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大介の朝

 ゼームス坂の中腹から、階段をおりて、ごちゃごちゃと家がたてこむ裏通りに入ったところに、汚れた四階建てのビルがあり、その二階に「ゼームス塾」はあった。子供がニ十人も入れば、満員という部屋のかたすみには、蝶の標本が山とつまれてあった。
 その塾はこの地域では評判はよくなかった。あんなところに入れても、成績はちっともよくならないとか、勉強よりも遊ぶことが大切といって遊ぶことに力をいれたり、自然観察とかいって、丹沢とか秩父の山にしょっちゅう出かけたり、そこの先生は蝶にくるっていて、奥さんに逃げられたとか、その先生の名は多川長太というのだが、あれは蝶太がふさわしいとか。
 その地区にある学校の先生たちの評価はもう最悪だった。先生たちのなかにはその塾の名前をきくだけで、口にとびこんできたゴキブリをグチャリとかみつぶしてしまったといった表情になる。先生たちにそんな反応をおこさせるのは、ある子供の通信表をあんたの評価はまちがっていると、教師の前で引き裂いてしまったというおそるべき事件を引き起こした、ろくでもない人物が教えている塾だという印象があるからだ。
 それは事実だった。事件はこういうことだったのである。
 新学期がはじまって、まもない日だった。ゼームス塾のドアがたたかれ、ちょっとこぶとりの母親と、にこにこしている子供が入ってきた。外はだいぶ激しい雨だったようで、傘からぽたぽたと水滴が落ちている。その傘をどうすべきか母親の方が迷っていた。
「ああ、傘はそこのバケツのなかにつっこんでおいて下さい」
 すると男の子は、ははははと笑って、
「バケツだって、貧乏なんだ、ここ」
 と言ったのだ。母親に、これっとたしなめられていたが、長太は、
「なかなか君の直観は鋭いじゃないか。名前はなんていうの」
 それが、大介と時子だった。
 時子は椅子にすわると、なにやらたまっていたものを吐き出すように話しだした。
「主人は長距離の運転手をしてまして、仕事にいくと、三日間はもどってこないんです。あたしもまた工場に出ていましてね。吹けば飛ぶような小さな工場ですが、結婚前からずうっとお世話になっていまして。ですから大介が生まれても、大介を赤ちゃんのときから保育園にあずけたりして、もうほったらかしだったんですよ。普通のおかあさんのようなことは、してあげられなかったんですけど、でもこの子はこの子なりに丈夫に育ちましてね」
 大介が生まれたときからのことを話しはじめた時子の話は、長々と続く。それまて神妙にすわっていた大介は、次第にじりじりしてくるようだった。
「大介だっけ。ちょっと悪いけどさ。お母さんと話しがあるからさ、そこのトイレを掃除してくれないかな」
「え、トイレ」
「そうだよ。トイレ掃除は男をきたえるんだ」
「そういうことわざないと思ったけど」
「現代ことわざ辞典にちゃんとのっているよ」
「そうかな」
「そうだよ。だからちょっとやってくれよ」
 大介はさらににこにこ笑って、いいよと言って掃除をはじめた。時子はおかしそうにころころと笑った。その笑いが底ぬけに明るく、長太までほのぼのとさせる。
「ただ一つ困るのは、勉強なんです。学校の先生にもよく言われるのですが、けっして頭は悪くない、ただ勉強するという習慣ができていないって。だから家庭でも二十分でも三十分でもいいから、勉強する習慣をつくって下さいと言われるんですね。そんなわけで、あたしがみてやらなければと思って、何度かやってみるんですが、だめなんです。まったくだらしない親ですから、最初にいやになってしまうのは親の方なんです。疲れてるなんて言っちゃいけないんですけど、あたしのほうが眠くなっちゃうんですよ」
「はははは、なるほど」
「それに最近は、教えようと思っても、もうあたしにわかりませんからね」
「そうですね」
「そこでいろんな塾にあずけてみたんですが、一週間ももたないんですね、これが。なんかこの子にはまるで勉強しようという気がわいてこないんです。学校で勉強しているんだから、学校が終わったら勉強のことはいいのっていう調子なんですから。それはそれでいいと思うのですね。そのために学校というものがあるんですから。親がもともと勉強しなかった人間ですから、勉強のできる子になれなんて無理な注文をだせるわけがありません。でもいまは昔とちがいますからね。少なくとも高校ぐらいは出なければ本人が困ると思うのです。ですから最低の学力というんですか、読んだり、書いたり、計算したりする力というものはきちんとつけておいてもらいたいと思うんです」
 時子は、心のなかからわき立ってくるものがあるのか、話は切れ目なかった。なにか大介に関することは、なんでも話しておきたいとでもいうように。それは彼女の意識しない無意識の領域というものが、彼女のきたるべき運命というものを、予感していたのかもしれなかった。
 長太は、素敵なお母さんだなと思った。美人というわけではない。学歴だって、中学しかでていない口ぶりだった。しかし彼女の内部から、あふれてくるものに、ある高貴さというものがあるように、長太には思えた。彼女は、しっかりとわが子を、くもりのない目でみている。なにか時子は生きることの本当の意味を知っているようにみえたのだ。
 最近長太は、この世に、二種類のお母さんたちがいると思うようになっていた。その一つが、いわゆる教育ママといわれる人種だった。この世に横行する、偏差植という価値観のなかに、どっぷりとつかって、そこからありとあらゆるものをみていく母親たちだ。長太がもっとも嫌いなタイプの人たちだった。そしてもう一種類が、そういった価値観からおりてしまっている母親たちだった。いまでもわずかだが、こういう母親は存在するのだ。
 時子は、その訴えるようなお喋りをやめると、
「こんな成績の子でも、みていただけるんでしょうか」
「学校の成績っていうのは、すぐには上がらないものですよ。塾に入れば成績が上がるなんていうのはまったくの幻想ですね。そんなことをぼくは保証しません。上がらない子は何年たっても上がらないものです」
 と長太はそっけなく言った。それは長年、子供たちをみてきた結論だった。通信表に、一とか二とかならんでいる子が、三とか四に上がることは、ほとんど不可能なことだった。いつも二十点とか三十点しかとれない子は、どこまでいってもその程度の点数しかとれない。したがって、そういう子の評価は、まったく別の尺度が必要になるといったことを説明していると、時子は長太の言わんとすることを、すべて見通しているかのようにこう言った。
「大介は、目にみえない力が、欠けているんですね。その目にみえない力を、つけることだと思うんですが。そこのところをつけていただければ、いいと思っているのです。先生のおっしゃるように、成績なんてどうでもいいと思っています」
「それでしたら、ぼくからお願いしますよ。とても面白い子だな。面白い子っていまあんまりいないんですよ。名前がいいな。大介っていう名前が。いまはほんとうにけちくさい子供ばっかりですからね」
 時子が帰ったあとも、大介はごしごしと一生懸命、トイレ掃除を続けていた。そしてその掃除が面白くなったのか、部屋の方まで箒ではきはじめた。
「そこは、もういいよ。なかなかきれいになったね」
「うん」
「うん、じゃなくて、はい、だろう」
「まあ、そうです」
「じゃあ、これから作文を書いてもらうぞ。入学試験みたいなものだよ。原稿用紙十枚書いてくれよ」
「うへっ」
 いままで原稿用紙一枚書くのも、やっとだったにちがいない。だから十枚なんてとんでもないよと、抗議しているようにみえた。長太はそんな大介の前に、ばさりと原稿用紙をおいて、黒板に、
 
 〈ぼくの好きなテレビ〉
 〈ぼくがいま熱中していること〉
 〈ぼくの夢〉
 〈ぼくの家族〉

 といったテーマを次々に書いていった。
 このとき大介は、いままでにない体験をするのだった。そのテーマに、大介は次々と食らいついていくのだ。しんとした部屋のなかで、さらさらと鉛筆を走らせる音だけが響く。どんどん時間がたっていった。どんどん原稿の升が埋まっていく。五枚目に入ったところで、力尽きた。
「なかなかいいぞ。なかなかいい作文だよ。ひらがなばかりというのもいいな。君の字も素敵だ。のびのびとしていて気持ちのいい字だよ」
 それはまったく見事なほど、ひらがなのオンパレードだった。それにずいぶん幼稚な作文だった。しかし彼がいま一番熱中している、釣りのことを書いたあたりになると、言葉がきらきらとひかっている。
 こうして大介は、ゼームス塾の生徒になった。大介の小学校は五段階評価をとっていた。大介の成績はというと、一と二が見事なほど交互にならんでいるのだが、驚くことに、体育だけに五がついていた。こういう子供ってなかなかいないのだ。このことだけで長太はその子を尊敬してしまう。
 しかし大介を教えてみると、彼の学力だって、通信表につけられたようなものではないことに、すぐに気づくのだ。算数のちょっとひねった応用問題も、ヒントをあたえると、たちまち解いてしまうし、国語だって大きな声で、しっかりと読みあげていくことができる。要するに、テストに良い点がとれないだけなのだ。
 一学期が終わった日、大介は成績表をうれしそうにもってきた。算数と理科とそれに図工も上がっていた。べつに長太の教え方がうまいわけではなかった。むしろ長太は、なるべく教えこまないようにしている。それが長太の方針だった。勉強ができるできないの別れ目は、その子が目の前に横たわるさまざまな問題の山を、どれだけ自分の力で解いていけるかどうかにある。その山をあきらめずに乗り切っていく子だけが、成績を上げていくことができる。そういう子供に長太はしたいのだ。
「よくがんばったね。もともと大介って力があるわけだから。これでわかっただろう。やればできるんだってことがさ。こんどはオール三だね」
「それはちょっと、悪いジョークだな」
「悪いジョークなのかな。ぼくはそう思わないけど。大介はできるんだからさ。もともと力があるんだよ」
「いまの子供って、そういうおだてには乗らないのって」
 と大介はへらず口をたたいたが、まんざらでもないようだった。
 しかし二学期になると、ちょっと息が切れたのか、大介はちょいちょい休むようになったし、それに塾にきても、前のようなひたむきさというものがない。投げやりになり、さっぱり集中しなくなった。そんなとき長太は、やる気がないなら、帰っていいよと雷を落とすのだ。
 そんなことが続いて、とうとう大介は、姿をみせなくなった。以前の長太なら、そんなとき電話を入れて、どうしたのとたずねるのだが、いまではそんな電話をいれることはない。塾にこない子には、それなりの理由があるのであって、それでその子との絆が切れたって仕方がなかった。ただそれだけの関係だったと思うのだ。
 しかし大介の休みは、長太にはとても気になって、そんな方針に反して何度も電話をいれた。が、さっぱりつかまらない。父親は始終家をあけていることを知っていたが、時子もつかまらない。
 長太は大介が好きだった。というよりも、大介を尊敬していたのだ。大人が子供を尊敬するなんておかしな話だが、尊敬に値する子供ってちゃんといるのだ。大介は長太の創造力を掻き立てるのだ。大介のなかに横たわっている大きな可能性が。
 それに大介は笑顔の素敵な子だった。いつもにこにこしている。そんな大介をみると、いつも重く沈んでいる心も晴れていくのだ。
「おや、どこのどいつなんだ。もう忘れちまったぞ」
 久しぶりにあらわれた大介に、長太はうれしい気持ちをかくしながら言った
「あのね、お母さんが入院していたんだ」
「そうだってね。もうよくなったのかい」
「おっぱいを切っちゃったんだってさ」
 長太はちょっとたじろいだ。時子が入院していたことは知っていたが、これほどのこととは。ショックで言葉を失っていると、時子の悲しみをかいまみせるように、
「かたパイなんだよ。かたパイ。でもまだ女を捨てたわけじゃないんだって」
 と大介が言った。
 二学期の成績は、また前にもどってしまった。おまけに大介という子の偉大な勲章であった体育が四に下がっている。こんな成績をもらうと、長太までがっくりとなるのだ。
「どうしたというわけだ?」
「気にしない、気にしない」
 と大介は明るく笑い、こんなもの屁とも思っていないという様子なのだ。
 その日、時子があらわれた。彼女の姿は、別人のようだった。あんなにふっくらとしていたのがふたまわりも小さくなっていた。それがどんなに苛酷な戦いであったかを思わせる、いたましい姿なのだ。母親が大病と戦っていたのに、なんという成績を大介にとらせたのだろうと長太は深く恥じるのだった。ところが、
「すみません、こんな成績で。一生懸命みていただいているのに」
 と時子はあやまるのだった。
「とんでもない。あやまらなければならないのはぼくのほうですよ」
「あたしが入院したりして落ち着かなかったのですね。勉強する気にならなかったようです」
「しかしこうも派手に一をならべることはないんですよね。あんなに得意だった体育が三になっている」
「どうも大介は担任の先生とうまくいってないようなんです。先日も面談がありまして、落ち着きがない子で、授業中もふらふらと出歩いてクラスを混乱させると叱られましてね」
「なるほど。大介の先生はいろいろと評判の高い先生ですからね」
「そうなんです。とっても優秀な先生で、昨年もあの先生のクラスから一流の私立中学に十人近くも入学者をだしたと大変評判になったんですよ。だからクラスがえで、あの先生のクラスにあたると親も子も泣いて喜ぶ家庭があるくらいなんです。でも大介にはどうかなと思っていたんですけどね。あんなにきちんとなさる先生とは」
「小学校というのは先生一人ですからね。その先生とウマがあわないとこれはもう悲劇なんですね」
「そうですか」
「どんな先生だって人間ですからね。ウマがあわないということがありますよ。ぼくだってきらいな子がいっぱいいるなあ」
 そして、もし成績を上げようとすれば、まずPTAの役員になること、そしてもっと露骨にやるには、盆暮れのつけ届けを欠かさないこと、そんな手を打っておけば効果はすぐにあらわれると長太は言った。結局、そんなことで左右される小学校の成績なんて、まったくあてにならないのです、と長太はむきになって説明するのだ。
「先生、あたしはこんな成績、なんとも思っていませんよ」
 と時子は、長太をいさめるように言った。そのやわらかい言い方に、長太はなんだか叱られたように思えた。
「大介にとって、ほんとうに必要なものは、成績を上げることでなくて、そんなことよりももっと大切なものがあると思っていました」
 そして時子は、夏の合宿に、大介がどんなに燃えていたかを話した。ああいう体験が、いまの大介には大切なのだと言った。
 ゼームス塾では、毎年、夏休みは長期の合宿にでかけるが、そのときの大介は、水をえた魚のようだった。その合宿では、子供たちが、なにもかもしなければならない。ご飯をたくにしても、まず薪を拾うことからはじめていくのだ。一人ひとりが、動いていかなければ、いつまでたってもご飯はできない。
 そんな合宿で、大介はどんな仕事もいやがらなかった。それどころか、だれもがいやがる仕事を、大介は先頭をきってやってのけるのだ。だからどの子も、彼と同じ班になりたがったものだ。
 山の上に、テントを張ったときだった。そこは、水場のある合宿場から、ほぼ三十分ほど山道を登らなければならない。それだけに眺望が素晴らしかった。そこで星空を観察したり、昇る朝日を見ようというのだ。夜がやってくると、焚火をつくって、その火を取り囲んで、ぺちゃくちゃお喋りしたり、歌をうたったりする。そのうち、運んできた薪が燃え尽きてしまった。夜の山は、大人だって、怖い。それなのに、そのとき大介が、ぼくが薪をとってくると言ったのだ。そしてリュックを背負い、壊中電灯を手にして、たった一人で山道をおりていった。そのときも長太は、すごい子だなと思い、さらに尊敬を深めるのだった。
 また新しい年が明けていった。三十をこえてからの年月は、おそろしいばかりの速さだ。もう長太は三十五になっていた。その歳の流れが、長太をぞっとさせ、いったいおれは、どこにいくのだろうかと思わせた。糸の切れた凧のように、流されるままだった。不安が彼の心を灰色にしていく。 彼をそんなふうに落ちこんだ気分にさせたのは、大介の母親がまた入院したことと無縁ではなかった。
 長い闘病生活から帰還してきた時子は、また病院に舞い戻っていったのだ。その話を大介からきいたとき、悲しみと怒りのないまじったものが長太の心をどこまでも暗くしていった。なぜなのだろうと思った。なぜあんな素敵な人が、この世から立ち去っていくのだろうか。天のしわざは、不公平だと呪った。
 大介がおかしくなった。おかしいとしか表現できないほどの変わりようだった。塾に早くからやってきて、長太に与えられた課題を一心に取り組んでいく。それが終わると、もっと問題をだしてとまで、催促するのだ。いままで、いやいやながらやっていた。わからない問題になると、さっさとあきらめていた。それがわかろうと食いついてくる。漢字の練習だってそうだった。なんどもなんども書いて、完全に書けるように努力している。
 そんな大介をみて、長太は思うのだ。いまお母さんが、入院して癌と戦っている。大介もまたなにかと、戦おうとしたのではないかと。大介は四年生なのだ。そんな心の動きをしてもおかしくない。そんなふうに思えて、長太は涙ぐんでしまうのだった。
 それはちょうど、三学期が終わった日だった。その夜、大介の父親がゼームス塾にやってきた。彼と会うのははじめてだった。背がひょろりと高くて、ぶっきらぼうで、ぺこぺこするばかりの人だった。
「病院にいきましたら、うちのやつが先生に会ってこいと言うもんですから」
「ああ、そうですか」
 そこで時子の様子をたずねるべきなのだが、長太は、怖くて訊けなかった。そのことに触れまいとするように、
「大介は、元気でやっていますよ。素晴らしく燃えていますよ」
「その勉強のことですが……」
 学校から、電話があったと利夫は言った。いま山形から、利夫の母親がやってきていて、大介の面倒をみているらしい。電話に出たその母親に、大介の担任の国光が、なにやらものすごい剣幕で、いますぐ学校にきて下さいと告げたらしい。
「いったい、なにがあったというんですか」
「通信表というんですか、あれを大介が破っちまったと言うんです」
「通信表をですか」
「なんだこんなもの、なんだこんなものって、もうめちゃくちゃにそいつを破っちまったらしいんです」
「破った」
「大声をあげて、泣きながら破っちまって。それでもう大騒ぎになって、先生がとんできてさんざんぶんなぐられたらしいんです」
「先生がそう言ったのですか」
「いや、大介がそう言ったのですがね」
「ああ。なるほど」
「それで自分の母親が学校にいくと、ぜんぜん反省してない、ちっとも悪いと思っていない、なんという子でしょうか、この子の将来のために絶対に許すことはできませんと言われたらしいんです」
「その先生の言いそうなことだな」
「それで、とにかくこれはとても大事なことで、おばあさんでは話にならないから、明日お父さんが大介を連れて学校にきて下さいと言われたらしいんです」
 その日の夕方、利夫が病室にいくと、時子はしきりに大介の通信表のことをたずねたらしい。昨日大介がやってきて、目をきらきらと輝かせ、成績ぜったいに上がっているから待っていてねと言ったのに、その日はとうとう大介は姿をみせなかった。ということはまたいつものように成績が悪かったのだろうと思い、大介がきたらそんなことでくよくよしないでね、お母さんは大介の未来を信じているんだから、と励まそうと思っていたと言うのだ。
「それでそのことを奥さんに話したんですね」
「こんな話をしてはいけないと思ったのですがね。あいつはとっても悩むから」
「しかし話したわけですね」
「そうです。もうぽろぽろ涙を流して、あたしがいけなかったの、あんなことを大介と約束したからいけなかったと言うのです。大介は女房に、もしぼくの成績が上がったら家に戻ってきてくれるねと言ったらしいんですよ。もしぼくの成績が上がったら、お母さんは元気になってもどってくるねって」
 そういうことだったのか。謎が解けた。あんなに大介ががんばりだしたのは、そういうことだったのか。
「最初、大介は全部成績をあげてみせる、全部五にしてみせるって言ったらしいんです。うちのやつ笑って、そんなのむりよと言って、一つだけでもいいのよ、一つだけ上がったらいいのよって。そしたら大介は、じゃあオール三でいいね、それでお母さん家にもどってくるねって」
 そんなことができるわけはなかった。一をとっている子がいきなり三をとるなんて。それは奇跡をおこす以外にない。しかし大介は奇跡をおこそうとしたのだ。
 長太をもっと悲しくさせたのは、大介はもう母親が帰ってこないことを、本能の底で知っているのかもしれないという思いだった。もはや母が、彼の手のとどかぬ、遠い彼方に去ろうとしている。その母をとりもどすには、奇跡をおこす以外にない。彼はそのために、自分に、そんなきびしい試練を課したのではないのかと。
「うちのやつ、ぽろぽろと涙を流しながら、あたしがそんな約束をしたから、いけなかった、なんて馬鹿な子なんでしょう、そんなことが無理なことが、どうしてわからないんでしょう、そんな成績のことなんてどうでもいいことなのにって言うのです。それで、塾の先生のところにいって下さいと言われまして。ぜひ先生に会って、このことを全部話して下さい。あの先生なら、学校の先生にどんなあやまり方をすれば許してくれるか、ちゃんとアドバイスしてくれるからと言うもんで、まあ、それでおうかがいしたんですが」
「お父さん、ぼくも明日学校にいきますよ」
「えっ、だって」
「いや、いかせて下さい。ぼくにも話すことがあるんですよ」

 その夜、長太は眠れなかった。考えれば考えるほど怒りにとらわれる。しかし冷静に考えなければならなかった。考えなければならぬことがいくつもあった。
 その先生は、評判の高い教師だった。四十代の半ばに入って、いまあぶらがのりきっている教師だった。例えば、彼女の受けもったクラスは、私立中学にいつも高い合格率をみせる。昨年などは、私立中学に、二桁もの合格者をだしている。その力は、授業参観日などにいくと、一目瞭然らしい。あっちでペチャクチャ、こっちでペチャクチャとざわざわ騒がしいクラスが大半のなか、国光のクラスだけはなにか怖いほどの静粛さと緊張が漂っているという。授業を参観している親たちも、息苦しくなるというのだ。こういう雰囲気をつくりだしていくには、たった一つの方法しかないのではないかと、長太には思えるのだ。あの騒がしい悪魔の子である子供たちを黙らせるには。
 教室のうしろの壁には、忘れ物のチェック表が貼られている。教科書、ノート、宿題などからはじまって、ハンカチからチリガミヘと、その数は二十近くにのぼるらしい。忘れ物係がいて、毎日チェックして、その結果をその表にのせていく。大介などはその回数が、二百をこえて、クラスの断然トップだと自慢していた。班体制による競争も激烈なようだった。勉強も、遊びも、給食を食べることも、すべて班によって競争させるらしい。
 子供たちが、班ごとの活動に燃えていく理由は、いくつもあるのだろうが、その一つにちょっと過酷な罰を課しているらしいのだ。例えば、漢字テストなどで、最下位になった班は、その週は学校から帰ると、どこかの家に集まって、全員で復習しなければならないらしい。もしその規律を彼ったら、もっと過酷な試練が、その班に課せられるというのだ。
 長太が陰湿だなあと思うのは、例えば、宿題を忘れると、その日はぜったいに外に遊びにでてはならないという、罰が待っているらしい。しかしそんな罰を破っても、もう学校外のことだから、先生に発見されることもないのだ。しかし子供たちは、その罰を実に厳格に守っている。それは子供たち同士が、互いに監視しているからだった。罰をうけた子が、外で遊んでいるところを見たら、必ず先生に報告する。報告することが奨励されているようだった。その報告した子はほめられ、ルールを破った子には、さらに過酷な罰が待っているというわけだ。
 長太だって、ときにかんしゃくをおこして、子供たちを愛の鞭だなどと言って、叩くことがあった。子供たちに、暴カをふるのはよくないと論じる人たちがいるが、そういう人たちは、たぶん子供たちのいやらしさと、接触していないからだと長太は思うのだ。子供というのは、天使などというものではない。むしろ悪慶の子だった。たくさんのいやらしさと醜さとをもっている。甘ったれていて、わがままで、乱暴で、平気で人を傷つけ、現金で、約束をすぐに破り、調子がよくて、ずるくて、と数かぎりなく、長太は子供たちの悪口を言い立てることができる。そんな悪質な性格をもつ子供たちが、なぜか年ごとにふえているように思えるのだ。
 だからなにも、国光のやり方が、すべて間違っているとは思えなかった。子供たちを、ときにはげしく叱らなければならないときもある。過酷な罰を与えて、彼らの心と体と対決しなければならないときだってある。しかし国光のクうスは、そういうものとはちがった、もっと別の論理とか思想で成り立っているように思えるのだ。激しい競争、過酷な罰ゲーム、緊張と統制。なにかファシズムといったものを連想させる。しかし多くの母親たちには、この教師は圧倒的に支持されているのだ。とりわけ、わが子を、有名私立中学に入れようとしている母親たちには、熱狂的と思われるほど支持されている。
 そんなことを考えていると、長太はいつまでも眠れなかった。彼がやっと眠りについたときは、夜がしらじらと明けはじめていた。
 その朝、長太は大介の父親と待ち合せて、学校の門をくぐった。学校は休みに入って、しんとしているが、職員室は先生たちがちらほら机にむかっていた。入口近くの机にすわっている先生に、国光をたずねると、その教師は大声で国光先生と叫んだ。部屋の奥から、国光がやってきた。そしてちらりと攻撃的な視線を長太にむけた。
「お父さんですか。大介君は、どうしました?」
「いや、ちょっと」
「あの、大介の代わりに、ぼくがきました。ぼくは大介を教えている、塾のものなのですが……」
 と長太ほ言った。すると国光の目に、ありありとさげすみの色がさした。このとき長太は、ああ、やはり想像した通りの先生だなあと思った。
「困るじゃないですか、お父さん。これはお父さんと、大介君だけに話しておきたい問題なんですよ。第三者が立入る問題じゃないでしょう」
「いや、ほんとうはうちのやつがくればいいんですが。どうも自分はたよりなくて、その代わりに、塾の先生にきてもらったんですが。いつも大介の面倒をみてもらっている先生で、そんなわけで」
 と利夫がおずおずとこたえると、国光はしかたがないわねといった表情をつくり、職員室のとなりにある部屋に、二人を連れていった。そして、
「ちょっ、と片付けねばならない仕事があるので、ちょっと待ってて下さい」
 と言いおいて、部屋を出ていってしまった。
 ただ椅子がならんでいるだけの、さむざむとした部屋だった。暖房もはいっていない。利夫は青くなって、貧乏ゆすりをはじめた。
 三十分も待たされただろうか。がらりと戸がひらいて、年配の男と、国光が入ってきた。その年配の男は、教頭の蔵田だと紹介された。その蔵田が、こんな事件にかかわりたくないものだと言わんに、うんざりした調子で切り出してきた。
「まずお父さんに、おうかがいしたいのですが、お父さんは、通信表をどんなものだとお考えになっておられますか」
「まったく申し訳ないことで。大変なことをしたと思ってます」
 利夫は、さらに小さく、卑屈になって、そう言った。
「昔はですね、通信表をもらうとたいていの家庭では神棚か仏前にそなえたものですよ。それほど通信表というものは、神聖で大事なものだったんです。そんな大切なものを破り捨てるなんて、私の長い教師生活のなかでもはじめての体験ですよ。ここまで子供たちは荒廃しているのか、ここまで日本人はだめになっているのかという思いですね」
「まったく申し訳ありません」
「いいですか、この通信表を作るために先生たちはどんなに苦労をするか考えてもらいたいのですよ。とりわけ国光先生は、それはそれは熱心に通信表を作られる。先生の情熱といったものが通信表にこめられているのですよ。それを破り捨てるなんて」
「どうもすいません」
「お父さんにもよく考えてもらいたいのはですね、大介君はそんな大事なものを破りながら少しの反省もみせないことなんです。昨日は廊下にずいぶん長いこと立たせて反省をうながしたのですが、ついに最後まで自分は悪いことをしたとは言わないんですね。がんとして悪かったとは言わない。そこのところはお父さんどうなんでしょうかね」
「はあ、それはちょっとばかしうちのやつが……」
 そこで利夫は、入院している母親と大介とが交わした約束の話をするのかと思った。しかし利夫は先生たちに圧倒されているのか、いよいよ背中をまるめてうつむくばかりだった。
 バトンを引きついだ国光がすごい迫力で、まるで利夫を叱るようにたたみかけてきた。
「いま大介君のお母さんが入院していることは知っていますよ。そんなことで大介君の情緒がとても不安定だということはわかるんです。ですから今学期はとくに大介君に目をかけていつも励ましていたんですが、それがこんな仕打ちをされるなんて。なにか裏切られたようなショックでしたね。どうも大介君という子は、そんな人の思いやりとか、人の気持ちがわからない子なんですね」
「そうですか」
「大介君には、ちょっと困っていたことがあるんです。どんなまとまりの悪いクラスでも二学期あたりからだんだんまとまりができていく。今年のクラスはそれがずるずるとまとまらないままに三学期も終わってしまった。いまでもがさがさと落ち着きがなく、ぴしりとしたものがクラスに通っていないんですよ。それはなんだろう、どこに欠陥があるのだろうと思っていたんですけどね」
「はあ」
「それはいまお母さんが入院なさっている、いろいろと大変だと思うんですよ。しかしその分、いま自分がしっかりしなければいけないという、自覚をもたなければ。今度の事件だって、ここでほんとうに自分のしたことを反省して、立ち直っていかなければ、ずるずると悪いほうに転落していくように思うんですよ」
 大介のことを言っているのだ。そしてなにやら吐き捨てるように、
「とにかく、落ち着きがないんですよ。忘れ物が多いし、宿題はやってこない。叱られてもほとんど反省しない。クラスを混乱させる。いじめる。女の子にいやがらせをする。それも性的ないたずらをする。授業もほとんどきいていない。この子にはなにかいやなことがおこるのではないかと実はおそれていたんです」
 そして、それがとうとう起こったというわけだ。
「まあ、それはともかくとして、この問題にこれ以上の時間をとりたくないですし、私も前をみて歩きたいですし。もう一度校長先生にお願いして、通信表を再発行してもらうようにしましたけど。どうかお父さんも、大介君をきびしく、指導していただきたいんです。人がしてはいけないことがあるんだ、それをしたら、大きな犯罪になるんだということを、しっかりと刻みこんでおいてほしいんですね」
 利夫はしきりに頭をさげ、申し訳ありませんの連発で、痛ましいかぎりだった。とうとう長太は、切り出していた。
「ちょっとおうかがいしますが、大介の今学期の成績はまだみていないんですが、どうだったんでしょうか」
 すると国光は、そんなことあなたに関係ないと言わんばかりの鋭い視線をむけて、
「それは上がった科目もありますし、下がった科目もあります」
 真新しい通信表をひろげて言った。
「ちょっと見せていただけますか」
 再度作り直した通信表をもっとおごそかに利夫に渡そうとしたのだろうが、手をぬっと差し出した長太にしぶしぶ渡してしまった。
 長太はそれをながめた。あれほどがんばった算数が、一からやっと、二になっている。上がっているのは、それだけだった。理科と社会と美術が下がって、なにやら一の行列になっている。目をおおいたくなるばかりの、悲惨な通信表だった。
「なるほど、これじゃ大介は破り捨てたくなるわけですね」
 そこにいただれもが、意外な言葉を聞くといった様子で、長太をみつめた。
「いま先生たちは、犯罪という言葉を使ったけど、その前に先生たちが、犯罪行為をしているということを知っていますか。あなたがたは、いま、通信表は神聖で大事なものだと言われた。おそらく通信表というのが、ある意味では、学校教育の中心をしめるからでしょうね。すべての授業は、そこにむかって終結していく。それがひとつの総決算であるかのように。ぼくはこの通信表というのは、いったいなんなのだろうかとずいぶん考えてきたんですよ。これほどまでにみんながこだわり、まるで天の裁きであるかのように、おそれあがめる通信表というものをね。
 五は七パーセント、四は二十四パーセント、三は三十四パーセントというガウス分布の確率で成り立っているとか、しかし文部省では、一度もそのパーセンテージを定めた法令をだしたわけではないとか、ぼくなりに研究してきたんですがね。しかしそんなことを、いまここで披瀝するつもりはありませんが、ぼくなりに出した一つの結論があるんですよ。それはもし通信表に、存在の意味があるとするなら、それは生徒を裁くと同時に、教師みずからも裁くためのものであるということです」
 教頭は顔をしかめ、国光はちょっとうすら笑いさえ浮べていたが、その不可解な話に、少し興味を感じたようだった。
「国光先生におうかがいしますが、大介の通信表は、ほとんどが一ですね。この一という評価をつけるとき、先生はどんな気持ちでその評価を下すのですか」
「それは全体的評価のなかであたえるわけですよ」
「相対的評価というもので、割り出していくようになっているわけですからね。しかしもし先生に、教師としての良心といったものがあるならば、罪の意識を感じないものですか」
「罪の意識ですって?」
「また今学期も、私は、大介に一という評価しかつけることしかできなかった。私はなんとだめな教師なんだろうって。また一で、ごめんなさいって。もしそういう気持ちがどこかにあれば、大介は絶対に、通信表を破らなかったでしょうね。しかしあなたのお話を聞いていると、やっぱり大多数の教師のように、ただ五段階評価のパーセントから、機械的に割り出してきて、まるで裁判官のように、この子は五、この子は四、この子は三、この子は二、この子は一というふうにぺたぺたとつけていくのでしょうね」
「それは仕方がないことでしょう」
「そうです。それが今日の日本の教師ですからね。どんな先生だって、そういう評価のあり方に、抵抗することはできない。教師という職業で食べていく以上は、そのきまりを、守っていかなければならないわけですからね。しかしもしかぎりなく、子供たちに身をよせていくと、そのことにはげしく疑問を感じるものじゃないかと思うのですよ」
「そういう疑問は、いつもありますよ。あなたに言われるまでもないことだわ」
「しかしあなたはそれはやっぱり仕方がないこととして烙印していく」
「それが教師の一つの大切な仕事ですからね」
「実に大切なんでしょうね。それがたぶんあなたの信念でもあるのでしょう。しかしあなたたちは一とか二とかとあっさり烙印しますけど、それを受け取る側の人間になって考えたことがありますか。あなたにもお子さんがおられるそうですが、もしあなたの子の通信表に、ずらりと一と二が並んでいたらどんな気持ちになりますか。たぶん食事も喉に通らないほどのショックを受けるでしょうね。ぐさりと鋭利な刃物で切り裂かれたような衝撃をうけるはずですよ。そしてなにか自分の子育ては間違っているのじゃないか、なにか自分たちの人生も間違っていたのではないかと考えこんでしまう。
 その子だけではなく、その家庭が否定されたような衝撃をあたえるのですよ。通信表にぺたりと烙印される一とか二とかという評価を社会の言葉におきかえてみますとね、馬鹿という言葉ではないんですか。まぬけ、おちこぼれ、くたばれ、ごみ、くず、なにをやってもだめだ、君はだめな子どもだという言葉になるじゃありませんか。あなたたちは毎学期毎学期、なんの抵抗もなく、なんの疑いもなく子供たちに、お前は馬鹿だ、まぬけだ、どうしょうもないやつだ、お前は社会のがらくたなんだ、なにをやってもだめなんだという評価をあたえているんですよ。これが暴力でなくてなんだというのですか。これが犯罪でなくてなんだというのですか」
 部屋の雰囲気がかわっていった。小さく卑屈になっていた利夫がだんだん背筋をぴしゃりとさせてきた。
「大介がひとこともあやまらずにずうっと廊下に立っていたと聞いて、ぼくはさすが大介だと思いましたよ。大介という子はすごい子だと思いませんか。あんな年でもう自分の守るべきことは、どんな暴カ、どんな迫害、どんな罰がくわえられてもぜったいにゆずらないことを知っているんですからね。先生たちは彼がなぜ通信表を破ったか知っているんですか。それがわからなければ、そのことがわかっていなければ、大介を語る資格なんてありませんよ。落ち着きがないだとか、反省していないだとか。いったいあなたたちはなにを言っているんですか」
 心の底から激してくるものがあるからか、長太の口調はさらに厳しくなる。
「あなたがたは、大介のお母さんの病気を知っていますか。こんなことを言ってはいけないことだけど、病状はもうだいぶ進んでいるんです。そのことを大介はもう本能の底でなにもかも知っているのかもしれない。だから、だんだん遠くにいってしまうお母さんを引きもどすには、たった一つのことしかないと考えたにちがいないんです。それは奇跡をおこすことだ。その奇跡をおこすために、大介はベッドにいるお母さんと約束したんです。成績をあげるからね、通信表をあげるからねと。最初はオール五にしてみると言ったらしい。しかしそれは無理だということは彼にもよくわかっているから、だんだんとその目標を下げていって、じゃあオール三にしてみるよと言ったんです。彼はお母さんとそんな約束をしたんです。それもまたどうみたって不可能なことだ。しかし大介はその過大な試練を自分に課したんです。それをやりとげたらお母さんは再びもどってくるからです。
 あなたはさっき、大介がだらしない、荒廃しているとおっしゃったが、あたりまえじゃないですか。いま山形にいるおばあさんがきて、いろいろと面倒をみているようですが、それまでは大介一人でしていたんです。お父さんは、三日のローテーションで働きにでる。そのお父さんのいない日は、すべて大介一人でしなければならなかったんです。家のなかが、荒れていくのはあたりまえじゃないですか。冗談じゃありませんよ。まだ十歳そこそこの子に、なにができるというのですか。いつもやさしい笑顔のお母さん。いつも洗濯してくれるお母さん。いつもおいしいものを作ってくれるお母さん。いつもいいにおいのするお母さん。どんなに彼は、以前のような家庭になってほしいと、望んだことでしょうか。大介はお母さんを、病院からとりもどすために、奇跡をおこそうとしたんですよ。お母さんをとりもどすには、もう奇跡をおこすしかないのですからね」
 長太は、感情に溺れるまい、冷静になれ、と話しながら思うのだが、あふれてくる悲しみはどうしょうもない。
「一クラスに四十人もいるから、学校の先生たちには一人一人の子がよくみえないこともあるでしょうね。しかしぼくのような小さな塾では、一人一人がよくみえるんです。大介はほんとうに今学期はがんばったんです。見違えるばかりに、ひたむきで必死になって勉強したんです。しかしそんな努力も、全体のなかでは、少しも目立たなかったのでしょうね。いまの子はよくできて、あっさりと九十点百点をとる子がたくさんいる。そんななかで、大介のとる点なんて、依然として、びりから数えたほうがはやい。したがって、あなたにはなんの変化もみられなかった。しかし大介は大介なりに、必死だったんです。
 だから昨日は、大介にはおそろしい日だった。それまで通信表なんて、意識したことはなかったが、しかし昨日はちがった。奇跡をおこす日だったんですからね。彼はドキドキしながら、通信表をひらいたにちがいない。しかしなにも変わっていない。変わっていたのは、ただ算数が一から二になっているだけだった。逆に理科も美術も落ちている。オール三どころではなかった。ほんとうはその日、大介はその通信表をもって、お母さんのところにかけつけるはずだったんですよ。しかしこんな通信表では、みせられるわけがないんです。こんな悲しい通信表では。だから彼は、こんなもの、こんなもの、と泣きながら破ってしまったんでしょうね。ぼくには大介の怒りと悲しみというのが痛いほどわかりますよ」
 長太は、手にした通信表を、ぱたぱたさせながら、
「あなたたちは、いつもいつも子供たちを裁いてきました。この子は五の子、この子は四の子、この子は三の子、この子は二の子、この子は一の子とまるで焼きごてでペタリペタリと押すみたいに。たまには逆に、あなたたちも一生に一度ぐらいは、あなたたちの仕上げる通信表が裁かれてもいいはずですね。ぼくからみたらこの通信表は落第ですよ。教師生活何十年だかしらないけど、ベテランの先生にしてはお粗末きわまりないな。大介というきらきらした可能性をもった子供の力を少しも引きだしていない。知性も情熱も感じられない、官僚主義に裏うちされたこんな通信表は落第ですよ」
 そして長太は、びりびりと大介の通信表を引き裂いてしまったのだ。二人の先生も利夫も、一瞬唖然となった。長太は立ち上がると、
「もう一度大介の通信表を、書き直してくれますか。もっと大介という子に身を寄せた通信表を。点数をよくしてくれというのじゃありませんよ。そんなことを言っているのじゃなくて、もっとちがった方法で大介をみて下さいということですよ。あなたはおそらくよくできる子供たちからすべてをみているにちがいない。いつも四とか五をとる子供たちからすべてが出発しているにちがいない。そういう教育をしているからあなたの受けもったクラスでは、私立中学の合格率が異常に高いのでしょうね。しかしそういう教育では一や二をとる子供たちはみえてこないはずですよ。大介たちをみる見方というのは、まったくちがった尺度が必要なんですからね。ぼくにはどうもはるかにそっちのほうが大切だと思うんです。一や二しかとれない子供たちにかぎりなく身をよせた教育がね。そういう活動のなかでとらえた通信表ならば、ぼくは大介を説得しますよ」
 学校の門をでると利夫はあまりにも奇妙な展開に、かえって不安そうに長太のほうに顔をむけると、
「大丈夫ですか」
「いや、あれでいいんですよ」
「そうですか」
「そうなんです。温室にいる先生たちを目ざますにはあれぐらいのことをしたっていいんです。ぼくはあのときものすごく悲しくなったんです。大介がいま受けている運命といったものに」
 そのとき長太は、大介の運命をまた自分も少し担おうとしたのかもしれなかった。しかしそれは長太のうぬぼれだった。
 四月の中旬だった。桜が散っていった。時子はまるで散る花びらと呼応するかのように静かに息をひきとったのだった。

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