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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ     第12章(その二)



          目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ

            第12章(その二)

「想像もつきませんね」
「百万部だよ」
 と古田はあっさりと言った。この男にとって百万部などというのはわけのない数字かもしれなかった。
「いままでいろんな雑誌を作ってきたが、雑誌遍歴の最後にくるのがこの仕事かもしれないな。いわばぼくの雑誌づくりの総決算にしたいという意気込みがあるんだ。だからその準備にたっぷりと時間をかけてきた。金もまたたっぷりとかけなければならないわけでね。百万部をさばくためには、それだけの金をかけなければならんわけだよ。もちろん金だけではない。まずその作り手だ。なんといっても作りだす側がそれだけの力をもっていなければならない。百万部を売りきる才能を集めなければならんということなのだね」
 と吉田は言った。ぼくを銀座まで連れ出した理由といったものを語ったくだりといったらそれだけだった。ぼくをそのスタッフに加えたいなどということは古田の口からついに出てこなかった。もしそんな話がでたら、はっきりと断るのだと身構えて座っていたぼくはなんだか拍子抜けしてしまった。
 しかし次の日、瀧口の口からその話が出た。瀧口ははっきりと言った。
「古田さんは君を欲しいと言うのだ。それでだね、ずいぶんと急な話になるが来月から新宿の高層ビルのなかにある古田事務所が、君の新しい職場になる」
「それは業務命令というものですか」
「そうだ。君を推薦したんだよ。いいかね、いま会社はどんな状態にあるか君にもよくわかっていると思うが、そういう閉塞状況を打開するための一つの試金石なんだ。そのへんところをよく考えてほしいのだ」
 そう言われたらもうなにも言えなかった。
 その夜、令子を誘って渋谷に出た。道玄坂の《セゴビヤ》のカウンターに座ると、
「古田武雄に会ったんだ」
 といきなり切り出して、彼女をびっくりさせた。
「そいつの事務所が新宿にあるらしいんだが、もしかしたら来月からそっちにいかなければならないんだ」
「どういうことなの?」
 ぼくはいままでの経緯を残らず話してみた。一人でもんもんとしていた胸の内を話すと、重い気分も軽くなっていくのだった。
「なんだかおかしな話ね。いったい瀧口さんはなにを考えているのかしら」
「ぼくにもよくかわらない。話がよくみえないんだ」
「都会生活を廃刊にするための布石なのかしら」
「いや、いくら血迷ったとしても、瀧口さんはそこまでのことをする人ではないよ。どうもそういうことでもないようなんだ。その雑誌は百万を売ろうというのだからね。ちょっと桁がちがうんだ」
「都会生活なんて問題じゃないってこと」
「そうなんだ」
「なんだが、実藤さん、そっちの仕事がしたいみたいね」
「そうじやないさ。そんなことはないさ。ただ彼らがいったいなにを企んでいるのかをスパイしてきてやろうと思うんだ。瀧口さんはなにも言わない。言いたくてもいまはなにも言えないと思うんだな。しかし長年一緒に仕事をしてきたからわかるんだ。古田という男が大きくからんできている。そして古田の背後にある村田書店が、どうもわが社の生死の鍵を握っているような気がするんだ」
「やっぱりね」
「戦うにはまず敵を知らなければならないということがあるじゃないか」
「それはそうだわ」
「敵のふところ深く潜入して、その企みの全貌をさぐりだしてくるんだ」
「もし彼らが私たちの予想するようなことを企んでいたらどうするわけ?」
「そのときは戦いをはじめるべきだよ。組合はのんきに構えているが、事態はだれがみたってひどく悪いんだ」
「敵はもう間近に迫っているというのにね」
「そうなんだ。おれたちはもう戦いの準備をはじめなければならないんだよ。そのためにも、いまおれたちのおかれている状況を正確につかんでおく必要があるんだ」
 その夜、大きく傾いていた気持ちを令子と話すことで固めてしまった。ひどくあやしげな理由づけをするために令子を利用したのかもしれなかった。そんなヒロイックな思いがあったからこそ、いとも簡単にその話に乗ることができたのかもしれなかった。しかしぼくの心が大きく動いていったほんとうの理由は、古田と出会ったことだった。彼がいま挑戦している巨大な雑誌が、ぼくの心をざわざわと騒がせはじめていたのだった。それはなにか火のなかに巻き込まれるような危険なしかし抗しがたい力だった。
 都会生活九月号を校了にした次の日に、ぼくは一人新宿の高層ビルのなかに居を構えている古田事務所をたずねた。三十階にあるその部屋は、オフイスというよりもモデルハウスの居間のようなレイアウトをもった部屋だった。なるほど事務机が並んでいたが、それよりもソファーや椅子がとりかこむ空間が部屋の半分以上をしめていた。そこでいかにも雑誌づくりに群がる人間をにおわせる風貌をした五、六人の男や女たちが陽気に話しこんでいた。
 ぼくの名を告げて古田をたずねると、気持ちのよい笑顔をたたえたすらりとした女がやってきて、
「いま古田は韓国にいっているんですよ」
「いつもどってくるのですか」
「五日後の予定なんです。でもあなたのことはうかがっていますよ」
彼女はぼくを奥のほうに連れこんで椅子をすすめると、
「まずこれを読んでいただけますか」
 と言って一通の封書を手渡した。それは古田がぼくにあてた手紙だった。太い万年筆で書かれたのびのびとした字がおどっていた。
《君が作りたいと思う雑誌の企画プランを書き上げること。できるかぎり雄大な規模が望ましい。その企画を着手するための予算等数字の裏打ちがあればなおベター。期間は二週間。その間、出社する必要なし。どこで執筆しようと自由。それに要する取材費や旅費等は請求すること》
 これはいったいどういうことなのだろうと何度も読み返していると、すらりとした女性がコーヒーをいれてもどってきたので、ぼくはその手紙のことをたずねてみた。
「ここに出社する必要なしと書かれてあるけど、どういうことなんでしょうね」
「それはそのレポートをどこで書いてもいいということですよ」
「どこでもいいって、ハワイでも、さらに遠くアメリカ本土にいってもいいってことですか」
 と冗談で言ったのだ。すると、
「ええ、かまいませんよ。パリでもニューョークでも」
「それに要する費用は請求することって書いてあるけど」
 それもまた冗談で言ったのだ。まさかパリやニューヨークに渡る費用が出るわけがないのだ。そう思ったのだ。するとまた、
「ざっとした見積りを書いていただければ、お金はすぐに出ますよ」
 とまるで下田か熱海までの旅費を支払うような軽い調子で言ったのだ。
 この唐突にして、桁のはずれた話に、しばし呆然となりながら、これはひょっとしたらなにか罠といったものではないかと思った。ぼくを抹殺するための、邪魔者を巧妙に消すための罠に。迷いこんだ霧のなかから抜け出そうとその魅力的な女性と小一時間ほど話しこんでも、狐につままれたような気分から抜け出せなかった。
 結局、たっぷりとした旅費を受け取り、上野駅から特急に乗ったのは三日後だった。予定を一切たてずに気ままに、名もない町や村や温泉をのんびりと訪ねながら、そのレポートを書きついでいこうと思ったのだ。北へ北へとむかう旅。青森を渡って北海道にでる。さらにその地を北へ北へとめざして宗谷岬に立つ。一度そんな旅がしてみたいと憧れていたのだ。レポートを書き上げるという仕事があったが、二週間もそんな気ままな旅行ができるなんて、なんだか天が与えてくれた祝祭日のような気がした。
 しかしそんな感傷的な旅に出たのは宏子のことがあったのだ。藤野と会ってからすっかり手紙が書けなくなったぼくのアパートに、何度か国際電話がかかってきた。しかしそのたびにぼくたちは喧嘩してしまった。その電話はちょうどぼくがはじめて古田事務所を訪ねた日の夜にかかってきたのだ。
「どうして手紙をくれないわけ?」
 苦しそうな声だった。それなのにぼくはさらに冷たく、
「手紙が書けなくなってしまった」
「どうして?」
「君がさっぱりわからなくなったんだ」
「なにか私がおかしなことを書いたわけ」
「そうじゃないさ」
「じゃあどうして?」
 たっぷりと言いたいことがある。しかしそのことを吐き出せば、それはあの男にたいする全面的な敗北のように思えるのだ。ねじれたぼくはこう言ってしまった。
「君の過去がわかったんだよ」
「どんな過去だというわけ」
「君が教えてくれなかった過去だよ」
「あなたが調べたってわけ」
「ある人間がこっそりと教えてくれたんだ。まったく余計なことに」
「そのおせっかい屋さんってだれなの」
「それはいえないさ」
「どうせ私にはあやしい過去がいっぱいあるのよ」
「そうだな。あやしい過去でいっぱいだ」
「どうせ私はちゃんとした女じゃないわ」
「そうじゃないよ」
「もう電話をかけてはいけないことぐらいわかっているのよ」
「電話とか手紙とかもうたくさんなんだ。君に会いたいんだ。いまぼくは君を見失っている。どうしていいかわからないんだ。君とベッドのなかにいるならなんだって話すことができる。しかしこんな遠い距離では、いったいなにをどうやって話せというんだ」
 彼女の悲しみをさらに広げることはわかっていた。ぼくたちの距離がさらに遠くなることもわかっていた。しかしぼくのなかでどろどろと渦巻く怒りと悲しみの爆発は抑えようもなかった。
「君がいけなんいだ。ぼくたちはぐらぐらと揺れていた。ぼくたちを支えるものがなにもなかった。それなのに君はいってしまった。ぼくたちが育てていた芽を君はむしりとったようなものなんだ」
 もっと野卑な言葉で罵ったのだった。そして、もういい、電話なんかくれなくたっていい、手紙もくれなくたっていいんだ、と言ってしまった。電話を切ったあといつものように激しい後悔と悲しみが襲ってくる。

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