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他人の評価に支配されるのは良くないことですか

約半年ぶりのnoteじゃ〜。


この半年間でSNSに無事飽き、半ば義務のような感覚で続けていた日々の中で「なぜこれを手放せないのか…」とぐるぐる考えていました。まあそれは今度たくさん書くとして(読んでくれるとうれし〜です)

そんな義務のような中でも、唯一楽しみだったのが絵本の執筆。

今回はその絵本の話なんですけど、その前にちょっと最近思うことについて書こうと思います。





この頃よく見かけるのですが

『これはガチです。メンタルが弱い人は、「他人への依存をやめる」「人の目を気にしない」「人に期待しない」「自分の幸せは自分で決める」…〜すれば幸せになります。最後の一番大事なことはプロフに』

今の流行りですね。(この文自体は私が作ったものですが)こちらの是非について問うつもりはなく、流行りの例として。

私自身、所謂直すべき側の特徴を持った人間なのですが、このような「こうした方が良い」論を見かける度に思うことがあります。
他人軸ってそんなに正すべき部分なのかしら、と。


自己啓発本やSNSには「楽に生きるにはこうすべき!」と、他人依存的なマインドの是正を勧めるような内容が飛び交っています。「気にしない方がいい」「己を生きろ」のような、誰かにとっての最適解であろうマインドを示されるのはよくある話です。

しかし各々の人間が長年積み重ねてきたものは「そちらの方が良いと理解している」程度のことでは残念ながら変わり得ないことがほとんどなのではないだろうか、と。
そもそもマインド自体各々が長い年月をかけて構築した人格やその元となる経験から育まれるもので、脳の理解を感情に適応させるというのは、そんなに簡単なことではないんだと思います。

いつかのnoteでも言ったような気はしますが、悩みの類が同じ場合でも、「こうすれば吉」の解は各々によって異なる場合があります。解は当人の経験則で成り立つもので、つまり万人に共通しないと考えています。

(これらの話は、良好かつ深い関係の相手からの好意のアドバイスとは多少切り離した考えです。そういったものとは向き合い感謝していきたいですね。)

他人軸が昔から根付いてしまった私の場合、「人の目を気にしない」ことや「他人からの評価への依存」は脳の理解程度ではどう努力しようが変えられませんでした。

したがって一般論で変えることが良しとされていることに固執するのを辞め、私にとっての解は何かを考えることにしたんです。
他人依存を仮に「弱さ」と定義すると、その弱さを「変える強さ」ではなく、「共存する強さ」が必要ではないかと思いました。克服するのでなく、共に上手く生きる方法です。


「変える強さ」「共存する強さ」。どちらが適当なのかは個人によって変わるし、さらに枝分かれした先の方法でさえも変わってきます。誰かの解ではなく、自分の解が必要になってくるなあとなおさら感じます。
マインドが他人依存であることが問題なのではなく、解を見出すこと自体が他人依存であることが場合によっては問題なのではないかと、そういう結論に最近至りました。



いろいろ書きましたが絵本の話に戻ります。

絵本というと子供に読み聞かせるイメージがありますが、書きたいことを簡略化せずに表現できたのも、大人に向けた絵本だというのが理由です。

全く別のように見えて同じような悩みを抱え、そして妬みあう一人の男と、一つの樹枝六花のお話。

数分で読めます…

ここから先のnoteは絵本を読まれた前提で書かれているので、ぜひご一読ください。(上の画像をクリック)


この絵本の舞台は宮城県と山形県の県境にある、蔵王連峰。冬には一面に雪が積もり、樹さえ凍り白くなる世界。

そこには、蔵王連峰の景色に溶け込むように白を纏った男がいました。

そして、またしてもこの白に紛れるように雪の結晶が上から舞い降りてきます。名を樹枝六花と言います。
「ごきげんよう。白い人。挨拶をしたのは初めてだ。ところが私はもう地について消えてしまう。」
と、樹枝六花は話しかけます。

そこで男は自分独りで抱えていた悩みを、すぐ消えてしまう者になら打ち明けられるだろうと、どこか淡々と話し出しました。


お話の続きは画像から



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– 絵本を読んだ方はココから


いかがでしたでしょうか。

大人向けの絵本となると、言わんとすることをわかりやすくするのも野暮かしら、なんて思っていたけど、このnoteは伝えたかったことを改めて書いたもので…。
お笑い芸人が自分のネタのウケる部分を説明する、みたいな恥ずかしさがあってこれはこれでキツイですが、見てもらえると嬉しいです。

ということで、ここは説明したいな〜〜〜という部分を勝手に紹介していっちゃうぜ!!


・大前提、白い男は狐であった

そもそも白い男は化ける能力のある狐で、過去に上皇の使いであったり、神獣として扱われていた、と言うのは自分自身の経験です。「化けた狐だけが皆の中で生きて、ホンモンはどこにいるんだって、だあれも知ろうとしないことに疲れたんさ。」白い男の発言からわかるように、他者からの都合のいい認識の枠組みの中で生きてきたのだと思います。

ただ化けることしかできない小さな狐には、誰も見向きをしなかった。そういった要素が狐を「期待をされたくない、何かになることを求められるより、ひっそりと消えていたい」と、蔵王連峰の白を選ばせたんでしょう。

プチ補足をすると、隣国などでも過ごしてきた狐がなぜこの地を選んだかは、化けた後の扱いが関係しています。
妖怪や化け物としての記憶が残る場所でなく、神獣として崇められた場所を選ぶのは、結局狐自身が「自分の生きたいように」でなく「他者を拠り所とする感情」からまだ解かれていない状態であることが理由でした。


・狐が、樹枝六花の最期を「自分の尾の上で溶かす」ことを選んだ意味

樹枝六花は、生涯何かの中の一つでしかなかったことを悔やんでいました。そんな樹枝六花にとって、一面の雪に落ちることは、死と同じであると語っています。
「お前という一人にとって、たった一つの樹枝六花になれたのに
また昔みたいに、全部のうちの一つになる。これは溶けてなくなることよりも苦しい。」

それを聞いた白い男もとい狐は、白の中の一つにさせるのではなく、樹枝六花の言った通り「狐という一人(一匹)にとってたった一つの樹枝六花」として、自分の黄金色の尾の上でその身体を輝かせたまま溶かすことを選んだのです。
ゆえに、樹枝六花の悔いと憧れは、その最期によって解放され、叶えられたのでした。


・絵本の最後、狐が蔵王連峰を駆けた理由

一尾の姿を誰も見つけてくれなかった過去から、本来の自分は求められていない、認められないのだと思い込み、何度も何度もなぞり、埋められない溝となってしまった狐。
これまで蔵王連峰の中の白に混じりただ彷徨うことが、自分の苦しみから逃れる最適解だと思っていました。

ただ、これまで己でさえもなかったことにしていた元の姿の自分を樹枝六花が見つけたことにより、化けた姿でなく本来の狐を求めてくれる存在が生まれ、溝が埋まったのです。

このままひっそりと消えていたい、この間違った最適解という呪縛からの解放の象徴となる描写が、「混じることを望んでいた白の中を、黄金の姿で駆ける」でした。



– 結局何が言いたかったんや


自分で解説する恥ずかしさはなかなかのものですね。

上記では絵本の中の一部分の解説でしたが、ここでは絵本を通して伝えたかったことを書いちゃいます。これもプチ恥ずかしい。

冒頭で、この絵本のことを「全く別のように見えて同じような悩みを抱え、そして妬みあう一人の男と、一つの樹枝六花のお話。」と言いました。

作中で樹枝六花は「誰も自分を求めてくれないこと」に、狐は「他人に求められた姿で生きること」に悩んでいます。
しかし後者は言い換えると「本来の自分だけを見つけてくれないこと」になり、前者と同じような悩みであることになります。
この意味でも「別のように見えて同じような悩み」と表現しましたが、もう一つ大きな意味がありました。

それは、どちらも他人の評価軸の上に生きているということです。自分がどうしたいかでなく、誰にどうしてほしいか、になっている。

両者は他人軸の根本が最後まで変わらないままでしたが
互いを妬ましく思っていた状況を、理解し合うことで打破し、真に自分を認めてくれる存在に出会えました。

それが両者の悩みから解放する要素になりますが、重要なのは「他者を拠り所とするがゆえの悩み」を解決したのは、自分を認める存在に出会うという「他者を拠り所とする感情」だったということです。


結局、自分の好きなようには生きられていない。

ずっと他人軸のままだった。でもそれは変えるべきことでも、弱さでもなんでもない。どう付き合っていくか、どう向き合うかを自分自身で考えられることができれば、きっとそれは他人が示す解に習うよりも早く辿り着けるのではないでしょうか。


そんな想いを、小さな狐と樹枝六花、蔵王連峰の景色に載せました。

素敵な絵を描いてくださったおおはらあつこさん
想いを汲み取って一緒に作り上げてくださったていねい通販の皆さん
本当にありがとうございました。



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