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そこに言葉の音楽が生まれる

 車は高速を用賀のインターで降りる。瀬田の交差点に出るとなぜかいつも赤信号である。左側の窓がとんとんと叩かれた。ファイルから目を上げてその窓を見やると、ヘルメットをかぶった男が車内を伺っている強い視線に出会った。顔面をヘルメットで隠しているから見えるのはその男の目だけだった。男の目は車内の人物が目指す標的だと確認したからか、皮手袋をはめた親指を立て、人差し指を突きだして銃口をつくると、ぱあんと弾丸が発射したようにその手をはじき上げた。それからにやりと笑ったような目を寺田に残して、爆音を派手にけたてて前方に走り去っていった。

 瀬田の交差点を右折して数百メートルほど走り、焼却場の信号を左折して森閑とした世田谷公園の脇を通って、高級公務員の官舎となっている建物が立っている一画にでる。その一画を囲む塀が築かれていて、入口も鉄柵で塞がれている。その鉄柵の前にはガードマンが張り付いていて、ガードマンが車中の人物を確認してからその鉄柵が開く。彼の車が停車すると、そのガードマンよりさきに五、六人の男たちが飛び出してきて、左右の窓から中をのぞきこんだ。新聞記者たちだった。敷地の内部に入れないから、夜討ち朝駆けのマスコミの取材者たちは、ここで官僚たちのコメントをとるのだ。

 車中の人物が目当ての人物でないとわかると、彼らはさあっと車から散っていた。その敷地には建物が五棟立ち並んでいる。局長級の官僚たちの官舎だった。洋治の部屋は四号棟の三階だった。部屋の中はガランとしている。彼は独身だった。一度も妻帯したことはない。それに家具を置かない主義だから、四LDKの部屋はよけいにガランとしている。

 一つの部屋にフィットネス・バイクが置いてある。スポーツクラブに設置されている高級マシンである。速度、走行距離、走行時間、さらには心拍数から消費カロリーまで計測してくれる。洋治は帰宅すると、まずスーツを脱ぎ捨てそのマシンにまたがり、テレビのニュース番組をみながら三、四十分ほど汗が噴き出るまでペダルを漕ぐ。その日負荷したストレスをその汗とともに流し去るのだ。それからバスに入り、たっぷりと浴槽に身を沈めてさらにリラックスさせる。それが彼の一日の締め方だった。

 バスから上がると、冷蔵庫からパックを取り出し牛乳をグラスに注ぐ。彼は夕食を取らない。朝、出勤前に朝食をとる。そして職員食堂が空になる二時過ぎにその食堂で昼食をとる。彼の日常はストイックだった。さまざまな仕事が飛び込み、不規則に不規則にと流れていく官僚の生活を、彼の鉄の意志がストイックに引き締めている。時間、食事、家具、生活、彼の全生活がストイックだった。その鉄の意志は監獄で鍛えられたものだった。監獄での鉄の規律の生活が、彼のストイックな生活をつくりだしていた。

 寝室に入ると、ベッドの脇においてあるロッキングチェアにすわり、サイドテーブルに置いてある本を手にする。このところ彼が手にするのは、メルビルの「白鯨」だった。分厚い原書をぱらぱらとページを繰り、その長大なストーリーもあと十数ページで閉じられるあたりのページを開いた。エイハブはモビィデックと遭遇する。その最後の戦いに突入していく場面だった。
 
“Oh, Starbuck! It is a mild, and a mild looking sky. On such a day—very much such a sweetness as this—I struck my first whale—a boy-harpooneer of eighteen! Forty—forty—forty years ago!—ago! Forty years of continual whaling! forty years of privation, and peril, and stormtime! forty years on the pitiless sea! for forty years has Ahab forsaken the peaceful land, for forty years to make war on the horrors of the deep! Aye and yes, Starbuck, out of those forty years I have not spent three ashore. When I think of this life I have led; the desolation of solitude it has been; the masoned, walled-town of a Captain’s exclusiveness, which country admits but small entrance to any sympathy from the green country without—oh, weariness! Heaviness! Guinea-coast slavery of solitary command!
 
 サイドテーブルには他に四冊の本がのっている。「白鯨」の翻訳本である。この長大な古典は廃れることなく、時代とともに成長していくからなのか、いまでも新世代の訳者によって翻訳されている。しかし寺田がそのテーブルに載せてある本は、ページが黄濁していて古本屋でも手に入らないような代物だった。言葉に厳しい彼は、どうも最近訳されていく本は気に入らない。即物的に訳されていて日本語に艶がないのだ。翻訳とはいかに魔術的な技を駆使して日本語に編み上げていくかにあるに、その魔術的な技を手にしていない人間たちが訳しているからだろう。

 翻訳者たちは高度な技を駆使して、日本語という布を織り上げていく。同じ原文が訳されているのに、翻訳者によってまったく違った日本語が織り上げられている。それぞれの翻訳者が磨きに磨き上げて紡いだ日本語が、全く別の本となって登場してくるのだ。これらの本を手に取り読み比べていくとき、日本語とはなんと豊かな言葉なのだろうと感嘆する。日本語に新しい生命を吹き込み、新しい色彩で、新しい文体で、新しいヴィジョンで、日本語を限りなく豊かにしてきたのは翻訳者たちだった。
 
「おお、スターバック。何というおだやかな、おだやかな風だ。何とおだやかに見える空だ。ちょうどこんな日に──まったくこんなにうるわしい日に──わしは最初の鯨を撃ったのだ──十八歳の少年銛手だったのだ──四十……四十……四十年の昔だった。──昔だった! 四十年間、鯨を追いつづけた。四十年の困苦欠乏、危難、そして生の嵐。四十年間、冷酷の海にいた。四十年間、エイハブは海洋の恐怖に戦いをいどんで、四十年間、平和な地上をすてた。真実のところ、スターバックよ、わしはその四十年のうち、三年とは陸にいなかった。このわしの生涯を思えば、荒涼たる孤独というほかはない。船長の孤立とは、石できずかれた城塞にかこまれた城市のようなもんだ。外の青々とした野からの同情は、ほとんど入りこむ隙もないのだ。このことをすべて思えば──侘しさ、重苦しさ、ギニア海岸からの奴隷さながらの孤独な指揮の日々」(阿部知二訳)
 
「おい、スターバック! 何と優(やさ)しゅう、穏やかな風、また優しゅう穏やかな空の色であろう。このような日に──このような麗しさの日に、おれは初めて鯨を撃った──十八歳の若い銛打ちであった! 四十──四十──四十年の昔じゃ! ああ、昔じゃ! 四十年つづけて鯨捕り! 四十年の欠乏生活、危難、そして嵐! 四十年を情容赦もない海の上で送ってきた! 四十年のあいだエイハブは平和な陸地を見棄てて、四十年のあいだ荒海の無数の脅威と戦ってきた! そうじゃ、嘘はない、スターバック、その四十年間に、おれは三年と陸では暮さぬ。このおれの送った生涯を思えば、まことに荒涼たる孤独の一生であった。ひとを寄せつけぬ船長室の城郭に立て籠って、外の緑の国からのどんな同情をも入らせなんだ──ああ、あの疲労! あの重荷! ギネア海岸の奴隷のような孤独の指揮者!」(田中西二郎訳)
 
「スターバック! 何というおだやかな風だろう。おだやかだ。それになんとおだやかな空だろう。こんな日だった、まさにこんなさわやかな日だった。わたしが初めて鯨を屠ったのはな──十八歳の少年銛打ちだった。以来四十年。四十年だ、あれから四十年が経ったのだ。四十年のあいだ休まず鯨を追って来た。窮乏と危険と嵐のなかに四十年を生きてきたのだ。非情の海に四十年を過ごしたのだ。四十年のあいだエイハブは陸の平和を顧みず、四十年のあいだエイハブは海の恐怖に挑んできたのだ! 然り、スターバックよ、そうなのだ、この四十年のうち、私が陸の上にいたのは三年も満たぬ。自分が過ごしてきたこの人生を思うと、我が人生は孤独と寂寥のそれであったというほかはない。船長なるものはな、一分の隙なく積み上げられた石壁が囲む街のなかに、ひとり隔絶され閉塞されておる人と同じなのだ。外に緑なす田園があろうとも、そこから寄せられる同情はなかに入る隙を見出すことができぬ──ああ、ただ独りで船の指揮を執るものの疲れと苦しみ! それはギニア海岸で買われて行く奴隷の状態と変わらぬ」(千石英世訳)
 
「おお、スターバック! なんというおだやかな風だ、なんというおだやかな空だ。そんな日だった──これそっくりの、おだやかな日だった──わしが最初の鯨をしとめたのは──わしがまだ一八の若き銛打ちの時だった! 四○年──四○年──四○年前のことだ! ──そんなむかしのことだった! それから間断なく鯨を追う四○年! 困窮と、危険と、嵐の四○年! 非常の海での四○年! その四○年のあいだ、エイハブは平和な陸地を見すてておったのだ! その四○年のあいだ、海の恐怖とたたかってきたのだ! そうだ、そうなのだ、スターバックよ、わしは、そのうちの三年とは陸ですごさなかった。思えば、わしがおくってきたこの生涯は、まことに荒寥として寂莫たるものであった。石を積み、壁をめぐらせた船長の孤独は、城壁の外なる緑の田園の同情を受け入れる余地などあろうはずもない──ああ、疲労と困憊の極致!ギニア海岸の奴隷さながらの孤独な指導者の境遇よ!」(八木敏雄訳)
 
 洋治は中学生のときからこのような読み方をしてきた。そしていまでも就寝前にこのひと時を持っている。それは彼にとって欠かすことのできない乾いた魂を潤す時間だった。原文と日本語訳を交互に読むとき不思議な現象がおきていく。そこに言葉の音楽が生まれるのだ。あるときはチェロソナタになり、あるときはバイオリンソナタになり、あるときはバイオリンとヴイオラの弦楽二重奏曲になって聞こえてくる。さらにその翻訳が三つ四つ五つとあると、そこで奏でられる言葉の音楽は、あるときはピアノ三重奏曲となり、あるときは弦楽四重奏曲となり、あるときはクラリネットが加わるクラリネット六重奏曲になって豊穣な時間のなかに誘いこんでいく。


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