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プロローグ

 地下の留置場からエレベーターで階上に上がり、その階の通路の行き止まりにある部屋に連れ込まれる。天井に取り付く蛍光灯の照明が極端に落とされ、灰色の壁面さえも息苦しくなる独房のような小部屋で、早朝から深夜にわたって、連日厳しく聴取されたが、その朝、耕平が連れていかれた部屋は、それまでの部屋とは違っていた。窓があり、その窓はスモークがかかって、外側には格子がはまっていたが、しかしその部屋には外部から光が差し込んでくる。耕平が陽の光を目にするのは二週間ぶりだった。
 その部屋で待ち構えていた二人の取調官も、はじめて目にする男たちだった。連行してきた二人の係員が、耕平の体に廻していた腰縄と手錠を解錠して退室すると、年配の取調官が耕平を椅子に座らせ、奇妙なことを言った。
「しばらくですね。吉田さん」
 耕平は疲労した目で、その男を見つめなおした。
「もう十年も前になりますかね、あなたとこうして向き合うのは。あなたは私のことなどとうに忘れているのだろうが、しかし私はあなたのことをよく覚えている。あなたがまた逮捕されたと知って、ずうっと気になっていたんです」
 そう言われてみてはじめて、記億の底からこの人物がぼんやりと蘇ってきた。この人物は、いまは四十代の後半か、五十代の前半といったところだが、十年という歳月を差し引いてみるとき、たしかにこの男とこうして対面したという印象がある。あのときもまた耕平は、灰色の部屋で向き合っていたのだ。
 古谷孝治と名乗るその捜査官は、耕平の記億をさらに鮮明にさせるためか、あるいはさらに締め上げるためなのか、そのときのことを振り返っていたが、ドアが叩かれて、婦人警察官がトレイにのせたコーヒーを運んできた。
 その部屋には、供述を筆記するもう一つの机があって、その机に向かって座っている男が、ありがとうと言ってトレイを受けとると、白磁のカップをまず耕平の前に置き、それから古谷取調官の前に置いた。これはいったいどういうことなのだ。
「通りの店から取り寄せたコーヒーですよ。喫茶店のコーヒーを飲むのも久しぶりでしょう。まずは朝のコーヒーブレイクといきましょうか」
 と古谷はそう言って、カップを手にしてうまそうにすすると、
「おお、美味い。やっぱり店のコーヒーは美味い。吉田さんも熱いうちにどうぞ」
 彼らがコーヒーを差し出すことは珍しいことではない。この二週間にわたる取調べ中に、何度かコーヒーが彼の前に置かれた。自動販売機が署内に置かれてあるのか、紙コップにいれてあるものだった。取調官は「こいつはおれのおごりだよ。安給料にはこたえるがな」と言った。供述を円滑に引きだすには、ときには飴をふるまうことが、効果的であるという捜査のマニュアル通りの手管というものだった。しかしこの朝、わざわざ外の店からコーヒーを取り寄せて、耕平にすすめる。これは、もはやすべて調書を書き上げ一件落着した、そのことを祝う儀式といったものなのだろうか。
 耕平もそのコーヒーをすすった。身も心もざらついている耕平には、そのコーヒーは美味いともまずいとも感じず、ただ熱い液体が喉に流れこんだだけだった。しかしその白い陶器のカップは、彼にある変化を起こしていった。そのカップを目にしたとき、何かさあっと生命の風といったものが吹き込んできたのだ。枯渇した生命の底から、かすかに官能の水が湧きでてきて、そのカップを描きたいと思った。
 三Bの鉛筆を手にして、カップがつくりだす官能的な曲線をワトソン紙に描いていくのだ。ごわごわした紙の上を、三Bがさらさらと走る擦過音が聞こえるようだ。その微妙な線こそ、スケッチの生命だった。女の肉体を撫でるかのようにその輪郭を描き上げる。そして五Bに代えて影をつけていく。強く、淡く、激しく、優しく。官能の肌が紙のうえにあらわれていく。影が光を生み出す。影を濃くすると光がどんどんあふれていく。
「吉田さん」
 耕平のそんな思いを断ち切るように、古谷捜査官が踏みこんできた。昨日まで耕平の前に座った男たちは、その全身が刑事訴訟法のかたまりのような男たちだった。脅迫と恫喝、そして行き詰まると一転して、コーヒーをふるまい、猫なで声ですり寄ってきては、彼らの描く図式どおりの調書を仕上げていこうとした。しかしこの男は、それまでの取調官と、まったく違うタイプのように見えた。もの腰がやわらかく、親しみにあふれ、時折、吉田さんと敬称をつけて呼ぶ。そのことが耕平をいよいよ困惑させた。
「匿名の手紙が捜査本部にきてましてね。この手紙をまず吉田さんに読んでもらいたんですよ」
 捜査官が差し出すその封書に、耕平が手を出さないので、古谷が自らその封書から便箋を取り出し、それを広げながら言った。
「女性の方からの手紙なんですよ。どうやらあなたをよく知っている人物のようだ。この手紙はずいぶん前に捜査本部に届いていたんですが、うず高く積まれた関係書類の下に眠ったままだった。しかしようやくこの手紙も、眠りから覚めたんですね。あなたを勇気づけるはずですよ。真実はここにあるという手紙です。ちょっと読んでみて下さい」
 差し出されたその便箋を、耕平は、しかたなくといった調子で手にした。そしてその文面に目を落とした。のびのびした美しい文字だった。文章もまたよどみなく流れていく。おそらく何度も書き直して綴られたのであろう。訴えなければならぬ、どうしても伝えねばならぬという思いをこめた手紙だった。便箋五枚に書かれたその手紙を、耕平は一文字一文字をたしかめるように、ゆっくりと読んでいった。しかし彼の心のなかに、それらの文字は少しも入ってこない。彼が最後まで読み終わって感じたのは、そこに書かれた内容ではなく、なぜいまごろになって、このような手紙を彼に読ませるのだろうかという思いだった。
 耕平がその便箋を折りたたんで、古谷捜査官に返すと、古谷はさらに耕平のなかに踏みこんでくるようにたずねた。
「どうでしたか。あなたがわれわれに話したかったことは、このようなことではなかったのですか。あなたが叫びたかったことは、ここに書いてあるようなことではなかったのですか」
「…………………」
「吉田さん。こういうことを話すべきではないのですが、しかし率直に内情といったものを話しますがね。どうも今回の事件は、われわれが当初考えているようなものではなかったということです。この事件はもっと複雑であり、何重もの秘密というか、罠といったものがからみついている。はっきり言えば、われわれは、どうも捜査のボタンをかけ違えてしまったということです。そこでもう一度捜査を振り出しに戻して、すべてを最初からやり直すということになりまして、こうして私があなたの前に座ることになったのですよ」
「…………………」
「つまり、ずいぶん回り道をしてきたが、これでようやく真実というものにたどりつくための、スタートラインに立ったということですね。それは吉田さんにとっても、光の出口に向かって歩いていくということになるのでしてね」
 いったいこの男は何を言っているのだろうか。これはどういうことなのだろうか。耕平は彼らのやり方を知っていた。彼らが一度敷設したレールは、決して変更はしない。それがあきらかに無罪だと判明したとしても、死刑という判決がでた以上、断固として処刑台に立たせる。それが彼らのやり方だった。そのことを耕平はすでに体験してきた。耕平は彼らによって敷設されたその鉄のレールの犠牲者だった。この男が言うように、もはや勾留期間ぎりぎりの土壇場になって、捜査を転換させるなどということが、彼らの世界で起こるわけがないのだ。
 この捜査官は、ひょっとすると、一つの実験を行っているのだろうかと耕平は思った。被告が法廷に立ったとき、一転して供述を翻すことがしばしばある。彼らはそのような事態を想定して、このような悪質な実験をしているのだろうか。耕平がどのようにその供述を翻していくのか、そのことに対応するためのシナリオづくりといったものを。
「さあ、あなたの新しい出発です。あなたをこの囚われ身から解放していく物語を話して下さい」
 耕平はまたカップを見た。彼がいま心を奪われているのは、捜査官が吐き出す蜘蛛の糸のような不可解な問いではなく、その白いカップだった。陶器のつくりだす官能的な肌と、女の肉体のようなやわらかい曲線を描きたいと思った。
「私の物語ですか?」
 彼のなかから湧き出てくる一つの意志をかためるように言った。
「そうです。あなたの物語がいま必要なんです」
「長い長い物語ですよ」
「どんなに長くとも、私はあなたの物語を聞かねばなりません」
「それほどおっしゃるならやってみましょうか」
「ええ、ぜひ話して下さい。時間はたっぷりとあります。何時間かけてもかまいません。あなたの物語をじっくりと聞きたいのです」
 耕平はカップを両手に包みこんだ。なんというやわらかい肌さわりだろう。なんという美しい曲線だろう。この曲線を生み出したのは、きっと神の手ではないのかと思った。そしてその熱い液体をすすると、彼は切り出した。
「刑事さんは、もちろんプラタナスの木をご存知ですね」
「プラタナス?」
「ええ。プラタナスですよ。このプラタナスの学名をご存知ですか」
「いいえ、知りませんねえ」
「日本にはスズカケノキと、モミジハスズカケノキと、アメリカスズカケノキという三種類があるんですが、その容姿からだけでは、なかなかその違いがわからないんですね。しかし子細に観察するとき、やはりその三つの木には明らかに相違があるんです。まずその大きな葉っぱが違っている」
「スズカケノキがですね」
「ええ、スズカケノキです」
 ボールペンを手にして、耕平の供述を筆記しはじめたもう一人の捜査官は、その手を止めて、どうしたものかと怪訝そうな表情を耕平に向けていた。
「スズカケノキとモミジハスズカケノキは、その葉先が五つに分かれて、その割れ目が深いんです。しかしアメリカスズカケノキの葉の裂片は三つで、その葉先の割れ目がないほど浅いんですね」
「ああ、なるほど」
 と古谷取調官は、さも興味があるような相槌を打った。
「秋になりますと、さらに決定的な違いが起こるんです。それはその枝の先から長い棒状の果軸がのびて、そこに球形の果実のような堅果をぶら下げるんですが、スズカケノキとモミジハスズカケノキは、その丸い実を果軸に二個と三個、多い木では五個、六個と並べて着けるんです。しかしアメリカスズカケノキは、たった一個の堅果しか着けないんです」




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