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馬田亮一 -自給自足のアートハウス-

 佐賀県大和町にある「巨石パーク」。静かな森に10m以上の巨石群が17基も点在し、いまや佐賀県を代表するパワースポットになっている。佐賀駅からその「巨石パーク」に向かう途中、国道263号線沿いで異彩を放つ建物に遭遇した。

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 たくさんの廃材や廃物が幾重にも重なり構成されたその建築物は、一見すると廃墟のようでもあるし、どこか異国の要塞のようでもある。入り口にはコンクリートや茶器やガラスなどを組み合わせて制作されたシーサーがこちらを見据えている。その周りの黒板にはポップな社会風刺の言葉が書かれており、どうやらアートハウスのようだ。

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 道路沿いに車を止め、中に入って呼びかけてみた。「こんにちは、どなたかいらっしゃいますか」。しばらく経っても反応がない。どこからか人の話し声が聞こえてくる。

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 迷路のような空間を通り抜け声のする方へ向かうと、点けっぱなしのビデオから香港映画の音声が流れていた。さらにいくつかの部屋を通り抜けると今度はラジカセから洋楽が流れている。「誰かがいるはずなんだけど」と思い、上階に登っていくと裸電球が吊るされた畳部屋で横になっている人の姿が。話を伺うと、この建物は8年ほど前(取材当時)から、たった1人で建てたものだという。

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 彼の名は馬田亮一(まだ・りょういち)さん。馬田さんは下に降りて一通り建物内を案内してくれた。洋楽が流れていた場所は、自作のピザ窯を囲むように数台のギターやテーブルが並んでいる。

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 棚はCDがコラージュして貼り付けられ、何本も酒瓶が揃えられている。ミュージシャンとしてライブハウスで演奏を続けており、「いつかはここでライブが出来るようにしたい」と教えてくれた。さらに奥の方は台所まであり、馬田さんはこの家にひとりで暮らしている。どうしても話が聞きたいとせがむ僕に、馬田さんはビールを片手に自らの半生を語ってくれた。

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 昭和33年3月3日(まさかの3並び!)に福岡市内で3人きょうだいの長男として生まれた馬田さんは、高校3年生の時、友だちに誘われて山口大学を受験。全く勉強をしていなかったため不合格となり、将来の目標もないまま上京し、知人宅で下宿を始めた。

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 親父が『馬田緑園』っちゅう造園業をしよったけど、跡を継ごうという気も全然なかったね。「アートをしたい」と思いよったけん、芸大を目指すじゃないですか。ところが大雪で30分ほど遅刻してね、共通一次になって日本で一番初めに遅刻した男よね。途中から入室できんから「別室で待っときなさい」ってお茶なんか飲まされたけど、こういう性格やから、嫌になって受験せずに帰ったわけ。

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 その後、吉祥寺のアパートに転居し武蔵野美術大学を受験することを決意。国分寺の近所にあった美術予備校に通い始めた。そこで出会ったのが、現代美術家として活躍する奈良美智だ。

 奈良が1年先に武蔵美に入ってて、武蔵野にある長屋の4畳半二間の部屋に俺が「家賃半分払うけん半分貸せ」っちゅうて、少しの間、奈良と一緒に住んどった。あいつはその後、引っ越したけど。奈良はラグビーが好きでね。ただ武蔵野のことはあんまり語りたがらんちゃ。あいつは外国に渡ってからしか自分を語りたくないみたいね。

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 やがて2浪の末に武蔵野美術大学へ入学。サッカー好きの馬田さんは、浪人生の頃から大学のサッカー部へ遊びに行っては、部員たちとサッカーを楽しんでいた。部員たちも「この人はきっとOB だろう」と思っていたが、翌年新入生として入学してきた馬田さんの姿に皆驚いたそうだ。入学した実技専修科では彫刻や絵画作品を多数制作した。そこで同級生だったのが、現代美術家の西野達だった。

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 俺たちは昼間からゴザひいて酒飲んだり、勝手に大学の中に自分のアトリエをつくったりしようたわけ。クラスのはみ出しものたちが集まって変わったことばっかしよったけど、中でも西野は突出した鬼才やった。俺の方が年上やけど、交差点で植木寄せの土を抜いて「プレゼントや」って俺の車のボンネットの上に置いたもんね。あの時点であいつのパフォーマンスは完成しとったな。みんなで鍋しようる時も突然鍋に頭突っ込んで、でんぐり返ししたこともあった。

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 3年で卒業のはずが、授業の出席日数が足りず半年ほど在籍し卒業。その後は、都内で気の会う知人たちと絵画教室を始めた。私生活では、在学中から付き合っていた彼女と結婚し3人の子どもを授かった。奥さんは学校の教員として夫婦共働きの幸せな日々を過ごしていた矢先、転機が訪れる。

 俺が30代前半の頃かな、オヤジが癌になって66歳で他界してね。死に際にベッドで「俺が跡を継ぐけぇ安心してくれ」みたいなことを言うたんよね。東京を離れるのは惜しまれたけど「継ぐ」と言った以上、単身赴任で福岡に帰ってきたわけ。

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 「アートも造園も同じモノづくりやから何とかなる」と、1年かけて造園施工管理技士1級の資格を取得し、父親の跡を継ぐ形で造園の仕事を母と二人三脚で始めた。そして、仕事が軌道に乗ってきた頃には、ガーデニングの流行に伴い『Do the Garden』という子会社も設立。3年ほど経った頃から、奥さんや子どもたちも福岡に泊まりに来るようになり、新天地で順風満帆な日々を送っていた。

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 仕事が軌道に乗りかけてた42歳の時、大きな不渡りを2回もらって、連鎖型倒産よね。最初の不渡り出した時にさ、会社を維持するために親戚とか嫁さんの親父や弟にも、融資を受けたりして迷惑をかけとるわけ。当時の俺は仕事に埋もれとったばってん。仕事辞める気もなかったからさ、嫁さんは「早くたため」と言ってたけど、俺は「どんだけ借金してでも繋げとけば、いつか盛り返せる」と思って。嫁さんが子どもを連れて東京へ帰った後も1年くらいは頑張っとったけど、2回目の不渡りを受けてトドメを刺されたわけ。嫁さんや子どもたちとは、倒産してすぐ離婚届を押しに東京へ行ったっきり。最初は養育費を少し送ったりしようたけど、送れるはずがないよね。

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 2回目の不渡りの時は、兄からお金を借りて、馬田さんと母親で自己破産の申し立てをした。実家には取り立てが来るため、福岡にとどまることはできない。自然と足が向いたのは隣の佐賀県だった。病気の母親を各所に預けながら、この時から馬田さんは車上生活を始める。所有していた2台の車のうち1台の車に生活用品を詰め、もう1台で仕事を探して動き回った。造園のアルバイトで繋ぎながら2年近く車上生活を続けた。ちょうどその頃に、『たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京)に奈良美智が出演している姿を目にし、とても驚いたそうだ。そんな馬田さんが、現在の場所に転居してきたのは8年ほど前のこと。

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 「死ぬまでモノづくりをしたい」と思って、佐賀県内で空き家の安いところを探しよったわけね。この場所は早い段階で見つけとって、竹やぶを掻き分けて入ったら、上にあった祠に弁財天が祀ってあったのよ。それで吸い寄せられるように「ここに来たい」と思いよって。色々調べたら、大金持ちの爺さんがここで子どもたちに絵やお茶を教えてたらしいんよ。それで、いま住んどるところは、別荘のような感じで使っとったらしいわ。

 馬田さんは、知人の不動産屋を介して、偶然にもその建物を月2万円で借りることができた。ただ管理人が死去してから建物が荒れ果てていたため、整備や伐採など全てひとりで行ったそうだ。朽ち果てた建物を利用して、生活の場をつくる。「元の形は半分も残っていない」というから、想像しただけでその作業量にただ感服してしまう。

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 最初に取り掛かったのは、寝るスペースを確保することだった。「雨漏りもひどくて畳も腐っとって、ヤモリだらけやったね。だから1年くらいは毎日が被災地みたいな感じよ」と当時を振り返る。8割ほどが貰い物や拾い物、自然からの恵みで揃えた。塗装を塗り直すなどしてお金がかかりだしたのは、最近のことだという。古いプロパンガスが設置されていたものの、薪暮らしを覚悟していた馬田さんは、それを壊して薪と固形コンロでの生活を始めた。水は山水を利用し、風呂は五右衛門風呂に浸かる。ガスや水道は通っておらず、食料は裏山の山菜などを採取し60%自給自足の生活を送っている。

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 Google Mapで馬田さん宅を調べると「川上劇場」という名前が出てくる。他にもこの外観から「びっくりハウス」などと呼ばれているそうだ。さらに一時期は、周囲から「違法建築ではないか」と苦言を呈されることも多かったが、全国ネットのテレビ番組などで取り上げられるようになってからは、そうした声は無くなった。

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 現在も海苔や草刈りなどの仕事を続けながら、改修と制作に勤しむ毎日。「この歳になっても佐賀やけん仕事があるんじゃないかな、もうハローワークとか行かんでも人間関係が出来とるから仕事が来るったい。体は悪いところはなくて運が悪いだけ」と陽気にビールを飲み干す。

 でも、振り返ってみるとパワーはすごいばい。ものすごい作業してきたし、ものすごい作品つくってきとるし。俺は、「本物になりたい」いや「本物でありたい」と思うとる。やけん、歌はボブ・ディランを尊敬しとるし、絵はピカソやったね。ピカソは魚を食うと魚の骨をアートにしようてん。

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 ピカソの逸話のように、馬田さんの暮らしもアートと共にある。どん底の人生に一筋の光を照らしているのもアートだし、自らが生み出した作品に馬田さんはどれだけ支えられてきたことだろう。寝室の隅には、これまで描いてきた作品がたくさんあった。具象画から抽象画まで幅広い。室内を彩る作品群とはまたタッチの違う温かみのある絵画だ。公募展にも出さない馬田さんは、自分で室内にギャラリーを作ろうと改装を進めている。一貫してモノづくりに邁進してきた馬田さんだが、これまで途中でやめようとしたことは無いのだろうか。

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 ここなんか今でもゴミ屋敷って言われよる。不思議なもんで仮に自分でエベレストだと決めて、半分超えたらね、戻れんよね。頂上まで行かんとやってよかったかどうかは分からんから、今でも迷いながらよ。

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 誰でも迷いよるよね。俺なんか、別れた妻と子どもたちのことは1日10回くらいイメージでは起こすけど何もできないよね。だから強いて言えば、嫁さんを捨てらざるを得んかったことが、人生でただひとつの後悔やね。だって女はいくらでもおったけど子どもを産んでくれたんはあの子だけやったし。愛してるから結婚したし。まぁ、ずいぶん迷惑かけとるね。いちどは東京まで行って手紙を置いて来たけど、返事が来んかった。もう音信不通よ。子どもに会えたんも小学校6年までだね、2人ともサッカー部やったし。悲しいドラマになるけん、そこは追いかけんで、とにかく自分で形にして余裕があったら金を送れるように。それしかないよ。

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 ただ、現況からは外れられんけん、ここでやるしかないんよ。ずっとサッカーしようたけ分かるけど、サッカーって常にパスしたりボールが来たら蹴ったり地味な動きしようるやん。でも、ゴール前の突破口みたいなんが時々出てくるんよ。現実もそれに似とんよ、時々1点入るんよ。だから突破口が現れるまでは我慢するしかないんよ。

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 掲げられた言葉や壁に描かれたドローイング、奏でるギターの音色。これら全てが馬田さんの表現だ。そこに陰湿さは全く感じられない。馬田さんと話していると、とてつもない生命力を感じてしまう。「続けるしかない」という馬田さんの信念が僕の胸に突き刺さる。そう、後戻りは出来ないし他に選択肢は無いのだ。前に進み続ける中で、いつか訪れるチャンスを馬田さんが掴む日を僕は願わずにはいられない。

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 それにしても、もし自分が同じような状況に置かれたとき、今の僕には同じようなことを続けていく自信は到底ない。世間体や社会的な評価など色んなしがらみの中で僕らは生きているからだ。いつから、がむしゃらで必死に生きることを忘れてしまったのだろうか。帰り際、「ここは一回で見きれることができるような場所やないから」と僕の背中に語りかけてくれた馬田さん。下戸な僕だが、いつか一緒に酒を酌み交わしたいなと思う。

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<初出> ROADSIDERS' weekly 2017年9月20日 Vol.276 櫛野展正連載








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