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身内に不幸があった、筆を執る興味をまったく失った

今年中に読書社会に本を投じることを決意した十人の人々への手紙
読書社会に本を投じる十人の人々をサポートする百人の人々への手紙

吉田さんは1964年、桐朋学園でドイツ語を教えていた女性と結婚している。バルバラ・クラフト(Barbara Krafft)という名のドイツ人と。バルバラさんもまた芸術家であり、日本の芸術を追求した何冊もの著作がある。四十年連れ添った妻を失ったのだ。その衝撃のために、「名曲のたのしみ」だけではなく、雑誌や新聞の連載、本を刊行すること、そのすべてが中断された。しかし二年後、吉田さんは、その大きな虚脱と絶望のなかから立ち上がってふたたび連載のペンを握った。音楽を聴く耳はいささかも衰えてはいない。その音楽を言葉にして刻み込んでいく力もまた厳しく緊張している。このコラムでとりあげられている庄司沙矢香のことは、吉田さんは以前にも書かれている。もしかしたら彼女が奏でるバイオリンが吉田さんを再生させたのかもしれない。吉田さん、九十三歳の時に、刻み込んだ文章である。

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音楽展望──名盤三種
庄司のプロコフィエフは出色 かけがえのないカサロヴァの声

身内に不幸があった。診断が下って三年八ヶ月。入院して半年と四日。その間も気の休まる間はほとんどなかったが、終末を迎えた時は精神と肉体の両面で強烈無残なボディ・ブローを喰らった状態。筆を執る興味はまったく失った。このコラムも当分休みとした。
昨今ようやく人心地を取り戻した気持ちになりかけたところで、軽い病気をした。すると、それまでは亡き人の許に早く行きたいと願っていたのに、急にこのまま屈するのが口惜しくなった。仕事ができていたころは何とよかったろう! いずれにせよ、私に与えられた時間は長くはない。いつまで続くか、保証の限りではない。だが、もう一度やってみよう。

この間、多くの方々の理解、激励、援助を頂いた。改めて、ここで感謝申し上げる。
休載は去る十二月からだった。あの月は、一年の終わりのCD品定めに当ててきた。遅ればせながら、ここでそれを取り返してみよう。といっても、私は長いこと、少ししか聴かずにきた。今ここで取り上げるのはそこから選び取ったもの。とはいえ、近年ずばぬけての優秀な成果と信じたものである。

まず庄司沙矢香によるプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第一、第二番(グラモフォン)。
原田幸一郎氏は人も知る室内楽の名手である。近年はまた教養と経験の蓄積の豊かな、稀にみるヴァイオリンの名教師である。その人がこう述懐したと聞く。「今の日本の優秀な少年少女たちは、十五歳までにヴァイオリン技法のすべてを身のつけてしまったと言っていい。後は『音楽の内容』だけだ」と。
近年この国から輩出する国際コンクールでの優勝者、入賞者の数々を見れば、この説はまったく正しい(もっとも日本に限らず韓国もそうなっていようし、中国も恐らくあまり変わるまい)。

しかし、国の内外で指摘される通り、日本の演奏者の多くは「個性」がない。逆に「共通性」はある。それは彼ら、彼女らがどちらかというとギシギシ、ガリガリ、ザラザラ、鋸でもひくみたいな音を立てること。音の美しさ、優しさを犠牲にして力み返って難曲と取り組んでいるという印象を与える点である。クライスラーの優雅、ティボーの洗練と言わないが、音楽の香気があまりにも乏しい。

プロコフィエフのソナタはそれ自体──ことに第一番など──今言ったギシギシ、ザラザラの音を求める標本のような趣がある。これは、かつてこの曲を弾いて世界的評価を決定づけたヨーゼフ・シゲティの演奏を聴けばよくわかる。元来、シゲティの音はお義理にも美しいとは言えぬものだった。むしろ「美」に抵抗し、時に圧殺しかねない弾き方だった。ただ、彼の偉大は、そこから、かつてヴァイオリンが聴かせたことのないような精神の芸術としての音楽、新しい完成と知性のきらめきがキラキラと光り輝くように生まれてくるという奇蹟のようなことを成し遂げた点にある。

プロコフィエフのソナタは、しかしシゲティに見られた硬質の雑音性への傾きと並んで憂愁の響きや精妙な叙情も要求するものである。この反語的在り方の両方を満足させるのは難事中の難事だろう。絹のよう艶と豊かな響きで滑らかに弾かれた時、この曲は何と味気なく聞こえることか。
庄司のプロコフィエフは、シゲティの光り輝くザラザラを継承しながら、微妙な明暗を映し出す歌い回し、正確なリズムを守りながら翳に富んだ走狗といったものを音にする上で、ほとんど間然とするところがない。このCDは日本のヴァイオリン演奏の限界の一角を突破した記念碑的意義を持つ。

第一ソナタでは曲の求める最高度の難技巧に立ち向かっても音の美しさは失われない。第二楽章第二主題の伸びやかな叙情も素晴らしいし、第三楽章のそれにいたっては流麗と呼んでも誇張ではないだろう。
総じて、このCDではピアニスト(イタマール・ゴラン)が十分以上に個性を主張している。そうなると、ピアノの表現力の幅と厚みはすごい。その圧力の下、ヴァイオリニストは力を尽くして弾くように迫られ、往々両者の間でギリギリのせめぎ合いが生まれる。この攻防も、対象なったソナタの性格からいって正統なものであり、このCDの聴きどころの一つなっている。

ツィマーマンが現代最高のピアニストの一人たることは今更言うまでもない。先年も彼はショパンの協奏曲で我々の度肝を抜いた。今度はラフマニノフの協奏曲の一、二番(グラモフォン)。これも極上の品質で、微細の点に至るまで徹底した正確さと重厚な迫力が一つなった名盤である。
最後になったが、以外なききものはカサロヴァの《ブルガリアの心》(BMG)。この国の(民族・民俗)音楽の精髄を伝える点でも、その音楽自体の土臭くて、しかも微妙な表現の在り方でも、かけがえのない一枚となっている。

なぜか、この国では音楽は女性の営みとして栄えたようだが、ここでは対象となる女たち──少女、娘、若妻、ママたち──から「子供」「家族」そうして舞踊などなど、そのどれもが柔らかな産毛の肌触りのまま歌となって聴き手を魅了する。ほかに類例のないような音程のポリフォニーの醸し出すハーモニーに、カサロヴァのあの鮮やかな、輪郭を持った艶やかな美声が加わって、目覚しくも不思議な音の色彩に満ちた、愉楽のひとときが味わえる。
ただ私は、これらの歌のどこまでが「真正の民俗音楽」で、どこからが作曲家の手の入ったものか判定できない。(二〇〇四年三月十七日発行の朝日新聞・夕刊「音楽展望」)

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