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祇園の鐘の音が聞こえてくる

第15章  玖珠高原の四季   帆足孝治

 城下町の祇園祭り


 山里は秋の訪れが早い。盆が過ぎると、夏のあいだ子供達の喚声であれほど賑わった「つきばし」の水浴場も、いつの間にかすっかり人影がなくなり、森川の水も空と同じに日を追って澄んで来る。気がつくといつのまにかクリの実が割れはじめ、柿の実も色づきはじめている。夜になると辺りの草むらからはうるさいほどに虫の鳴き声が聞こえてくる。中でもキリギリスや鈴虫の鳴き声はほとんど大合唱の喧しさで、その賑やかなことは凄まじいほどである。よく夜になると、どこからともなく家の中に緑色のおおきなキリギリスが飛び込んできて、襖や蚊帳などにとまっていかにも淙しげな声で、スイーツチョン、スイーツチョン、と鳴いたものである。
 
 あのキリギリスは見掛けによらず鋭い口もっており、うっかり指などを出すと噛みつかれることがある。子供のころ「つきばし」に素っ裸で泳ぎに行っていたとき、ちょっとよそ見をしている隙に、近所の上級生が手にもったキリギリスを、ふざけて私のオチンチンに留まらせようとしたことがある。ところが、キリギリスはあろうことか、小さなオチンチンにとまるどころか、これに噛みついてしまったのである。突然の余りの痛さに、私は堪らず大声で泣きだしてしまった。その上級生はびっくりして逃げてしまったが、私は今でもキリギリスの鋭い口を見ると、あの痛さを思い出す。
 
 秋が近づくと、毎夕、遠く平原(ひらばる)部落の方でチキリンコンコン、チキリンコンコンと若者連が練習する祇園の鐘の音が聞こえてくる。昔、この山中の寂しい森藩に封ぜられた久留島一族が、京都にあこがれてこの小さな田舎町にも祇園祭を持ち込んだのではないかと想像されるが、山間の田舎町には不似合いの青山と赤山という二つの立派な山車が出る。どこから呼ばれて来るのか、山車のうえで歌舞伎の子役を演じる、白粉をべったり塗った小さな女の子たちもやってくる。
 
 祇園山車に乗り組んで鐘や太鼓を打ち鳴らすのは決まって旧城下町に住む子供たちばかりで、城下町から外れている上の市部落の子供たちはいつも羨ましげに見上げるばかりだった。
「上げたへ、下げたへ」
空か澄んできて月がだんだん明るさを増し、涼しさが戻ってくると「上げたへ、下げたへ」がやってくる。
 
 九月も半ばを過ぎて旧暦の八月十五日が来ると、「芋名月」と言って、まだ十分には大きくなっていないサツマ芋を掘ってきて、お月様にお供えするのが習わしだった。秋の収穫を感謝する行事で、大きな皿や鉢に蒸したサツマ芋を入れ、これに畔豆(枝豆)や栗も添えてお月様の良く見える場所に置くのである。この地方では昔からお月様にお供えしたこれら芋や豆や栗などは、子供たちがもし見つけられれば、断りなく盗って食べても良いことになっていた。
 
 それでこの日には、子供たちは夜になって月が上がるのを待って、「上げたへ? 下げたへ?」と一軒一軒家人に聞きながら訪ね歩くのである。これはこの地方の方言で「もうお供えは上げましたか? それとも、もう下げましたか?」という意味である。子供たちは二人、三人とグループに別れ、この決まり文句をお経のように唱えながら、豊かそうな家から順に一軒一軒回って、お供えものを次々に失敬していくのである。毎年、いいものを上げるうちは決まっていて、子供たちはまずそういった家から先に狙って行く。
 
 「上げたばい!」という声をきくと、それはすなわち「もう探してもいいよ」ということなので、子供たちはたちまちその家の庭に潜り込み、お供えを探す。この夜だけは、大人たちも子供たちのすることを黙って見逃して、このおおらかさによって神様には五穀豊穣を約束してもらおうという風習である。
 
 ヨーロッパやアメリカにハロウィーンという祭りがあり、その晩は子供たちが家々を訪ね回ってキャンディをもらうという風習があるが、それによく似ているのが面白い。 戦後、食糧事情が悪かったのは田舎も同じで、満月の夜に公然とサツマ芋が盗める「上げたへ、下げたへ」は、村の子供たちの大きな楽しみであった。
 
 しかし、そこは大人たちもさるもので、満月のお供えものはそう簡単に子供にみつかるようなところには置かなかった。お月様から最もよく見える場所で、しかも子供たちに見つかりにくいところを探し出してお供えものを置くのが腕の見せ所で、子供たちもその裏を読んで、お供えものの入った鉢を見つけるのだから、子供と大人の勝負は真剣だ。なかなか見つからないと子供達も業を煮やして、家人に「本当に上げたんへ?」などと失礼にも聞いたりするから、「上げたち言うたろうが! まっと良う探しちぇ見よ!」と、大人も負けてはいない。
 
 お供えを上げる方は、最初に見つけた子供に全部持って行かれてしまっては後から来る子たちの分がなくなってしまうので、そこを加減して出しておく。場合によっては、最初は子供たちに持って行かれてもいいような筋の多いサツマ芋や枝豆だけを供えておき、子供たちが行ってしまったあとでナシやブドウを追加するというようなこともする。
 
 月夜といっても、余所の庭は暗くて勝手が分からない。首尾よくお供えの鉢を見つけても中身までは定かに見えないから手探りで中身を探るのだが、ギュッと握ったのが柔らかい蒸し芋だったりすると、大抵は「ちぇツ、芋だ!」などと言って敬遠する。芋ばかりでは子供も喜べないのである。
 
 そこで子供側も知恵を働かせる。例えばお供えが芋だけしかなかった場合には、それは後でクリやナシやブドウが追加される可能性があるということだから、それを一辺に全部盗ってしまったりはしないで、時間を見計らって後でもう一度戻って来るようにするのである。
 
 家人たちにしてみれば、確かに子供たちはお供えの鉢を見つけた筈なのに、まだ芋が残っているとは、きっと後からくる子供の分を残してあるのだろうと勝手に解釈して、また芋を追加したりするのである。だから再び戻ってきた子供たちは、今度こそクリやナシやブドウを期待しながら鉢に手を伸ばすと、手に触れるのがまたもや芋ばかりだったりするのである。
 
 私の家では、大体いつもお供えはお地蔵様の後ろに上げた。お地蔵様は後ろに川を控えた崖の上にあったから、そこなら東からあがったお月様の光がよく届くし、子供たちには見つかりにくいだろうという祖母やマル子おばさんの考えで決めた場所だが、子供たちを欺くのはそう簡単ではない。どやどやと先を争うように入ってきた子供たちは、いつもほんの数分間の捜索で、秘密の場所のお供えものをいとも簡単に見つけだしてしまい、大きな鉢に入れたまだ緑色の酸っぱいミカンやナシや茹でグリなどを持って行くのだった。
 
 子供たちが去った後は、まん丸い大きな明るい月が踏み荒らされた庭木と散乱した芋の食い滓をあかあかと照らしだしているのだった。


 

 

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