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実朝と公暁  三の章



実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。  ──小林秀雄

 源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。
 しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。
 それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
 したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。


三の章

 早朝からはじまる閣議は一刻、長引いても二刻ほどで終わる。そのあと北条義時はぐるりと鎌倉の町を巡回することにしていた。侍所と政所の長官として変貌していく鎌倉を、把握しておかねばならなかった。義時の乗った馬を警護する四騎の騎馬と、その背後に二十人の徒士を引き連れるちょっとした小部隊だった。大路には砂利が敷かれてある。騎馬がつかつかとその砂利をはじく音。徒士たちのざざざっと鈍く砂利を噛む音。静寂を裂くその音は、あふれるばかりの木立の葉がそよぐ平和な光景のなかに、かたい緊張の色彩を染めていく。
 頼朝がこの鎌倉に幕府の拠点をおいて、すでに三十年の月日が流れていた。雑木林と、その間隙を縫って開墾された畑や田圃、その背後にすぐに迫ってくる山林といった鎌倉の風景は一変していた。幕府のおかれた周囲には御家人たちの広壮な邸宅が立ち並ぶ。幕府と鶴岡宮を支点にして、今大路、若宮大路、小町大路の広道を走らせ、その広道を横切る大町大路や車大路がつくられた。
 その大路から幾つもの小路がのびてそこにも家屋が立ち並んでいく。人口はふくれ上がる一方だった。禄を食もうとする浪人たち、一旗揚げんとする職人や商人や浮浪人たち、さらには彼らの後を追って女や子供たちも流-れ込んできた。
 和賀江島にある港には、毎日幾杯もの船が南から北からやってきて岸壁につけた。そのあたり一帯に米倉が立ち並び、木材の供給基地として材木座の一画も形成されていった。鍛冶屋や甲胃を製作する武具工房の建物も建立され、車大路の米町あたりには、味噌屋、菜屋、魚屋、布屋、油屋といったさまざまな店が軒を連ねていき、さらに旅籠屋や飲み屋や遊廓までが現れた。この興隆のなかで訴訟沙汰もひっきりなしに起こる。
 義時の一行は米町に入り、いまだ煙のくすぶる一角に出た。昨夜上がった火の手はたちまち二十軒ほどの家屋をなめつくしてしまった。そのことはその日の閣議でも報告されていた。いったん火の手が上がるととめどなく延焼していく。何とか防ぐ方法はないものかという議論になり、都にあるような火消しの組織を早急に整えねばならぬという話にもなっていった。
 義時の一隊が歩みを止めて焼け落ちた家屋を眺めていると、野次馬の人垣のなかから一人の女が飛び出してきた。
「北条さま、私どもはもう何もかも無くしました、どうやって明日から生きていけばよいかわかりません、この火は吉川さまの家臣であるお武家さまの家から出たものでございます、吉川さまから私どもに何がしかのお助けがあってもよいはずです、どうかそのようなご処置をして下さいませ」
 女は泣きながら訴える。義時がよくわかったと取りついたその女を払おうとしたが、女はいつまでも義時の足を抱え込んで放さない。ようやく従者たちが女を引き剥がした。その場を立ち去ると義時は一隊の指揮をとる武者に、
「もしあの女が刺客であったらおれの命はなかった、何のために警護の部隊を引き連れているのだ、ただ辺りを眺めるための遊覧をしているのではないのだぞ、もっと警護を引き締めろ」
 と叱りつけた。それはふだんの義時ではなかった。義時がこのようにこまめに鎌倉の町に繰り出して視察する一つの目的は、住人の声をじかに聞くことだった。鎌倉の権力を手中にしていく義時にも次第にわかっていくのだ。ふくれあがる都市を掌握していくには住人を掌握しなければならないことが。度量の深さを持つ義時はこのような巡回のなかで、よく馬から降りて町人たちに声をかけた。そんな行状が鎌倉中に知れわたっているから、義時に取りすがって直訴に及ぶ町人もあらわれるのである。
 いつもの義時ならば、泣きながらすがりついてきた女を、冷たく突き放すことなどしない。その日の閣議がひどく不快で、その不快な思いがずうっと尾を引いていたからだった。
 閣議は本殿の楓の間で十二人の御家人で行われる。幕府の中核を形成する幕僚たちだ。そこでさまざまな案件が討議されてひとつひとつ裁決が下されていく。そのあと十二人の後家人は打ち揃って謁見の間に移動し実朝に対面する。実朝は簾がたれている奥の上段の間にいる。将軍と後家人を隔てる簾が下っているのだ。その日の案件を義時は実朝に報告した。その報告を簡潔に伝え終えると、実朝が問いかけてきた。
「公暁の件はどうなった?」
 義時はちょっと言葉につまったが、
「その件は本日の閣議には上っておりません」
 と答えた。すると叱責する実朝の声が、義時ではなく大江広元に向かって飛んだ。最近の実朝は、義時を避けるように他の御家人に問いかける。この日もそうだった。
「大江、そなたにも頼んだはずだ。直ちに公暁を京から引き戻せと、その件はどうした?」
「その件、種々の異論がありいまだ幕僚の統一できず、いましばらくのご猶予を」
 と広元がこたえる。
「しばらくの猶予とはいつまでだ?」
「…………」
「余は直ちにと命じたはずだ、直ちに公暁を鶴岡宮の別当に就けよと」
 広元は低頭したままだった。そこで実朝は義時に眼をやった。
「北条はなぜこの件を閣議にのせないのだ」
「それはいま大江どのがお答えした通りでございます、いましばらくの御猶予を」
 と義時が実朝を冷たく突き放すようにこたえると、実朝はすくっと立ち上がり、
「そなたたちの言葉が余にもわかってきた、そなたたちの発する猶予とは、なし崩しに潰していくということだ、余はもうそのような政事的言語に惑わされない、もう一度ここで公暁を鶴岡の別当にあてることを命じる、直ちに公暁を迎えるための兵を編成し、明日にも京に向けて進発させよ」
 と言い置くと、実朝は簾の奥から消えた。
 その会見より二日前、広元が義時の私邸を訪ねてきて公暁の件を持ち出したとき、義時は即座に異をとなえた。
 鶴岡宮は幕府の重要な式典や行事を行う場所である。数々の複雑な様式をもつ行事が何の経験もない若造につとまるわけがない。鶴岡宮の別当は神仏への橋渡しができる行を成し遂げた最高の僧が就くものである。鶴岡宮には定暁を長く支えてきた栄西という識見豊かな僧がいる。彼こそ新しい別当にふわさしい。この件は自分からも政子を通して実朝を諌めるよう計らうからここで打ち止めにしてもらいたいと。
 義時はさらに言葉を継いだ。最近の実朝の挙動は幕府の存在を揺るがしかねない。貿易船の建造あたりから彼の強引さが眼に余る。このように幕府を飛び越した実朝の独断を許していったら、実朝は頼家と同じ道を歩むことになる。思いつきで次々に下される空想とも幻想ともつかぬ策には、幕僚打ちそろって即刻拒絶しなければならない。それは実朝自身のためであると義時はそのとき広元に説いたのである。
 しかし幕僚たちが再び楓の間に戻って公暁の件を談義したとき、義時は二日前に広元に説いたような論を放たなかった。その座には義時に距離をおいている後家人たちがいる。そのような座で本音を漏らすと思わぬ反発が広がっていく。そんな思惑から義時は黙していたのだ。すると談義は先の貿易船のような巨額の経費をかける無謀な試みは許容できぬが、公暁を鶴岡宮の別当に就けるという小事に反対する理由もあるまい。そうでなくともこのところ将軍家と幕府の関係が思わしくない。このような小事は将軍の言う通りに決着しておこうという結論になった。そのことが義時をひどく不快にさせたのだ。これが小事と言うのか。
 義時は政所に戻ると、事務の一切を取り仕切っている佐藤頼隆を呼んだ。
「園城寺に配した諜者の報告、最近そちは眼にしたか」
「園城寺と言いますと」
「公暁に監視につけた密偵からの報告だ」
「ああ、京に下った公暁さまの、いや、このところ殿のお尋ねがございませぬので、私も詳細に見ておりませぬが、報告は毎月届いているはずです、すぐに調べさせます」
 義時は周到にその手を打っていたのだ。政事を統治する者にとって危険な因子を常に見張ることは基本の基本だった。公暁が園城寺に上ったとき、彼はまだ十二歳だった。しかし公暁はただの十二歳の少年ではない。公暁を取り込もうとする人物たちは世にあふれている。とりわけ和田の残党の動きは警戒を要した。公暁の腹違いの弟、栄実がそうであった。和田の残党たちが栄実を取り込み、さらに朝廷まで巻き込んで幕府を転覆させんとする謀反の火種をつくり出そうとした。
 その事件を三年ほど前に駆逐したばかりである。公暁は栄実以上に警戒を要する人物なのだ。公暁の言動の一切を監視する諜者からの書状は毎月政所に届いていた。その書状のなかに少しでも異変を告げるくだりが記されているときはじめて義時のもとに報告されてくる。その報告がなかったということは、公暁の身辺に異変はなかったということだった。
 小半時して京都六渡羅の仕事を管轄している倉持という武者が義時の室に現れた。倉持は文の山をのせた盆を置くと、
「これが園城寺から送られてきた五年ほどの文でございます」
「それは大変な量であるな、すべてに眼を通す暇はない、この一年ほどの文を月日の順に読み上げてくれるか」
 倉持が書状を読みはじめた。義時は腕を組み眼を閉じる。どっしりと座し身動ぎせずに耳を傾けるその姿態に、幕府の中枢を担っている権威と権力がにじむ。
 園城寺に密偵として送り込んだのは天野重時という武者だった。物事を深い視線で見ることができ、たしかな記述の力で報告できる人物として選定された。なるほど天野の書簡は簡潔にして引き締った文体で、園城寺での公暁の生活を記している。
 どの書簡にも公暁のひたむきな修行生活が記されている。園城寺に寄食する堂衆や学侶は数しれず、また出入りする貴族や武士もまた数多く、公暁はさまざまな階層の人間たちと遭遇している。そのなかにおやと思わせる人物と接触しているが、しかしそこから幕府が恐れる謀反の企みなど起こる気配はいささかも記されていない。その書簡で見えてくるのは仏道の道を歩まんとする公暁の懸命なる修行生活だった。
 しかし読まれる文に耳を傾ける義時の胸に、何か次第に不気味なものが立ちあらわれていった。公暁という青年のただならぬ熱気がつくりだす不気味な影が。出家した身とはいえ公暁は園城寺でも特別の待遇を受けているはずだった。しかし早朝の勤行を終えると庭に下り立ち小僧たちと同じように広大な敷地の落ち葉を掃き集める。さらには長い回廊や本殿や堂の床を何十回となく往復して雑巾で拭き上げ、厠の清掃までを毎日の日課としているという。
 園城寺は京から二里ほど距離をおいているとはいえ、かつて後白河法皇がこの寺で灌頂受戒をなしたほどの天下の大寺だった。それゆえに貴人や武人たちの葬儀や供養や法要などの儀式がひっきりなしにある。諸国から流れ込んでくる二千とも三千ともつかぬ僧たちを組織してさまざまな社会活動も行っていた。流浪する民たちの世話、子供や若者のための学問所、さらには医療活動までも行っている。それらの行事や奉仕作業にも公暁は渾身の働きをしているのだ。そして一日が終わると一人堂に引きこもり、観音経、毘沙門経、般若心経、寿命経とさまざまな経典を激しく読経する。
 義時は次第に天野の文が語っていない裏側に、何か別のものが動いている気配を感じるのである。栄実を担いで蜂起することに失敗した和田の残党は、その轍を二度と踏むまいと巧妙な方法ですでに公暁と接触しているのではないのか。仏道を歩まんとする激しい修行の裏では、公暁はまったく違った企みを育てているのではないのか。公暁の背後に義時はそのような不気味な影を見るのだ。
 和田の残党らが復讐と再興の機会を伺っていることは、諸国に放っている諜者からしばしば報告されてくる。あの争闘はいまだ終結してはいないのである。実朝が公暁を鎌倉に引き戻すということは、あの争闘を新たに展開させようとするためではないのか。まさかという思いもする。しかし実朝は誰よりも義盛を愛していた。義盛を失ったことを嘆き、たびたび和田一族供養の法要を行っている。実朝が和田の残覚たちと結びつく根拠は十分にあるのだ。
 実朝はもはや簾の奥に置いておく人形ではなくなってきた。しばしば幕府の政事に口をはさみ、ときには彼の主導で政事を動かそうとする。次第に将軍という意志を持ちはじめてきた実朝にとって、第一の邪魔者は義時ということになる。意志を持つということは、その邪魔者を消さねばならぬということである。義時を消さねば実朝は意志を持った将軍にはなれない。
 とすると公暁を鎌倉に引き戻すということは、義時を倒すための布石を打つことではないのか。公暁の背後に和田の残党がいる。いや、和田だけではない。梶原の残党も、引企の残党も、平家の残党もいる。さらに鎌倉を倒さんとする朝廷がある。実朝はそれらの力を結集し、反北条の御家人たちと組んで、この義時を倒そうとする大きな謀略のなかで動きはじめたのではないのか。義時の鋭い思考はそのように紡がれていった。


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