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[日記]正しいの重さ


正しいという言葉が好きになれない。

と言っても、正しくないことが嫌いな訳では無い。正しいということが鬱陶しいからと言って、それを理由にして列に割り込んだり、つばを道に吐き捨てたりはしない。絶対しない(これらは私が非常に、心底嫌悪する行為という理由で例に出した)。

私達は少なくとも、日本という国の、どこかの都道府県の、どこかの市町村に住んでいて、そこではその街のルールがある。法律や条例だ。

それらに則って行動するということは、およそ正しい行いと呼べるだろう。そのルールを無視して、あるいは違反して罰せられる人もいる。

極論を言ってしまえば、ルールを守れる人間が正しい人間だ。でもこのルールは法律だけに留まらない。

自分で作ったルールだって構わない。

その作られたルールが、たとえどんなものでも。
その日の気分でどれだけコロコロ変わろうと、つくるのも従うのも自分だ、関係ない。

そのルールが法律を逸脱しなければ罰せられない。

それならおよそ正しいのだ。

そしてそれは他人にとっての正しさと同じとは限らない。

そのことが私には恐ろしいから、私が正しいと思う、なんてできるだけ言いたくない。

それだけを言ってしまうのは、ただの押しつけだからだ。


考えてもみてほしい。国家だって三権分立の体制をとって(正しく機能しているかは知らないが)監視をし合って、ようやく国としてのルールを、正しさを維持できている。

それなのに、自分ルールは(当たり前だけど)たった一人の人間が立法も、施行も、司法も全部する。

司法においては他人の行動や思想にさえ及ぶ。

そして自分の正しさを、他人を断罪するために、他人を攻撃するために使う。

私はそうなりたくない。

自分ルールにおいて、他人の影響を受けやすいかどうかは人それぞれだろうけれど、決定権はすべて自分にあるのだ。

大抵は子どもの頃に培ったものが自分ルールの主軸になるだろう。以前日記に書いたが、私は家族の教育のせいか、おかげか他人を気遣う“気づき力”がある程度備わっており、(たぶん)必要以上に他者に気をつかってしまって損をして疲れて自滅するタイプだ。

私はこうだけど、あの人はこうだろうし…みたいなことを考え始めるともうどうしようとテンパる。テンパっている間にも、ああこんなの私が自分の体裁を保ちたいだけだ…と自己嫌悪する。めまぐるしい。

話が逸れたが、私は自分が正しい!と思い込んでその正しさを押し付けてくる人間が嫌いだ。話し合いをするのは面倒だけど、それはまだ良い。歩み寄れるかもしれない。

でも、もうなんの議論の余地もなく、相談でもなく、これはこう!と押し付ける人間が嫌いだ。たとえ無意識でも。いったい何様なのか。

そういう人間って大抵世話焼きのつもりなのだ。しょうがないんだからもう!私がやってあげなきゃ!みたいな感じだ。もはや自分ルールに従った結果、相手を下に見ている。

でも、何かしらピンチに陥った友達を助ける時って、大抵相手がごめんねー!!とものすごく下手に出てくるので、自然と私がやってあげました感が出てしまうことになる。それが嫌で、そういうときの言葉選びなんかは、ものすごく気をつかう。だって前私も助けられたし、また助けられるかもしれないしお互い様だ。これは私の自分ルール。

そして、自分と他者は違うということにも気づけない人間にはなりたくない。これも自分ルール。


けど1年でも社会に出ると、割とそういう人間って沢山いるのだと気づいた。それはもう、いちいち気にしてたらキリがないほど。

これには真面目に向き合わないように努めていきたいが、表面的に言葉を交わし合う人間関係ってすごくストレスだ。ふう。


私は気にし過ぎではあるけど、とかく自分のことには鈍感だ。だから、あのときの判断は正しい、正しかったとしてしまったら私はもうその事について何も考えなくなってしまうだろう。

そしてきっと忘れてしまう。

そして同じことを繰り返す。その場しのぎの判断を下して、またそれを正しいと思い込もうとするだろう。

そうはなりたくない。

正しい は攻撃のための武器になり、自分を気分よくさせる麻薬であり、次の機会を考えさせない忘却装置でもある。

それを忘れないためにも、正しいという言葉の重さを常に忘れないことを、これから先も自分ルールとしておきたい。


#日記 #独白 #雑記 #自分ルール


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