ登場〕
シャムラーエフ  一八七三年にポルタワの定期市で見せたあの女優の演技は、すばらしいものでしたよ、ただただ感激です! みごとな熱演でした! それから、喜劇役者のチャージン、ほら、あのパーヴェル・セミョーヌイチ・チヤージンが今どこにいるのか、やはりご存じありませんか? ラスプリューエフの役をやらせたら、右に出る者はおりませんでしたがね、サドフスキイより上手でしたよ、本当に、奥さま。あの役者は今どこにおるんでしょう?
アルカージナ  あなたはいつも、なにやら時代遅れな昔の人のことばかり、おききになるのね。わたしが知るはずないでしょうに! 〔腰をおろす〕
シャムラーエフ  〔溜息をついて〕パーシカ・チャージン! ああいう名優はもういませんな、芝居も落ちたものですね、イリーナ・ニコラーエヴナ! かつては力強い大木がならび立っていたけれど、今や目に入るのは切株ばかりじゃありませんか。
ドールン  華やかな名優がこの節少ないのは事実ですが、中どころの俳優ははるかに上手になっていますよ。
シャムラーエフ  わたしは賛成できませんね。もっとも、これは好みの問題ですからDe gustibus aut bene autnihil (好みを言うなら、賞めるか、何も言わぬかだ)といいますしね。
〔トレープレフ、舞台のかげから登場〕
アルカージナ  〔息子に〕ねえ、開演は何時?
トレープレフ  今すぐです。しばらく辛抱を。
アルカージナ  〔ハムレットのなかの台詞で〕「ああ、ハムレット、もう何も言わないで、そのお前の言葉で、おのが心の奥底をまざまざとのぞき見るおもい、どす黒いしみにまみれて、このように、いくら洗っても落ちはしまい。
トレープレフ   〔ハムレット心から〕「落ちますものか。いっそ、このうえは、脂ぎった汗くさい臥床で、ただれた欲情にむせまろび、きたない豚小屋中を……」
〔舞台の奥でホルンが鳴る〕
トレープレフ  みなさん、開演です! ご静粛に! 〔間〕はじめます。〔細い杖をとんと突き、大声で言う〕ああ、この湖の上を夜ふけにさまよう、尊敬すべき昔ながらの影たちよ、わたしらを眠らせて、二十万年後の世界を夢に見せてくれ!
ソーリン  二十万年後じゃ、何一つないだろうに。
トレープレフ  だから、その何一つないってことを見せるんですよ。
アルカージナ  どうぞ。わたしたち、寝てるから。
 〔幕があがる。湖の眺めがひらける。月が地平線の上方にかかり。その影が水に映じている、大きな石の上に、白ずくめの衣装のニーナが坐っている〕
ニーナ  人間も、ライオンも、鷲も、しゃこも、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に住んでいた物言わぬ魚も、ヒトデも、そして肉眼では見ることのできなかったものも、一口に言って、すべての生き物、あらゆる生物が悲しいワンサイクルを終えて、消えてしまった……すでに何千世紀もの間、地球はただ一つの生き物をも乗せていないし、あの哀れな月もむなしく明りをともしている。もはや河原で鶴が一声鳴いて目ざめることもなく、菩提樹の茂みにコガネ虫の羽音がきこえることもない。寒い、寒い、寒い。空虚だ、空虚だ、空虚だ。不気味だ、不気味だ、不気味だ。〔間〕生き物たちの身体は灰となって消え、永遠の物質がそれらを石や、水や、雲に変えて、それらすべての魂が一つに融け合った。世界全体の共通の一つの魂、それがわたしだ……このわたしだ……わたしの中には、アレクサンダー大王の魂も、シーザーの魂も、シェイクスピアのも、ナポレオンのも、最後の一匹の蛭の魂も入っている、わたしの中で人間の意識と動物の本能とが融け合っているので、わたしはすべてを、何もかも全部おぼえているし、自分自身の内部で一つ一つの生命を新しく生き直しているのだ。〔鬼火があらわれる〕
アルカージナ  〔小声で〕なんだかデカダン的ね。
トレープレフ  〔非難をこめて、哀願するように〕母さん!
ニーナ  わたしは孤独だ。百年に一度、わたしは話すために口を開く。が、わたしのその声もこの空虚さの中ではわびしくひびき、だれにもきこえない……お前たち、青白い鬼火にも、わたしの声はきこえない……腐った沼が夜明け前に生みだすお前たち鬼火は、暁方までさまよいつづけているけれど、思考も、意志も、生命のおののきも持たない。お前たちの中に生命の入りこむのを恐れて、永遠の物質の父である悪魔は、石や水と同じようにお前たちにも、たえず原子の交換を行なっているので、お前たちはたえまなく変化しつづけている。この宇宙に恒久不変のものとして残されているのは、霊魂だけなのだ。〔間〕深い空井戸に放りこまれた捕虜のように、わたしは、自分がどこにいるのか、わたしを何が待ち受けているのか、知らない。わたしに秘め隠されていないのは、ただ、物質的な力の本源たる悪魔との執拗な、はげしいたたかいでわたしが勝つ定めになっていることと、そのあとで物質と霊魂とがみごとな調和のなかで融け合って、全世界の一つの意志の王国が訪れることだけだ。しかし、そんな日が訪れるのは、長くつらなる何千年もの歳月をへて、月も、明るいシリウス星も、この地球も、徐々に塵と化す畤でしかない………その畤までは、ただ恐ろしく、不気味なだけだ……〔間。湖をバックにして赤い二つの点があらわれる〕ほら、わたしの強敵が近づいてくる。悪魔が。わたしにはあの恐ろしい真赤な目が見える………
アルカージナ  硫黄くさいわね。これも必要なの?
トレープレフ  ええ。
アルカージナ  〔笑う〕そう、効果ってわけね。
トレープレフ  母さん!
ニーナ  悪魔は人間がいないので退屈しているのだ……
ポリーナ  〔ドールンに〕帽子をぬいでしまったのね。かぶってらっしゃいな、風邪をひきますわ。
アルカージナ  ドクトルは永遠の物質の父なる悪魔に敬意を表して脱帽なさったのよ。
トレープレフ  〔かっとなって、大声で〕芝居は終りだ! もうたくさんだ! 幕!
アルカージナ  何を怒ってるの?
トレープレフ  もうたくさんだよ! 幕だ! 幕をおろせ! 〔片足を踏み鳴らして〕幕だ! 〔幕がおりる〕わるうござんした! 芝居を書いたり、舞台で演じたりすることのできるのは、ごく少数の選ばれた人たちだけだってことを、見落としてましたよ。専売特許を侵害したってわけだ! 僕はね……僕は……〔さらに何か言おうとするが、片手をふって、左手に退場する〕
アルカージナ  どうしたの、あの子?
ソーリン  イリーナ、母親のくせに若い者のプライドをそんなふうに扱っちゃ、いかんよ。
アルカージナ  わたしが何を言って?
ソーリン  あの子を侮辱したじゃないか。
アルカージナ  あの子自身、これはお遊びなんだと言っていたのよ。だから、わたしもお遊びのつもりで見ていたんじゃないの
ソーリン  でも、やはりね……
アルカージナ  ところが実は、大傑作をものしたってわけだったのね! まあ、どうでしょう! つまり、このお芝居を催したのも、硫黄で窒息させようとしたのも、お遊びどころか、デモンストレイションのためだったのね……芝居の書き方や演じ方を、わたしたちに教えてくれる気だったんだわ。要するに、気の滅入る話だこと、こんなふうにいつもわたしに厭がらせや当てこすりをするなんて、そりゃまあご自由でしょうけれど、だれだってうんざりしますよ! 気まぐれで、うぬぼれの強い坊やだこと!
ソーリン  あの子はお前を喜ばせようと思ったんだよ。
アルカージナ  そうかしら? だけど、現にあの子は何かごく普通の戯曲を選ぼうとしないで、こんなデカダン的なたわごとをわたしたちにきかせようとしたんですからね。わたしだって、お遊びなら、たわごとをきいてやるつもりもあるけれど、これじゃ、芸術の新しい形式や新しい時代に対する野心まるだしじゃないの。わたしに言わせれば、今の芝居に新しい形式なんかまるきりありゃしないわ、へそ曲りなだけよ。
トリゴーリン  人それぞれ、書きたいように、また書けるように書くもんですよ。
アルカージナ  あの子が自分の書きたいことを、書けるように書くのは勝手だけれど、こっちまで巻き添えにして欲しくないわね。
ドールン  ジュピターよ、汝は怒れり……
アルカージナ  わたしはジュピターじゃありません、女ですからね。〔煙草に火をつける〕別に怒ってはいなくてよ、ただ、若いのにこんなふうに退屈に時間をすごしているのが、腹立たしいだけ。あの子を侮辱するつもりはなかったわ。
メドヴェージェンコ  霊魂と物質とを区別する根拠なんて、だれも持っていませんよ。だって、ことによると、霊魂そのものが物質の原子の綜合体かもしれませんからね。〔勢いこんで、トリゴーリンに〕ところで、どうでしょうね、われわれ教員仲間の生活を芝居に書いて、舞台にかけてみては。苦しい、つらい生活ですからね!
アルカージナ  おっしゃる通りね。でも、芝居や原子の話はもうやめましょう。こんな素晴らしい晩ですもの! きこえるでしょう、ほら、うたっているのが? 〔耳をすます〕素敵だわ、とても!
ボリーナ  向こう岸ですわね。〔間〕
アルカージナ  〔トリゴーリンに〕わたしの隣におかけなさいな。十年から十五年ほど前には、この湖でほとんど毎晩おそくまで、音楽や歌声がきこえたものでしたわ。この岸辺には地主屋敷が六つもあるんですもの。思いだすわ、笑い声やざわめき、猟銃の音、それにいつもロマンスにつぐロマンスでね……その当時、六軒の地主屋敷全部のアイドルであり二枚目だったのが、ご紹介するわ、〔ドールンを顎でさし示して〕こちら、ドクトル・エヴゲーニイ・セルゲーエウィチ。今でも魅力たっぷりですけど、あの頃は向かうところ敵なし、でしたわ、それにしても、気がとがめてきたわ。あたし、何のつもりであの可哀そうな坊やを侮辱したりしたのかしら? 心配だわ。〔大声で〕コースチャ! コースチャ!
マーシャ  あたし行って探してきます。
アルカージナ  おねがいするわ、ね。
マーシャ  〔左手に向かう〕ヤッホー! コンスタンチン・ガヴリーロウィチ! ヤッホー!〔退場〕
ニーナ  〔舞台のかげから出てきながら〕どうやら続きはなさそうだから、出て行ってもかまわないみたい。今晩は!
 〔アルカージナやポリーナとキスを交す〕
ソーリン  おみごと! おみごと!
アルカージナ  ほんと! 素晴らしかったわ! うっとりして拝見していたのよ! それだけの容姿と、そんな素敵な声をしていながら、田舎にこもっているなんて、いけませんわ。罪な話よ。あなたはきっと天分がおありになるのね。ねえ? あなたは舞台に立つべきだわ!
ニーナ  まあ、それ、あたしの夢ですわ! 〔溜息をついて〕でも、そんな夢、実現しっこありませんもの。
アルカージナ  わかるものですか? あ、ご紹介するわ。トリゴーリンさんよ、ボリス・アレクセーエウィチ。
ニーナ  まあ、うれしい……〔はにかんで〕いつもお作は……
アルカージナ  〔彼女を隣に坐らせながら〕そんなに、はにかまなくてもいいのよ。有名人だけど、気さくな方だから。ごらんなさいな、当人の方が照れてしまって。
ドールン  もう幕を上げてもいいと思いますがね。さもないと、どうも気味が悪くて。
シャムラーエフ  〔大声で〕ヤーコフ、幕を上げろ、おい!
 〔幕が上がる〕
ニーナ  〔トリゴーリンに〕奇妙な脚本でしたでしょう?
トリゴーリン  さっぱりわかりませんでした。もっとも、おもしろく拝見しましたがね。あなたはとても気持をこめてやっておられましたね。それに舞台装置も素敵だったし。〔間〕きっと、この湖には魚がたくさんいるでしょうね。
ニーナ  ええ。
トリゴーリン  釣が好きなもんですからね。わたしにとって、夕方、岸辺に腰をおろしてじっと浮子を見ているほど楽しみなことはないんですよ。
ニーナ  でも、創作の楽しみを味わった方には、もうほかの楽しみなんか存在しないように思いますけれど、
アルカージナ  〔笑いながら〕そんなふうにおっしゃらないで。この人、お上手を言われると、悪のりしますから。
シャムラーエフ  今でもおぼえていますが、いつぞやモスクワのオペラ劇場で、有名な歌手のシルワがとても低いドの音をだしたことがあったんです。ところが、ちょうどその時、まるでわざと仕組んだみたいに、宗務院の聖歌隊のバス歌手が天井桟敷に来ていたんですね。で、突然、いやもうおどろいたのなんのって、天丼桟敷から「ブラーヴォ、シルワ!」という声がきこえましてね、それがまる一オクターブ低いんですよ……こんなふうにね。〔低いバスで〕ブラーヴォ、シルワ……劇場がそれこそしーんとなっちまったものでした。〔間〕
ドールン  沈黙の天使、とび過ぎぬ、か。
ニーナ  あたくし、もう時間ですわ。失礼します。
アルカージナ   どこへ? こんなに早くどちらへ? まだお帰ししませんわよ。
ニーナ  パパが待っておりますので。
アルカージナ  なんてパパでしょう、ほんとに……〔キスを交わす〕ま、しかたがないわ。残念ね、お帰ししたくないけれど。
ニーナ  帰るのがどんなにつらいか、わかっていただけたら、と思いますわ。
アルカージナ  だれかがお送りするといいんだけれど、ねえ。
ニーナ  〔おびえたように〕まあ、いいんです、いいんです
ソーリン  〔哀願するように〕もっといらしててくださいよ!
ニーナ   だめなんです、ピョートル・ニコラーエウィチ。
ソーリン  せめて一時間でもいらっしゃい。それだけのことですよ。ね、どうです、ほんとに……
ニーナ  〔ちょっと考えてから、涙声で〕やっぱりだめ! 〔握手して、急ぎ足に退場〕
アルカージナ  ほんとに気の毒な娘さんね。なんでも、亡くなったお母さんが莫大な財産を、一カペイカ残らず全部そっくりご主人の手に渡るような遺言をなさったんですって。それを今度はあの子の父親が後妻の名義にしたものだから、あの子はまるきり無一文になってしまったという話ね。腹が立つわ。
ドールン  そう、あの子の父親というのは相当なわるですよ、こいつははっきさせとく必要がありますね。
ソーリン  〔かじかんだ両手をこすりながら〕さ、われわれも行こうじゃありませんか、みなさん、湿気がでてきましたよ。足が痛くてね。
アルカージナ  兄さんの足は、棒と同じね。歩くのがやっとで。さ、行きましょう、可哀そうなお爺さん。〔彼と腕を組む〕
シャムラーエフ  〔妻に腕をさしだして〕マダム?
ソーリン  ほら、また犬が吠える。〔シャムラーエフに〕申しわけないけどね、イリヤ・アファナーシエウィチ、犬の鎖をはずすように言ってくださらんか。
シャムラーエフ  だめです、ピョートル・ニコラーエウィチ、穀物倉に泥棒が入りゃしないかと、気をもみますからね。倉にキビがあるんです。〔ならんで歩いているドヴェージェンコに〕そうなんですよ、まる一オクターブ低い声でね。「プラーヴォ、シルワ!」しかも、それがちゃんとした歌手じゃなくて、聖歌隊のただの歌い手ですからな。
メドヴェージェンコ  聖歌隊の歌い手なんてのは、月給はいくらぐらいもらうでしょうね? 〔ドールンを除いて、会員退場〕
ドールン  〔一人〕わからん。ことによると、俺は何も理解していないのか、でなけりや気がふれたのかもしれないけど、あの芝居は気に入ったな。何かがあるもの。あの娘が孤独について話して、そのあと悪魔の赤い目があらわれた時なんぞ、俺は興奮のあまり手がふるえたもんだ。新鮮で、すれていないし……おや、噂すれば影だ。喜ぶようなことを、少しでもたくさん言ってやりたいな。
トレープレフ  〔登場〕もうだれもいないな。
ドールン  わたしがいるよ。
トレープレフ  マーシェニカの奴が庭園じゅう僕を探しまわってるんですよ。いけすかない女だ。
ドールン  コンスタンチン・ガヴリーロウィチ、あなたの芝居、とても気に入りましたよ。どこかいっぷう変わってはいるし、おしまいのところを聞きそこなったけど、それでもやはり印象は強烈でした。あなたは才能のある人だ、つづけなければいけませんよ。
 〔トレープレフ、彼の手を固く握り、発作的に抱きしめる〕
ドールン  ふう、なんと神経質な。目に涙をうかべたりして……あなたに言いたいことは、ですね。あなたは抽象的な思想の領域から主題をとってこられた。あれでよかったんですよ。なぜって、芸術作品というのは必ずなんらかの大きな思想を表現すべきなんですからね。真剣なものだけが美しいんです。なんて蒼い顔をして!
トレーブレフ  それじゃあなたは、つづけるべきだとおっしゃるんですね?
ドールン  ええ……ただし、重要な永遠の問題だけを書くんですね。ご承知の通り、わたしはこれまで趣味ゆたかな、変化のある生活を送ってきて、満足してもいます。しかし、芸術家が創作する時に味わうような精神の昂揚を、もしこのわたしが経験する機会に恵まれたとしたら、自分のうわべの物質的な殻や、その殻につきもののすべてを軽蔑して、この地上からはるか高みに舞い上がっていただろう、という気がしますよ。
トレープレフ  すみません、ザレーチナヤはどこですか?
ドールン  それからもう一つ。作品にははっきりした明確な思想が含まれてなけりゃいけません。何のために書くかを、ちゃんと知っていなけりゃいけない。でなくて、はっきりした目的なしに、この美しい道をただ進んだりしたら、あなたは道に迷って、せっかくの才能が身を滅ぼすことになりますよ。
トレープレフ  〔じれったそうに〕ザレーチナヤはどこにいるんですか?
ドールン  あの子は家に帰りましたよ。
トレープレフ  〔絶望して〕どうしよう? 僕は彼女に会いたいんです……どうしても会わなけりや……僕、行ってみます……
〔マーシャ登場〕
ドールン  〔トレープレフに〕まあ、落ちつきなさい。
トレープレフ  でも、やっぱり行ってみます。行ってこなけりゃ。
マーシャ  コンスタンチン・ガヴリーロウィチ、お家にお入りになってください。お母さまがお待ちですわ。心配してらっしゃいますよ。
トレープレフ  僕は出かけた、と言ってください。それから、あなたたちみんなに頼んどくけど、僕を放っといてくれませんか! かまわないでください! 僕のあとをつけまわしたりしないで!
ドールン  まあ、まあ、まあ……それじゃいかんよ……感心せんね。
トレープレフト  〔涙声で〕失礼します、先生。ありがとう……〔退場〕
ドールン  〔溜息をついて〕若さだな、若い!
マーシャ  何ももう言うこともなくなった時のきまり文句ですわね。若い、若い、だなんて……〔嗅ぎ煙草をかぐ〕
ドールン  〔彼女の手から煙草入れを取りあげ、茂みに放りこむ〕みっともない! 〔間〕家ではトランプでもしてるんだろう。行ってみなけりゃなるまい。
マーシャ  待ってください。
ドールン  なんで?
マーシャ  もう一度あなたに申しあげておきたいんです。お話ししたいことが……〔興奮しながら〕あたし、父は嫌いですけど……あなたは頼りにしているんです。どうしてだか、あなたは身近なお方だって、心から感じているんです……わたしの力になってください。助けてください、でないとあたし、ばかなことをしでかしたり、自分の生活を笑いものにしたりして、一生をだめにしちゃいそうなんです……もうこれ以上とても……
ドールン  どうしたんです? 力をかすって、どういうこと?
マーシャ  あたし、悩んでいるんです。あたしの悩みなんか、だれも、だれにもわかってもらえないんだわ! 〔彼の胸に頭を伏せて、小声で〕あたし、トレープレフを愛してるんです。
ドールン  みんな、なんて神経質なんだ! みんなで神経をたかぶらせて! それに、恋の話ばかりじゃないか……ああ、魔の湖よ! 〔やさしく〕でもね、この僕に何がしてあげられるというの? 何が? 何ができる?

原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

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