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奇跡のような演劇     別役実


奇跡ように美しく、数学のように硬質な舞台空間の成立の秘密 別役実


 
「ニューハンプシャー州のマサチューセッツから境界線を越えたところ。北緯四十二度四十分、西経七十度三十七分」言うまでもなく、作者ソーントン・ワイルダーが『わが町』とするグローヴァーズ・コーナーズの位置である。しかし、それにしてはこの限定の仕方が厳密すぎるような気がしないだろうか。
 
  しかも作者は、「時は一九〇一年、五月七日、ようやく夜が明けて、停車場ではショーティー・ホーキンズか、五時四十五分のボストン行きに旗を振る仕度をしている」と この町での出来事が開始される時間まで、必要以上と思われるほど厳密に、指定している。これはどういうわけであろうか。
 実はこの点に、この簡素で、にもかかわらず奇跡のように美しく、数学のように硬質な舞台空間の成立の秘密が、隠されているのだと私は考える。
 
 一読して明らかなように、この作品は、「アメリカのどこにでもあるような、或る小さな町における、平凡な人々の平凡な生活を描いたもの」と、説明出来るであろう。しかしこの説明だけではこの作品が、これまでこれほど多くの人々によって愛され、時代を越えて、国境を越えてくり返し上演されてきた名作であることは、解読出来ないのである。そのほかの何か、があるのであり、それを私は、この「場所と時間」の、極端な特定性であると考えるのである。
 
 つまり作者は、この舞台上で展開されるべき出来事を、どこにでもあるような町における、どこにでもいるような人々による、どこででも起るような出来事、とはしていないのだ。そのような町における、そのような人々による、そのような出来事ではあるものの、実は、この特定の町における、特定の人々による、特定の出来事なのだよ、と言っているのである。同じような言い方のように見えても、それとこれとは大いに違う。何故なら我々は、たとえばこの舞台に登場するエミリーの行いを、「或る少女の行い」ではなく、「ほかならぬエミリーその人の行い」として、追体験することになるからである。
 
 そして「或る少攵」はどこにでもいるが、ほかならぬエミリーその人」はここ、すなわち「ニューハンプシャー州のマサチューセッツから境界線を越えたところ。北緯四十二度四十分、西経七十度三十七分」と特定された場所にしかいないから、我々の追体験もまた、その特殊な環境に入りこまざるを得なくなる。しかし、ではその追体験は特殊なものであり、いわゆる「劇場を出たとたんに、さっぱり忘れ去られる」種類のものかというと、そうではない。
 
「ほかならぬエミリーその人」の舞台上の行いが、言ってみれば「朝起きて顔を洗う」  という類いの、誰でもがどこでもやるようなものであるから、演劇的な特殊な体験を追体験させられているように見えて、その実、自分自身の日常を、かえり見ていることに気付くのである。つまり、劇場を出てふと我に返ったら、ソーントン・ワイルダーの『わが町』ではなく、自分自身の町を体験させられていたことに思い至る、というわけだ。
 
 ここには、「特殊化すればするほど普遍化する」という法則が働いている。奇妙な話だが、世界の片隅で発生した小さな出来事は、「どこにでもあるよ」ということでどこにでもあることを伝えられるのではなく、「ここにしかないよ」ということで、逆にどこにでもあることを伝えられるのだ、ということである。
 
 特に今日、「グローバリズム」ということが盛んに言われ、それぞれの地域に固有のさまざまな文物が、地域を越え、国境を越えて各方面に流出しはじめ、そのことを奨励しはじめつつある時、この智恵は見直されてしかるべきことのように思える。「グローバリズム」は今、それぞれの地域の独自性を、拡散して消滅させるだけでしかないからである。もしかしたら数年後には、ソーントン・ワイルダーが、そのデリケートな手付きで囲いこんだ、『わが町』であるグローヅアーズ・コーナーズだけが残された、ということにもなりかねない。
 
 そしてこの名作には、もうひとつの仕掛けがある。戯曲の冒頭に、「幕なし、装置なし」とあるのがそれである。つまり、続くト書きにあるように、「入場する観客には、薄明かりの空虚な舞台が目にはいる」だけなのである。
 もちろんこの点は、私が前述した「場所と時間」の特定性ということから考えれば、一瞬裏切られたような気がするであろう。観客を、この「場所と時間」における特殊な環境に導入するためには、その「場所と時間」にふさわしいリアルな装置が必要と思われるからである。しかし、演劇的には必ずしもそうではない。
 
 素朴に考えてみればよくわかる。もしここに、ニューハンプシャー州の一画の、一九〇一年の小さな町にふさわしい情景が装置されていれば、ひとまず我々はそれを対象化し、第三者の立場でそれに対応しようとするだろう。そこに入りこむためには、別の手立てが必要になってくるのである。
 
 しかし「何もない」ということになれば、観客と舞台は、屈折することなく連続する。  しかも、劇中の人物とは思えない「舞台監督」なるものが登場し、道具類など並べてみ  せて、むしろ劇中への入りこみを防ぐかのようにしながら、町の説明などをはじめる。
 当然、観客は第三者として『わが町』のことを知るのであるが、それを話す舞台監督とは第二者の関係になっており、劇中の登場人物と舞台監督との関係から、いつの間にか第三者としてではなくその町の対人関係に入りこんでしまっている、というわけである。
 
 演劇は、搆造外体験と構造内体験の融合したものであると言われている。一軒の家をやや離れて見て、「ははあ、あんな家か」と確かめるのが構造外体験であり、玄関から中に入って間取りなどを見て歩き、「なるほどこうなっているのか」と確かめるのが搆造内体験であるが、それとこれとが、ここでは折目正しく約束されているのに気付くであろう。
 
 道具類は、場面ごとに必要最小限のものが用意され、場面が変ると片付けられることになっているのであるが、このくり返しの中でも、常に「薄明かりの空虚な舞台」がそれとなく立ち現れ、構造外体験と構造内体験が、途切れることなく約束されているのであり、実はこれが快いのである。
 
 最後にこの舞台監督は、「星が出ている──大空を縦横に昔ながらの旅を続けてね。学者はまだ結論を出していないが、あそこには生き物はいないと考えているようですな。ただの石か──火の玉だって」という言葉で、この情景を虚空にまで広げてみせる。そしてそれが感動的なのは、グローヅアーズ・コーナーズという『わが町』の構造内体験と、それを大きく全体的に捉える構造外体験が、極めて折目正しく行われたからにほかならない。構造外体験は、最終的に「虚空体験」に結びつくものなのであり、前述した特殊性も、それを広大な虚空のもとに据えてみた時、普遍化されるのである。
 
 あれこれ理屈を述べたが、言うまでもなくこの作品は、素朴に読み、素朴に上演して充分に感動的である。ただ「どうしてこのどこにでもある話が、こんなに感動的なのだろう」と考えはしめた時、この名作のさり気ないが、一筋縄では捉えようのない仕掛けが見えてくる、というわけである。最近、各地の地域おこし」の一つとして、この 『わが町』を、それぞれの地域に移し変えてL演する場合が多いが、それは単に「移し変えやすい」というだけのことではない。「地域の独自性に依拠することによって、世界に対応することが出来るという、この作品の本来の思想と智恵に、促されるのであろう。



 
 
 

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