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大介の朝

20020年6月13日号 目次
大介の朝 1
君は素敵なレディになれる 4
オランダ運河のタカシ通り 3
英語が日本を征服せんと襲撃してきたとき、一人の青年が立ち上がった
大作のスケッチ

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大介の朝 1


 ゼームス坂の中腹から、階段をおりて、ごちゃごちゃと家がたてこむ裏通りに入ったところに、汚れた四階建てのビルがあり、その二階に「ゼームス塾」はあった。子供がニ十人も入れば、満員という部屋のかたすみには、蝶の標本が山とつまれてあった。
 その塾はこの地域では評判はよくなかった。あんなところに入れても、成績はちっともよくならないとか、勉強よりも遊ぶことが大切といって遊ぶことに力をいれたり、自然観察とかいって、丹沢とか秩父の山にしょっちゅう出かけたり、そこの先生は蝶にくるっていて、奥さんに逃げられたとか、その先生の名は多川長太というのだが、あれは蝶太がふさわしいとか。
 その地区にある学校の先生たちの評価はもう最悪だった。先生たちのなかにはその塾の名前をきくだけで、口にとびこんできたゴキブリをグチャリとかみつぶしてしまったといった表情になる。先生たちにそんな反応をおこさせるのは、ある子供の通信表をあんたの評価はまちがっていると、教師の前で引き裂いてしまったというおそるべき事件を引き起こした、ろくでもない人物が教えている塾だという印象があるからだ。
 それは事実だった。事件はこういうことだったのである。
 新学期がはじまって、まもない日だった。ゼームス塾のドアがたたかれ、ちょっとこぶとりの母親と、にこにこしている子供が入ってきた。外はだいぶ激しい雨だったようで、傘からぽたぽたと水滴が落ちている。その傘をどうすべきか母親の方が迷っていた。
「ああ、傘はそこのバケツのなかにつっこんでおいて下さい」
 すると男の子は、ははははと笑って、
「バケツだって、貧乏なんだ、ここ」
 と言ったのだ。母親に、これっとたしなめられていたが、長太は、
「なかなか君の直観は鋭いじゃないか。名前はなんていうの」
 それが、大介と時子だった。
 時子は椅子にすわると、なにやらたまっていたものを吐き出すように話しだした。
「主人は長距離の運転手をしてまして、仕事にいくと、三日間はもどってこないんです。あたしもまた工場に出ていまして、吹けば飛ぶような小さな工場ですが、結婚前からずうっとお世話になっていまして、ですから大介が生まれても、大介を赤ちゃんのときから保育園にあずけたりして、もうほったらかしだったんですよ。普通のおかあさんのようなことはしてあげられなかったんですけど、でもこの子はこの子なりに丈夫に育ちましてね」
 大介が生まれたときからのことを話しはじめた時子の話は、長々と続く。それまで神妙にすわっていた大介は、次第にじりじりしてくるようだった。
「大介だっけ、ちょっと悪いけどさ。お母さんと話しがあるから、そこのトイレを掃除してくれないかな」
「え、トイレ」
「そうだよ。トイレ掃除は男をきたえるんだ」
「そういうことわざないと思ったけど」
「現代ことわざ辞典にちゃんとのっているよ」
「そうかな」
「そうだよ。だからちょっとやってくれよ」
 大介はさらににこにこ笑って、いいよと言って掃除をはじめた。時子はおかしそうにころころと笑った。その笑いが底ぬけに明るく、長太までほのぼのとさせる。
「ただ一つ困るのは、勉強なんです。学校の先生にもよく言われるのですが、けっして頭は悪くない、ただ勉強するという習慣ができていないって。だから家庭でも二十分でも三十分でもいいから、勉強する習慣をつくって下さいと言われるんですね。そんなわけで、あたしがみてやらなければと思って、何度かやってみるんですが、だめなんです。まったくだらしない親ですから、最初にいやになってしまうのは親の方なんです。疲れてるなんて言っちゃいけないんですけど、あたしのほうが眠くなっちゃうんですよ」
「はははは、なるほど」
「それに最近は、教えようと思っても、もうあたしにわかりませんからね」
「そうですね」
「そこでいろんな塾にあずけてみたんですが、一週間ももたないんですね、これが。なんかこの子にはまるで勉強しようという気がわいてこないんです。学校で勉強しているんだから、学校が終わったら勉強のことはいいのっていう調子なんですから。それはそれでいいと思うんですね。そのために学校というものがあるんですから。親がもともと勉強しなかった人間ですから、勉強のできる子になれなんて無理な注文をだせるわけがありません。でもいまは昔とちがいますから、少なくとも高校ぐらいは出なければ本人が困ると思うので、ですから最低の学力というんですか、読んだり、書いたり、計算したりする力というものはきちんとつけておいてもらいたいと思うんです」
 時子は、心のなかからわき立ってくるものがあるのか、話は切れ目なかった。なにか大介に関することは、なんでも話しておきたいとでもいうように。それは彼女の意識しない無意識の領域というものが、彼女のきたるべき運命というものを、予感していたのかもしれなかった。
 長太は、素敵なお母さんだなと思った。美人というわけではない。学歴だって、中学しかでていない口ぶりだった。しかし彼女の内部から、あふれてくるものに、ある高貴さというものがあるように長太には思えた。彼女はしっかりとわが子をくもりのない目でみている。なにか時子は生きることの本当の意味を知っているようにみえたのだ。
 最近長太は、この世に二種類のお母さんたちがいると思うようになっていた。その一つが、いわゆる教育ママといわれる人種だった。この世に横行する偏差植という価値観のなかにどっぷりとつかって、そこからありとあらゆるものをみていく母親たちだ。長太がもっとも嫌いなタイプの人たちだった。そしてもう一種類が、そういった価値観からおりてしまっている母親たちだった。いまでもわずかだがこういう母親は存在するのだ。
 時子はその訴えるようなお喋りをやめると、
「こんな成績の子でも、みていただけるんでしょうか」
「学校の成績っていうのは、すぐには上がらないものですよ。塾に入れば成績が上がるなんていうのはまったくの幻想ですね。そんなことをぼくは保証しません。上がらない子は何年たっても上がらないものです」
 と長太はそっけなく言った。それは長年、子供たちをみてきた結論だった。通信表に一とか二とかならんでいる子が、三とか四に上がることはほとんど不可能なことだった。いつも二十点とか三十点しかとれない子は、どこまでいってもその程度の点数しかとれない。したがって、そういう子の評価は、まったく別の尺度が必要になるといったことを説明していると、時子は長太の言わんとすることを、すべて見通しているかのようにこう言った。
「大介は、目にみえない力が欠けているんですね。その目にみえない力をつけることだと思うんですが。そこのところをつけていただければ、いいと思っているのです。先生のおっしゃるように、成績なんてどうでもいいと思っています」
「それでしたら、ぼくからお願いしますよ。とても面白い子だな。面白い子っていまあんまりいないんですよ。名前がいいな。大介っていう名前が。いまはほんとうにけちくさい子供ばっかりですからね」
 

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君は素敵なレディになれる 4

                                   丹沢は晴れ渡っていた。のんびりとした風景が、どこまでも広がっている。草がうるさく繁り、木立の緑がまた鮮やかだった。自然の豊かな恵みが、智子をよみがえらせる。宏美もまた生き生きとしていた。友達とふざけたり、けらけらと声をたてて笑ったり、いたっ! と叫ぶなり網をふりかざして畑や林のなかにかけこんだり。毎朝みるあのぐずぐずとした宏美とは別人のようだった。そんな宏美の姿をみるだけで智子は健康になるのだった。そうだった。宏美も私も健康なのだ。
 川についた。そこで昼食をとることになっていた。たきぎを集めて、火をおこさなければならない。子供たちは焚火づくりが大好きなのだ。二つのグループにわかれて、火をおこすことになった。智子のまわりに、小学生たちが寄ってきた。智子は子供たちに人気があるのだ。
「まず薪を集めましょうよ。さあ、みんな。山のなかに入って、薪になる木をいっぱい拾ってきてちょうだい」
「やろうぜ」
「おれ、ナイフ使うからな」
「ぼくにも貸してよね」
「いこうぜ」
 と小学生は口々にこたえる。彼女の命令に小学生たちは喜々としてしたがうのだ。そして、両手いっぱいに技打ちで落とされた枝などをかかえてもどってくる。あかあかと燃え上がった焚火のなかに、智子はリュックに入れてきたジャガイモをアルミホイルにくるんで投げ入れた。
「焼きいもかよ」
「そうよ。おいしいんだから」
 その焼きジャガイモは、子供たちに大受けだった。智子はまた塩とバターとマヨネーズも用意していたのだ。どれをつけると一番おいしいかを試食させるために。
「うめえ。弁当よりもうめえよ」
「塩あじもいいな」
「バターがやっぱりいいよ」
「ぼくはマヨネーズだね」
 ほかほかしたジャガイモを、みんなふうふうしながら食べるのだ。のんびりとした自然のなかでは、豪快な食事がよく似合う。
 智子のまわりに、小学生だけでなく中学生も大学生もやってきて、ぐるりと取り囲んだ。
「ねえ、おばさん。これ食べたらさ、川で遊ぼうよ」
「またずぶ濡れになるわけ」
「そうだよ。あれおもしれえよな」
「お前、おぼれそうになったんだろう」
「ねえ、遊ぼうよ」
「でも長太先生は、みんなを蝶をとりに連れていきたいのよ」
「もうおれ、蝶なんていいよ」
「ぼくもいいよ。ねえ、川で遊ぼう」
「じゃあ、長太先生にきいてらっしゃい。ぼくたち、川で遊んでいいかって」
 子供たちは、長太! と叫びながらどどどっとかけだしていった。そしてまたどどどっとかけもどってくると、
「おばさん、いいって」
 とだれもが飛び上がるような、弾む声をあげる。長太もやってきた。
「お母さん、いいですか」
「ええ、かまいませんよ。でもなんだか目的からそれるんじゃありませんか」
「いや、そんなことはありません。だいたいあの子たちは、まだ蝶に興味なんてないんですから。それはそれでいいんです。むしろ川で遊ぶことがほんとうなんですよ。午後は遊ぶことになっていましたし。助かりますよ」
「じゃあ、思いっきり遊ばせますよ。そうじゃなくて、私が遊ばせてもらいます」
「いいなあ。そういう姿勢がすばらしいな」
 と長太は言った。
 そんなわけで、昼食をとってからの行動は二組に別れた。一つは蝶の採集にいくグループと、もう一つは川で遊ぶグループに。うまいぐあいに七人ずつになった。智子は、蝶採集にでかける長太や宏美たちを見送ってから、みんなに招集をかけた。子供たちは声をあげて呼び集めるなんて、ほんとうに久しぶりだった。
「みんな、これから川で遊ぶけど、どんなことをしたいか。一人ずつ言ってみてよ」
 子供たちは歓喜の雄たけびをあげるように、泳ぎたいとか、ダムを作りたいとか、魚をとりたいとか、滝ですべりたいとか言った。
「わかったわ。じゃあ、まずこうしましょうよ。ここはちょっと面白くないみたいだからもう少し上流に上っていく。どこまでも上っていく。きっとどこかにみんなで遊ぶところがあるわよ」
「ぼく、水着もってないけど」
「みんなももってないよ」
「そんなの平気よ。パンツになればいいでしょう」
「ぬれちゃうじゃないか」
「だったら、パンツも脱げば」
「うえっ」
「いやだよ。おれふるちんなんかになんねえよ」
「なに言っているのよ。みている人なんかいないんだから。男でしょう」
「じゃあおばさんもふるちんになるのか」
 そう言うだろうと智子は思っていた。しかしいざそう言われてみると、ちょっと顔がほてってくるのだった。
「まあ、そのときは、そのときだわ」
 そこは大きな岩の棚にかこまれ、たっぷりと水をたたえたなかなかよい水場だった。水尾は青く深そうだった。彼らは岩の上から飛びこんだり、川の流れに身をゆだねたり、もぐりこんだり、とさまざまな遊びをくりひろげている。夏を思わせる太陽がきらきらとひかっていたが、まだ水はぞくりとする冷たさだった。しかし元気な子供たちはその冷たさをものともせずに飛びこんでいく。
 岩の上に身をよこたえて、智子はそんな子供たちを見ていた。子供たちの体はよくしなりひきしまって若鮎のようだった。躍動していくその体は生にきらめき、まぶしいばかりだ。彼女の胸のなかにまた教師時代のことが悲しくつらくよぎってくる。いまさらのようにあっという間に過ぎ去ったあの五年間の生活が、彼女の生のなにやら原点のように思えてくるのだ。
 運動会があり、クラス対抗リレーがあった。クラスは燃えてぜったいに勝とうと誓い、そのためには練習だと言って、朝六時に校庭に集まって練習したものだった。おしくも一等をとれなかったそのときのくやし涙。合唱コンクールで彼女のクラスが「あの素晴らしい愛をもう一度」をうたって一等になったときのあの涙。妊娠した子がいてかえって智子がおろおろしたこともあった。学校にこない子を毎朝むかえにいってとうとう立ち直らせたこともあった。修学旅行のときに彼女のクラスの三人が十二時過ぎても戻ってこずに、あわや大騒動になりかけたこともあった。十年に一人の番長と先生たちにもおそれられた子を、彼女は涙を流しながらぴしゃりと頬をはったこともあった。そのあとその子との間に深い友情が生れたものだった。
 その輝かしい生活を智子は捨ててしまった。そのとき彼女に深いためらいがあったが、次の飛躍のためには仕方がないと思ったものだ。次なる飛躍とは結婚だった。邦彦との結婚だった。彼は仕事をやめてほしいと言った。それが欠かせない条件というほどのことではなかったが、彼はやめてほしいという気持ちをずうっと持ちつづけていた。智子は結婚にあこがれていたのだ。邦彦への愛はゆるぎようもなく、彼を失いたくなかった。彼のいない人生など考えられなかった。彼女は結婚するというだれもが納得できる理由によって退職したのだった。
 しかしそれは半分真実であり半分は嘘だった。彼女はそのとき教師として一つの厚く高い壁につきあたっていたのだ。その壁の前で彼女はたじろいでいた。今の宏美ではないが、なにか学校にいくのがちょっとこわくなっていた。朝になると深い疲労がおそいかかってくるのだった。それはいま考えるとけっして軽くない心の病にかかっていたのかもしれなかった。
 その最も大きなきっかけをつくったのは、赴任したばかりの音楽の若い女性教師が音楽室で三年生の男子三人に乱暴されるという事件がおこったことだった。その教師の引き裂かれた下着をみたとき、まるで智子の心と体に剃刀をたてられたような戦慄が走って慄然となった。彼女は急に男子生徒たちがこわくなった。彼らはもう女をあっさりと組み伏せて、暴力の牙を突き立てることができる年齢なのだった。それを知らずに彼女はいままでなんと無防備だったのかと思うのだった。
 無防備だって? 教師は生徒たちから常に防備していなければいけないということなのか。そうなったらもう教育ではないではないか。しかし事実は教師と生徒の間には深いこえられない溝があるのだった。そこからこえてはならない世界があるのだった。智子の恐怖はさらに女の子たちにもむけられていた。彼女たちは鞄のなかに平気でコンドームをしのばせたりしている。そしてあっさりと好きでもない男たちに体を開くというのだ。そして妊娠。教師の知らない見えない向う側には、子供たちの息ぐるしいばかりの濃密な性の世界があった。
 そこにまた煙草があり、シンナーがあり、いじめがあり、たちの悪い無気力と無関心があり、暴力があった。体育系の教師が赴任してきて力でおさえこもうとする教育があった。三年生になると全校が受験一色におおわれ、子供たちはもう自分の点数だけにしか関心をもたなくなっていく。そんな子供たちの背後にひかえている教育ママたちの大軍。即物的で現金で低俗な母親たちの価値観に智子はどれほど苦しめられただろうか。
 そして智子が教える英語という科目にも深い疑問をもちはじめていた。英語にいっぱいの夢をふくらませて学びはじめる子も、二学期には半分の子が脱落していき、三学期になるともはや英語に興味をしめし授業についてくる子は、クラスの三分の一になってしまう。そしてその英語の授業といったら、まるで数式のように、やれ進行形がどうの、三人称単数のときはどうの、複数のときはどうのといった授業をえんえんと展開していかねばならなかった。言葉の授業ではなく、ひたすら文法の時間であった。
 あのとき結婚という次なる飛躍のために退職したのだと思った。しかしいまふりかえってみると、それは一つの挫折であったのかもしれなかった。いや挫折そのものだったといまは思うのだ。
 結婚はなるほど新しい世界だった。そこで新しい出来事が次々におこっていった。しかし年月とともに、彼女の生の中心がぽっかりと穴があいていく思いにとらわれるのはどうしょうもなかった。宏美が生れすべての時間が子育てに奪われていくとき、なにか生命の底がからっぽになっていくように思えたものだった。そして子供たちとすごしたあの五年の月日こそ生の輝きだったと思うのだった。

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オランダ運河のタカシ通り 3


 それから高志はまたしばしば児童館にやってきた。もう高志の目には敵意の視線はなかった。二人の間には深い友情の絆というものが生れていたのだ。
 その頃、児童館に真奈美という小児マヒにかかった子が通ってきていた。車椅子だから学校や児童館への行き帰りは、いつも母親が送迎するのだが、この母親は仕事をもっていた。だから朝、まず娘を学校に、それから会社に。そして学校の授業が終わる時間になると、職場を抜けて学校に。真奈美を児童館に連れていくために。そして真奈美を児童館に送り届けたらまた職場にもどるというあわただしさだった。そんな母親の労を少なくしようと、弘は児童館にくる子供たちに真奈美を学校から児童館ヘ、児童館から自宅へ送り届けるという活動に取り組ませていた。
 その役を高志にも担わせようとしたのだ。
「いいかい、真奈美をちゃんと迎えにいくんだよ」
「いいよ」
「雨の日も、風の日も、嵐の日も、だよ」
「いいよ」
「そして学校が終わったら、真奈美をこの児童館に連れてくるんだ」
「それで、家に送っていくんだね」
「それはさ、別の子にさせるから」
「わかった。いいよ」
 そうは言ったものの弘は半分も期待していなかった。だから弘は真奈美の母親に、
「子供ですからね。気のむいたときにしか迎えにいかないと思いますけど、でもそんなことから真奈美を送り迎えする仲間が、一人また一人とふえていくといいと思っているんですよ」
 と言った。
 しかし、驚いたことに高志は、一日も休まずに八時十分になると玄関にあらわれるらしい。それこそ雨の日も嵐の日も。それをきいて弘はなんてすごい子なんだろうと思った。
 五月の連休があけた日だった。その朝、弘が児童館の建物に入ろうとすると、高志が木立の陰からぬっとあらわれた。
「あれ、今日、学校は休みだっけ」
「あるけど。もうちゃんと真奈美ちゃんは送ってきたから」
「ああ、そうか、いつもがんばってくれてるな。うれしいよ。でも学校にいくんだろう」
 そういう習慣ができたせいか以前のように学校は休まなくなっていたが、ときどき真奈美を送りとどけたあとに、教室に入らないでそのまま家に帰ってしまうことが何度かあったようだ。今日もその手かなと思って、
「今日はどうするわけ。休むの?」
「いや、いくよ」
「そうだね。やっぱりいったほうがいいよ」
 しかし、高志はなにかもじもじしている。
「どうしたの?」
「あのね‥‥」
 寡黙な子だった。仲間たちのなかでも口数の少ない子だったが、大人が相手となるとさらに口数が少なくなっていく。しかしこんなにもじもじしているのはめずらしいことだった。なにかあるなと思った弘は、高志の肩をだいて、
「なんだよ。はっきり言ってくれよ。おれたちは友達だろう」
 すると彼はお金を貸してほしいと言った。彼がそんなことをたのんだのははじめてのことだった。
「いいよ、いくらほしいの」
「二百円ぐらいでいいから」
「いいよ。なにに使うわけ」
「パンを買うんだけど」
 と言った。そして、それを食べたら学校にいくと。それはずいぶん奇妙な話だった。
 高志は誇り高い子だった。真奈美の朝の送迎を毎日休むことなく続けてくれる高志に、真奈美の母親はなんども夕食に誘ったらしい。しかし彼はそんなことをされるのをひどくいやがった。たまに弘もラーメン屋に誘うのだが、彼はいつも首をふるのだ。しかし彼が空腹だということを知っている弘は、ちょっと強引に連れていく。そしてラーメンにチャーハン、それともギョウザがいいとたずねると、彼は小さな声でラーメンだけでいいとこたえるのだ。ほかの子供だったら、チャーハンもギョウザもということになるのに。
 そんな子が二百円を貸してくれという。どうも要領をえない話なので、お父さんはどうしたのとたずねた。高志のきれぎれにもらす言葉をつなぐとこういうことらしい。五日間の連休がはじまるその最初の日に、父親は二日ほどもどってこないからと言って、二千円を高志に渡した。その二千円でパンでも買って食ってろと。高志は言われたとおりその二千円を二日で使った。父親は二日後にもどってくると言ったのだ。ところが彼はまだ帰ってきていないのだ。
「それじゃ君は、あとの三日はなにも食べてないの」
「うん」
 弘に怒りが噴き上げてきた。なんという親なのだろうか。こんな親に子供を育てる資格があるのだろうか。弘はそれまで何度か高志の父親には会っていたが、それはただ挨拶をするという程度のものだった。というのも父親とは深くかかわりたくないという思いがあったのだ。彼の父親と深くかかわりをもつということは、高志の問題をどうするかということだった。もしそこまで踏みこんでいったら、大変な時間とエネルギーをとられるだろう。いまの自分にはそこまではできないと一線をひいていたのだ。
 しかしその話をきいたとき弘は決意をかためた。その一線をこえなければならないと思ったのだ。高志のためではなく、自分のために。自分がこの地に立つために。弘は今夜父親に会おうと思った。
 その日、弘は高志のアパートで父親の帰りを待つことにした。こわいばかりに貧しさと孤独とがただよっている部屋だった。こんな荒涼とした部屋で父と子が生活しているのだと思うと弘の胸ははげしく痛むのだった。高志とトランプなどして待っていたが、靴音が聞こえ、ドアが乱暴にひらいて、父親の芳男がもどってきたのは深夜の二時だった。
「おお、なんだい?」
 彼は部屋にいる弘をみて、一瞬ギョッとなって逃げ腰になった。
「ちょっとお父さんと話そうと思って」
「なんだい、話って?」
「ちょっと外で話したいんですよ」
 高志はもうそのとき毛布にくるまって寝ていた。芳男と怒鳴りあいになって、高志が目を覚ますかもしれなかった。高志にはきかせたくない話だった。
 二人は外に出た。肩をいからせ、よたって歩く芳男は、ヤーサンの姿そのままだった。それもチンピラヤーサンの。どこにも凄味がない。なんだか滑稽だった。ちょっと歩くと駐車場があった。そこに二人は入った。
「なんだい、話しって?」
 芳男はふところに手をいれた。一瞬弘はやばいなと思った。こいつは刃傷ざたになるのかなという思いがちらりと走ったのだ。しかし芳男が取り出したのは煙草だった。きざな手つきでライターをならして火をつけた。
「高志をどうするかですよ。こんな状態で高志は育てられるんですか」
「育てられるかって?」
「なんだかぼくには無理なように思えるんですよ。いえ、ぼくはあなたを責めているのではなくて、ぼくがあなたの立場だったら、やっぱりこうなるのかなって思ったりするんですがね。しかし高志の立場に立って考えると、こんな状態は決してよくありませんよ」
「よけいなお世話だよ」
「よけいなことじゃありませんよ」
 弘はちょっと激高して言った。
「あなたはこの五日間、どこにいってたんですか。高志一人おきざりにして。彼はこの三日間なにも食べていなかったんですよ」
 芳男もまたすごんできた。
「そんなことてめえに関係あんのかよ。おれのうちには、おれのうちのやり方ってものがあるんだよ。あいつは一人で食えるんだ。一人で食えるようにしこんできたからな。それがおれのうちのやり方なんだ」
「おれのうちのやり方って、高志に二千円おいていっただけでしょう。二千円で、いったい何日もつと思うんですか。一日三食ですよ。二千円なんて、ちょっとまともなもの食べたら一日でなくなってしまいますよ。高志はあなたが二日で戻ってくると言ったから、その二千円を二日に分けて使ったんですよ。あとの三日はどうするんですか。高志はね、この三日間なにも食べていないんですよ」
「そんなこと、てめえのしったことかよ」
 と言って、弘のむなぐらをつかんで締め付けてきた。むしろ幸いだった。この男を叩きつけてやろうという怒りがおし寄せていた弘は、逆に彼の腕をねじって逆襲にでた。ちょっとした争いになったが、たちまち芳男は弘に組み伏せられてしまった。なんだかまるで力のない男なのだ。
 芳男の上に馬乗りになった弘は、なにか悲しみを吐き出すように言った。
「ぼくは責めているんじゃありません。あなたはあなたなりに一生懸命なんだ。高志はけっしてあなたを非難などしませんよ。高志はあなたが一生懸命だということをよく知っていますよ。彼はあなたが好きなんです。あなたを尊敬していますよ。彼には母親がいない、だからあなたはその役もしなければならない。あなたの悲しみとか悔しさというものが痛いほどわかるんです。しかしどんなにがんばってもやっぱりできないことがある。そのできないことを行政の力で捕ってもらうべきだと言いたいのですよ。そのために国家というものがあるんだし、政治というものがあるんだし、福祉というものがあるんですよ。いまあなたがすべきことは見栄をはることではなくて、高志のためにその力を借りて立ち直っていくべきだと患うんです。高志のためですよ。このままでは高志があまりにもかわいそうじゃありませんか」
 組み伏せられて、もう抵抗することを観念していた芳男が、しくしくと泣きはじめていた。その泣き声は、なにか堰を切ったようにはげしくなっていく。弘は驚いて彼の上から離れた。芳男はよろよろと半身を起こすと、地面にすわりこんで、掌で何度何度も地面をたたきながら、
「あんたに言われなくたってわかっているんだ。おれがどんなに馬鹿ものかが。女房に逃げられて、おれはどのようにして生きていいかわからなくなったんだ。どうしていいかわからないんだ。いまでもそうなんだ。どうやって生きていけばいいのか。おれは何度もあいつと死のうと思ったことがある。こんなことをどこまでつづけていってもだめだってわかるからよ。まったく能なしなんだ。おれは子供なんかつくってはいけなかったんだ。てめえ一人のことも面倒みきれねえのに、どうして子供の面倒をみれるんだって」

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英語が日本を征服せんと襲撃してきたとき、一人の青年が立ち上がった


 第一章から第三章まで日本での英語の歴史が論じられていて、それがどのように紡がれていくか要約していくが、まず浦賀沖にペリー提督率いるアメリカ艦隊があらわれたところから始まる。黒船の襲来である。それは日本の根幹を揺るがす大事件だった。事実、日本は大変革の時代をむかえるのである。政治も、社会も、文化も、軍事も、経済も、風俗も、生活のスタイルも。髷が散切り頭に、着物が洋服に、草履や下駄が靴に、駕籠や馬が鉄道や車に、蝋燭やランプが電燈に、座机が椅子とテーブルに、筆がペンや鉛筆に、井戸が水道に、瓦版が新聞に。そのとき言葉もまた根底から変革されていったのだろうか。それが第一章の主題だった。

 着物を脱ぎ棄てて洋服を着たように、人々は競って日本語を捨てて英語に乗り換えていったのだろうか。言葉を乗り換えるなどということは容易ではない。しかし時代ははげしく変化していく。白が黒になるように、白が黒になるように。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という川柳が的確に時代をとらえているように、文明開化の音を聞き取るためには英語が必要だった。日本が世界に列する近代国家となるためには、英語こそ国家の言葉とすべきだという機運だって生まれていくのである。それは英語が上陸してきたあらゆる国で起こったことだった。英語は世界を征服していく。英語はその地の言葉を奴隷化するどころか、監獄のなかに拘禁したり焼却したり追放したりする。

 しかし日本の政治のシステムも、経済のシステムも、社会のシステムもその根底から揺さぶられ瓦解していくなか、日本語はまったく揺るがなかった。それどころか日本語は英語の襲撃によってより強靭により豊穣になっていった。世界を征服せんとする野望をむき出しにして襲いかかってきた英語を日本語が撃退したからではない。日本語は英語を飲み込んでいったのである。どうしてこんなことが起こったのか。「悪魔の書」はこの命題を追跡していくために一人の青年を登場させる。

 それはペルーが浦賀に来航してきた翌年のことだった。江戸から遠く離れたその青年の住む地にもその話題は飛来していて、青年の兄は日本の危機だといわんばかりに「異国の襲撃を撃退するには西洋の砲術が必要だ。この砲術を調べるには、どうしても原書を読まなければならないな」と語りかける。しかしこの青年には原書という言葉の意味がわからないから「原書とはなんですか」とたずねる。すると兄は、「原書というのはオランダ出版の横文字の書だ。それについては貴様、その原書を読む気はないか」と誘導されて、その兄とともに長崎を訪れる。

 江戸幕府は鎖国政策を敷いていたが、しかし長崎の出島にはすでにオランダ語が上陸していたのである。その地に兄とともにその青年が足を踏み入れたのは一八五四年、明治という時代が来る十四年も前のことだった。
その青年とは福沢諭吉である。このとき彼は二十一歳だった。諭吉は兄に乗せられて砲術なるものを学ぶために長崎にきたのだが、しかし彼には国家の危機だとか青雲の志なぞといったものはからしきない。
「そもそも私が長崎に行ったのは、田舎の中津の窮屈なところがいやでいやでたまらぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることができさえすればありがたかった」。

 しかしこの長崎の地ではじめて原書なるものに触れて、これが文字なのかと仰天するのだが、なにやら奇妙な蟻の行列のようなアルファベッド文字が織りこんでいる新世界を知りたいという好奇心がむくむくと湧き立って、原書にのめりこんでいった。

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戯曲のスケッチ

翼よ、あれが巴里の灯だ

 レリーズ・アップルバウムは寡作な作家だが、しかし長い月日をかけて書く一作一作には力があり、新作が発表されるたびに長文の書評がでるほどだった。五年前に世に出した「ある晴れた日に」はピューリッア賞の候補になった。しかしその作品を書いたあたりから彼女はまったく小説が書けなくなっていった。彼女の存在そのものを打ち倒すばかりの危機に見舞われたのだ。
彼女は二十七歳のとき、銀行員のロバート・アップルバウムと結婚した。ロバートはレリーズの才能を愛するよき夫だった。感情の起伏の激しいレリーズと違って、温厚な性格をもったロバートは、彼女を包み込むようにして二人の家庭を築きあげていた。その平穏な落ち着いた生活のなかで、レリーズは一連の傑作をうみだしていったのである           

 しかしそんな生活も結婚十五年目に破綻してしまった。ある日、ロバートが突然切り出してきたのだ。「ぼくに好きな人ができた。これからの人生を彼女と生活することにする。すまないが、この家を出ていく。ぼくを許して欲しい」と。ロバートはそう一方的に宣言して家を出ていくのだが、そのとき彼女をさらに打ち砕いたのは、二人の娘もまたロバートと行動をともにしたのだった。
 空っぽになった家は、彼女の心までも空っぽにしてしまった。次第に酒におぼれ、朝から酒びたりの生活になっていった。アルコールが彼女の内臓や骨にまで浸食していく。それはまるで自爆していくかのような溺れ方だった。彼女のような知性の人間には、自己を崩壊させるにも創造が必要だった。彼女の相棒はマーラーだった。マーラーを聴きながら崩壊という創造を深めていくのだった。
 十九世紀の音楽を締めくくり、二十世紀の音楽を切り開いていったマーラーは、なにか彼女の双生児のように思えた。マーラーの長大な作品を次々に蓄音機にのせ音量を一杯に上げ、百人ものオーケストラを自在にあやつる指揮者となって、ときはやさしく、消え入るばかりに弱々しく、しかしその長大なシンフォニーが一転して嵐の海のようになると、彼女もまた気が狂うばかりの激しさでタクトをふるう。高揚と興奮のなかで、酒をすすりながら、彼女は崩壊の音楽を奏でるのだった。
 崩壊寸前だったそのとき一人の女性が彼女の家に現れる。その女はアンナ・ハウプトマンと名乗った。ときたまこうして彼女の小説のファンが訪れるのだが、そんな一人なのだろうと追い返そうとした。しかしその女はこういったのだ。「夫の無実の罪を晴らしてほしい。夫は子供を誘拐などしてない。誘拐という事実がないのに、どうして子供を殺せるのだ。この国は無実の人間を処刑したのだ。この濡れ衣を晴らしてくれるのはあなたしかいない」。レリーズの前作「ある晴れた日に」は無実の罪で囚われた女性が、二十年という月日をかけて身の潔白を晴らす物語だった。アンナはこの小説をまるで聖書のように読み返していたというのだ。彼女はあのリンドバーグ事件の誘拐者の夫人だったのだ。しかしレリーズは、いらいらしながらドアを閉ざした。
 しかしアンナは翌日もやってきた。さらに次の日も。そんな繰り返しの果てにいつしかアンナはレリーズの家に泊まりこむようになった。アンナはレリーズに自分を見ていたのだ。アンナもまた酒におぼれ、崩壊寸前までいった体験をもっていた。彼女はそこから立ち直ってきた女性だった。二人の壮絶な戦いがはじまった。レリーズの肉体はアルコールづけだった。内臓の中まで、骨の髄までアルコールが染みわたっている。酒を断たれた肉体は、泣き叫び、のたうちまわり、もだえ狂って暴れる。頭を砕こうとがんがんと壁に打ちつけ、ナイフでわれとわが身を切り裂こうとする。あげくの果てに銃をとりアンナに向けて発砲した。この壮絶な戦いは何ヶ月も続くが、アンナの渾身の看護はとうとうレリーズを崩壊から救いだすのだった。

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