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西郷隆盛  1 内村鑑三

1 一八六八年の日本革命
  
 天の命によって日本が初めて青海原の中から現われたとき、この国に与えられた命令はこれであった。
「日本よ、なんじの門の中にとどまれ。われがなんじを呼び出すまで世界と交わることなかれ」
 それゆえ日本は二千余年もの間、国内に閉じこもっていた。そしてこの間、他国の艦隊が四方の海を騒がせることも、その沿岸を犯すこともなかったのである。
 
 日本がかくも長い間、世界から離れていたことを非難するのは、最も反哲理的な批判である。これはすべての知恵にまさって高い知恵が命じたことであって、日本がその命令どおりひとりを守ったことは、日本のためはもとより、世界のためにも善いことであったし、今なお善いことである。世界の仲間入りをせぬことが、国民にとり不幸とは限らない。あわれみ深い父親なら、まだ十分に成長せぬ子供を世の中に放り出して、いわゆる「文明開化の風」に染ませるようなことはしないであろう。
 
 インドは比較的に世界に接近しやすかったために、たやすくヨーロッパの利己心の餌食となってしまった。インカ帝国や、モンテズマの平和の国は、世界によってどんな目にあわされたか? 世界は日本の鎖国をとがめる。よろしい。門をあけよう。すると、クライヴやコルテスの輩がそこから侵入して来ることは必至だ。それはちょうど、厳重に戸じまりをした家に押し入る強盗のやることと同じではないか?
 
 それゆえ恵み深い摂理は、海と大陸とで日本のまわりを取り囲んで、それを世界の国から隠したのである。定められた時の来る前に、一度ならずこの国への侵入を計った貪欲な輩もあったが、国民はその純粋な自己防衛の本能に従い、決して門を開こうとはしなかった。世界に接触するとともに、たちまちその中に呑み込まれて、独自の性格を失うようなことがないためにも、国民的性格をしっかり形づくっておく必要があったのである。それと同じく、世界の側もまた日本をその一員として迎える前に、改善を要する点が多々あったことを悟らねばならない。(たとえば、スペインの宗教裁判、フランス革命の生き地獄、アングロサクソンの奴隷所有等々の、悪魔的行為や習慣を廃止せねばならなかったのである)。
 
 一八六八年の日本の革命は、世界史に一点を画したものと私は思う。なぜならばこれを機として、はっきりと質の違った二つの文明を代表する二つの民族が、互いを尊敬し合う交際にはいったのであり、その結果、前進的な西洋は無秩序な前進を食い止められ、回顧的な東洋はよどんだ眠りから覚まされたからである。この時以来、西洋と東洋、クリスチャンと異教徒の隔ては消えて、人道と正義の下に全世界は一体となることとなる。日本が目覚めるまでは、世界の一方は他方に背を向けていたが、日本によりまた日本を通して、両者は顔と顔とを合わせるようになったのである。ヨーロッパとアジアとを正しい関係に置くという問題を解決すべき使命は、日本の上に下った。日本は現にそれを解決しつつある。
 
 こうして日本の長い鎖国は終わるのであるが、この大事を成就するにはそれにふさわしい人物と機会とが必要である。その機会は太平洋の両岸にあるシナとカリフォルニアとが、ほとんど同時に開かれた時に到来した。世界の両端にあるこの二つの地方を結ぶには、日本を開くことがどうしても必要であったのだ。しかしこれは外部から見た開国の機会である。内部の事情はどうであったかというと、このとき日本は、長い封建制の最後でまた最大の政権がその統制力を失い、国民は、国内の分割と相互の反目とに飽きて、国内統一の重要さと望ましさとに気付くという、日本史上最初の機会を迎えつつあった。
 
 人は機会を作りまたそれを利用する。アメリカ合衆国の提督マシュー・カルブレイス・ペリは世界がかつて目撃した、最も偉大な人道の恩人の一人であったと私は考える。彼の日記を読むと、彼は日本の海岸を砲撃するのに大砲をもってせず讃美歌をもってしたという(米提督ペリー著『アメリカ艦隊のシナ海域および日本への遠征記』参照)。彼の使命は微妙であった。国としての尊厳を傷つけず、しかもその素朴なひとりよがりをおさえて、日本を鎖国の夢から覚まさねばならないのである。これは真の伝道者の仕事であった。そして彼がこれをやりとげることができたというのも、世界を統べたもう神への熱い祈りが聞きいれられて、恵み深い神の御手がさし伸べられたからである。
 
 その国を世界に向けて開くにあたり、クリスチャン提督をつかわされた国は幸いなるかな。そしてクリスチャン提督が、外から戸をたたいたのに対し、内から答えたのは勇敢にして高潔な敬天愛人の一将軍西郷隆盛であった。この二人は生涯ついに相まみえることかなかったし、またその一方が他方をほめたたえたという話も聞かない。だがその外見こそ著しく異なったが、両者の内にひそむ精神は同一のものであったことを、われわれ両人を研究する者ははっきりと知る。互いにそれと知ることなしに、二人は協力して働いた。一方が着手した事を他方が完成したのである。このようにして世界の霊は、運命というおのが衣を織って行く。愚かな日には映らないが、思慮深い歴史家はこれを見て驚嘆せずにはいられない。
 
 こうしたわけで、一八六八年の日本の革命は、健全で永久的なすべての革命の例に洩れず、公正な動機と神の作りたもうた必然的な原因とから生じたものであった。貪欲に対して頑強に門を閉じていた国が、正義と平等とに向かって自由に戸を開いたのである。魂の奥底の深みからわく声に根ざす、たぐいまれな自己犠牲の精神が、世界に向かってその戸を開いたのである。それゆえこの日本国で自己の勢力を張ろうとする外来者は、天意にそむくものであり、またこの国の天職を誤解して、国土をこの世の財神の踏み荒らすにまかせる者も、同じく天に対して罪を得るのである。
 
 
2 誕生、教育、霊感
  
 大西郷は文政十年(一八二七年)、鹿児島の町で生まれた。彼は普通この名で呼ばれるが、それには二つの理由がある。その一つは彼の偉大さのゆえであり、他の一つは彼の弟との区別をはっきりさせるためである。彼が初めてこの世の光を仰いだ地点には、今は記念の石碑が建てられており、そこからほど遠がらぬ所に彼より二歳下の高名な共働者、大久保の生地を記念する標識が立っている。
 
 西郷家は特に誇るべき名家ではなく、薩摩の大藩の中では中以下の武士であった、彼は男四人、女二人の六人兄弟の長子に生まれ、少しも目立たぬ少年として生い育った。のろく、無口な彼は仲間の間では愚かものとして通ったほどである。彼の魂が初めて義務の意識に目覚めたのは、遠縁の者が彼の目の前で切腹するのを見た時であった。その武士はまさに腹に短刀を突き立てようとする刹那、この少年に向かい武士は主君と御国とのために命をささげねばならぬことを教えた。少年は泣いた。そしてこの時の印象は、生涯、彼の心から離れなかったのである。
 
 長ずるに従い、彼は大きな目と広い肩とが特徴的な肥った大男となった。大きな目という意味の「うど」という、あだ名が付けられたほどである。筋力すぐれた彼は、相撲を大いに好み、またひまさえあれば山歩きを楽しんだ。この山歩きは彼の生涯の最後の時まで続く楽しみであった。彼は若くして王陽明の著書に心を引かれた。数あるシナの哲学者の中でも王陽明は良心に関する高遠な学説と、やさしい中にもきびしい天の法則を説いた点で同じくアジアに起こった。かの尊厳きわまりない信仰であるキリスト教に最も近づいた者である。
 
 その後の西郷の書いたものには、王陽明の影響がはっきりと現われている。そこに流れるキリスト的情操を見て、われわれはそれが王陽明の偉大で簡潔な思想から生じたものであり、また王陽明の思想を自分の性格となるまでに消化して、それを実行に移した西郷の偉大さを示すものであることを知るのである。彼はまた仏教のストイック的形態ともいうべき禅学を少し学んだ。彼が後に友人に語ったところによれば、これは「自分の鋭すぎる感受性を殺す」のが目的であったという。いわゆるヨーロッパ的教養は全く身につけなかった。日本人の中で最も幅ひろくかつ最も進歩的であった酉郷の教養は純東洋風のものであった。
 
 では彼の生涯を支配した二つの思想、統一帝国と東アジアの征服というこの二つの思想はどこから来たのであろうか? 王陽明の哲学を論理的に追求すれば、このような思想に達することは考えられる。王陽明学は徳川幕府が自己保全のために奨励した朱子学とは異なり、進歩的、前進的で、将来性に満ちたものである。それがキリスト教に似ていることが一度ならず指摘され、それやこれやの理由からわが国では事実上禁止同様になっていた。「キリスト教は陽明学に似ている。日本帝国崩壊の因をなすものはこれだろう」と維新史に名高い長州の戦略家、高杉晋作は長畸で初めて聖書を調べた時に叫んだ。キリスト教に似たあるものが、日本の再建にあずかって力あったということは、日本の維新史上の驚くべき事実である。
 
 西郷がその生涯をかけての大計画を立てるについては、その立場や環境が大きな力となったことは確かだ。彼の生地薩摩は日本の南西端に位置していたので、当時この方面からのみ流入したヨーロッパの影響を、最も受けやすかったのである。薩摩が長崎に近かったということもこの意味で大きな利点であった、また中央政府の正式許可が下りるずっと以前から、薩摩藩所属の島々では、外国貿易が実際におこなわれていたということである。
 
 しかし、外からのあらゆる影響の中でも西郷に最も大きな力を及ぼしたものは、当時の二人の人物であった。その一人は彼の封建君主たる薩摩の島津斉彬であり、他の一人は水戸藩の藤田東湖である。島津公が非凡な人物であったことは疑う余地がない。冷静で、かつ先見の明のあった彼は、避けがたい変革の日本国に来たりつつあることをつとに見抜き、間近に迫った危機に備えて、自分の藩にさまざまの改革を施した。自分の住む鹿児島の町を要塞化し、一八六三年にはイギリスの艦隊に大損害を与えてこれを撃退した。また彼は強い排外思想の持ち主であったにもかかわらず、フランス人が薩摩の沿岸に来た時には、臣下の強い抗議をおさえてこれを丁重に迎えた。おだやかな紳士ながら必要とあらば、戦い辞せぬ人である島津公を西郷は心から慕い、後年になってもこの偉大で先見の明のある主君に対する忠誠の心は変わらなかった。日本の未来に関し互いに非常に似かよった見解をいだいていたこの二人は親密な友人の間柄であったのだ。
 
 しかし、最高にして最大の霊感を西郷に与えたのは、大和魂の凝集といわれた当時の大人物、水戸の藤田東湖である。彼は日本が霊化して成った人であった。容姿きびしく、相貌するどく、その容相は内に赤誠を秘めた魂を抱いて火を吐く富士を思わせるものがあった。正義を熱愛し、西洋の野蛮を激しく憎む彼の周囲には、意気さかんな青年たちが集まっていた。遠い薩摩で彼の名声を伝え聞いた西郷は、主君に従って江戸へ下った機会をとらえて東湖をおとずれ、親しくその風貌に接したのである。東湖と西郷、世にこれほど相似た魂の触れ合ったことはまたとないであろう。「わが胸中の大志を後世にまで伝える者は、この青年をおいて他にない」と師は弟子について語り、「天が下に恐るべき者はただ一人のみ。それこそ東湖先生である」と弟子は師について語った。
 
 統一された帝国、日本をヨーロッパと同じ水準に立たせるための大陸への領土拡大、及びその目的に向かって国民を導く実行手段等、西郷の心の内にあった問題は東湖から新しく受けるに至った影響により、最後的な結論に達したように見える。今や彼は、生命をささげるに足る明確な理想を得た。これより後の彼は、このようにして前途に掲げられた目標に向かい、「一路勇進」するのみである。明治維新は、東湖の熱烈な心に宿る思想から萌芽したものではあるが、これを、現実の革命として共体化するためには、東湖ほど極端でなく、東湖よりも平静な性格の、西郷のような人物がその志を引き継がねばならなかった。東湖は一八五五年の地震のため五十歳で死に、彼の心に初めて宿った理想の実現はそのすぐれた弟子の手に委ねられることとなった。
 
 西郷は時に数日にわたり、昼も夜も山を歩きまわることがあった。こうした時に栄光に満ちた天の声が、直接に彼に臨んだのではあるまいか? 杉木立の静寂の中で、静かな細い声が次のように彼にささやいたのではあるまいか? なんじは使命を帯びてこの国に送られた者である、その使命の達戊によって日本と世界とは重大な影響を受けるであろうと。この声を聞かなかったとすると、彼がなぜあれほどたびたび天について書き、また語ったのであるかがわからない。西郷は、のろい、無口な、子供じみた人で自分の心を人に語ることもなく孤独を好んだようであるが、しかしその心の中では彼自身よりも、また全宇宙よりもはるかに偉大な「ある者」とひそかな会話をかわしていたのであるとわれわれは信ずる。現代のパリサイ人に異教徒とそしられようが、彼の霊魂の来世におけるゆくえを論議されようが、彼の知ったことではない
 
 天の道に従う者は全世界が彼をそしるとも卑下せず、また全世界が彼をほめたたえようとも満足しない。天を相手とし、人を相手とするな。天のためにすべての事をなせ。人をとがめることなく、ただおのれの誠の足りぬことを恐れよ。道は宇宙に通じ、また自然である。ゆえに天を恐れ、これに仕えようと志す者のみ、道を行なうことができる……天はすべての人類を平等に愛するから、われわれもおのれを愛する愛をもって人を愛さなければならない。──我を愛する心をもって人を愛すべし。
 
 西郷はこれらの言葉のほかにも、これに類する言葉をたくさんに語っているが、すべてこれらは直接に天から聞いたものであると私は信ずる。
 
  
3 維新における彼の役割
 
  明治維新における西郷の役割りを残らず書くことは、維新史全体を書くにひとしい。一八六八年の革命は、ある意味では西郷の革命だったと言えると私は思う。もちろん一人の力で国の建て直しができるものではないし、またわれわれは新しい日本を西郷の日本と呼ぼうともしないであろう。それはこの大業に参加した他の偉人たちに対して、大きな不公平を行なうことであるからだ。事実、彼の共働者の中に彼よりすぐれた者は少なくなかった。経済再編成の問題について西郷は無能力に近かったし、国内行政の細部について木戸や大久保のような適任者ではなく、また維新後の国内安定の手腕においては三条や岩倉の方がはるかに西郷よりすぐれていた。これらすべての人がいなかったとしたら今日の新日本帝国はあり得なかったであろう。
 
 しかしもしそこに西郷がいなかったとしたら、革命がはたして行なわれたであろうかをわれわれは疑うものである。木戸や三条がいなくても維新はとにかく実現の段階にまではこぎつけたであろう。維新を成就させるために必要欠くべからざるものは、革新の運動そのものをひき起こす原動力、その運動に形を与えそむくべからざる天の法則が命ずる方向にその運動を推し進めて行く精神である。ひとたび運動が起こり、その進むべき方向に向かえばあとに残るのは比較的やさしい仕事、その多くは雑役ともいうべきものであって、西郷のような大人物より一段劣った人々にもできる事なのである。そしてわれわれが西郷の名と新日本帝国とをこれほど密接に結びつけているのも、彼こそはその大きな心の中に発生した力を自ら発展させ方向づけた人であって、この時代の出来事はみなその力に起因していと信じるからである、
 
 さて徳川将軍の都江戸で東湖とのきわめて重要な会見を終え、故郷の薩摩に帰った西郷は当時西日本で勢力を増しつつあった反徳川党に投じた。勤王主義を奉ずる仏教の名僧月照と彼との友愛ものがたりは、彼の生涯に一転機を画したものであるが、この事によって、彼の掲げる目標は公然と知れ渡った。その事件というのはこうである──西郷はかねてから亡命中の月照を隠まうことを任せられていたのであるが、幕府方の追及がきびしいため隠し切ることができず、ついに客僧と共に死のうと決心して月照の同意を得た。
 
 月明の一夜、この二人の愛国者は海上に船を浮かべ、心ゆくまで秋景色を楽しんでから手に手を取って水中に投じた。物音に目を覚ました附き添いの人々が直ちに捜索を開始し二人の体を引き上げたが西郷は蘇生したにもかかわらず、月照はついにむなしかったのである。新帝国の運命をその双肩に担う身でありながら、西郷は友に対する愛と誠意とを貫くために生命を捨てることを惜しまなかったのである。これが彼の弱点であった。かつて禅を学ぶことによって殺そうと努めたほどのあまりに強すぎる感受性の弱点である。これがついには彼に最後の破滅をもたらすのであるが、そのことは後にわかるであろう。
 
 この事件および反徳川運動に加担した罪を問われて、西郷は再度南海の島に流された。しかし一八六三年、イギリス艦隊による鹿児島砲撃事件が起こると彼は直ちに帰国して、以前よりは用心深く倒幕の運動を進めた。長州藩と徳川幕府との間が平和に解決したのは、彼の進言によるものである。しかし一年後に幕府が長州に対して不当の要求のかずかずを突きつけ、長州が断岡としてこれを拒むとここにいわゆる長州征伐が始まった。このとき薩摩藩は西郷の考えに従い、幕府から割り当てられた征討軍の送り出しを断わったが、この薩摩の方策が機となって薩長間に有名な連合が成立し、維新史に重大な影響を与えることとなるのである。
 
 ところで、長州征伐の完全な失敗と対外国政策に明らかに示された無能ぶりから、幕府は予想以上に早く崩壊へと向かう。滅亡寸前の幕府追討の勅命が薩長連合軍に対して下ったその同じ日に、徳川将軍は三百年来保持して来た政権を自ら放棄しここに正当な君主が表面は何の妨害もなく、再び人権を握るに至った(一八六七年十一月十四日)。それに続いて、薩長連合軍と同盟軍とによる京都市街の占領、十二月九日の大詔渙発(かんばつ)、徳川将軍の二条城引き渡し等がすみやかに行なわれた。
 
 しかるに翌一八六八年一月三日、京都市外伏見において新旧政府軍の衝突があり、官軍はこの戦いに完勝したので賊軍(徳川の軍はこれ以後この名で呼ばれることとなる)は東に退却した。二手に分かれた大軍が賊軍を迫って東に向かったが、このとき西郷は東海道を進む軍の指揮を取り、何らの抵抗にも会うことなく四月四日江戸城の引き渡しを受けた。明治維新の残した影響の著しいことを思えばこれほど安価に購われた革命もないであろう。
 
 そして、革命がこのように安価に購われたのも、その効果が実にすばらしかったのも、ひとえに西郷の力によるのである。明治維新に特徴的なこの二つの相反した事実こそ西郷の真の偉大さを雄弁にものがたるものにほかならない。旧制度に与えた影響の深刻さにおいて、十二月九日の大詔渙発に比すべきものは、一七九〇年七月十四日の、パリにおける革命宜言あるのみである。これよりさき、伏見で最初の戦いが始まって以来、西郷の沈着さは全官軍の支柱であった。戦場から一人の伝令が走り帰って、「援軍を頼みます。わが軍はわずか一連隊なのに、敵の砲火は非常なものです」と訴えたとき、西郷将軍は「よろしい。一人残らず戦場に倒れたとき援軍を送ろう」と答えたという。そして伝令は戦場に引き返し、敵は撃退されたのである。
 
 このような勇将に率いられた軍隊が負けるはずはない。東海道軍は進んで品川に入り、ここで西郷は旧友の勝と会見した。勝は徳川方でただ一人旧制度の崩壊の避けがたいことを見抜き、国家を生かすためには主家の権威を犠牲に供することもやむを得ないと考えた人である。官軍の将である西郷は旧政府の使者である勝を引見して、「今となってはあなたも途方にくれておられるでしょう」と言った。「あなたが私の立場に立ってくだされば、私の苦境をわかってくださるでしょう」と勝は答えた。西郷は大声をあげて笑った。彼は友人の苦境に立つのを見て楽しんだのである!
 
 だがこの時を境として彼の心はひとすじに平和を求めるようになった。京都に引き返すと、あらゆる反対を押し切って、徳川将軍とその家臣らとに恩赦の下るべきことを主張し、籠城軍にきわめて有利な条件を携えて、江戸に帰ったのである。伝えるところによると講和を最後的に決意する数日前、西郷は勝に誘われて愛宕山に登ったが、眼下にひろがる広大な市街を見て西郷の心は深く動かされた。彼は友人を顧みて「もし、われわれが戦うようなことがあれば、そのために苦しまねばならぬのは、これらの罪なき人々です」と語ってしばし無言であったという。
 
 このとき彼の感受性が揺り動かされて、それらの罪なき人々のために平和を守らねばならぬと決意したのであった。「強者は弱者に妨げられぬとき最も強い」という。西郷の強さのかげには婦人のようなあわれみの心が隠されていたのである。こうして江戸の町は戦火をまぬかれ、平和は成り、徳川将軍は武器を捨ててその居城たる江戸城を天皇に明け渡した。
 
 天皇がその正当の位置に復帰し、国内が正当の君主の下に統一され、西郷の意志のおもむく方向に政府が動き出すと彼は直ちに故郷薩摩へ引き揚げて、数年の間兵士の訓練に没頭した。彼は他の人々のように戦争はすでに終わったとは考えなかった。これから社会の大改革を始めるにあたっては武力が要る、彼のもう一つの目的(大陸の経略)のためにも同じく武力が必要だ、帝国の統一はわずかに第一歩にすぎないというのが西郷の考えであった。
 
  彼はやがて首都へ呼び出され、維新に功のあった人々と共に参議(天皇の相談役)の重職に就いた。しかしそれらの人たちがやがて彼に同調し得ない時が来た。これまでは共通の目的があったればこそ互いに協力して来たのである。しかし今、彼らは現状にとどまろうとするに反して、西郷はなおも前進しようとする。両者の間の協調はついに破れた。



 

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