最近考えていること
池澤夏樹が編集した日本文学全集は全三十巻から成るが、彼はそのうちの一巻をまるごと吉田健一にあてている。他の全集では丸谷才一だとか、江藤淳などと合わせて一巻という扱いだったり、そもそも登場しないことも少なくない。そんな特徴的な一冊に添えた言葉が以下のものである。
吉田健一といえば英文学者として著名であるが、彼の批評もまた極めて優れている。しかしその文体は独特で、うねうねと思考が続き、指示語が多く読みにくい、例を挙げておこう。
吉田健一は生粋の帰国子女で、英語とフランス語に通じていたようだが、日本語の文章を書くときも英語やフランス語で思考していたという、人妻をじんさいと読んだりもしたらしい、そんな彼の何が池澤夏樹を小林秀雄から解放したのか、分かるようで分からない、不思議な感じがする。
そこで歴史を振り返ることにする。日本の文芸批評の歴史は良くも悪くも小林秀雄の歴史であった、彼を称賛するか、超克を試みるか。その二つが多くの批評家の取った道だった。明治を迎え、“外発的な開化”を遂げた日本であったが、言語の開化が多大なる困難を伴ったことは、漱石の、学生が自分たちの世代に比べて英語が出来ないとは言うが、日本語で学問ができるならそれに超したことはないという発言を見ても明らかである。二葉亭四迷が『浮雲』を発表し、大槻文彦が『言海』を編纂したことでなんとか落ち着いたのであろうが、それでも日本の散文は未熟であった。そんな時代に登場したのが小林秀雄である。三島由紀夫に一人の天才が日本における批評の文章を樹立したとされながらも、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからであると評された彼の批評は実に独特である。いくつか代表的な物を挙げておこう。
凡百の批評家は見るように批評するが、彼は触れるように対象を批評する、主体と客体の間の距離を埋め、対象に対して働きかけるだけでなく、己もまた対象から働きかけられることを感じながら文章を書いている。晩年、僕は詩を書いているんだよ、と語ったそうだがまさに詩のようにビビッドな文体を有する、空想の徹底を感じさせる魅力的な文章を幾つも遺した。
しかし、先ほどのリンクの記事中の丸谷才一の発言にもある通り、彼の詩的な文章は論理性にかけるところが多分にあった。太平洋戦争を受けて文学の批評からはある程度距離を置いた彼だが、特に戦後の文章は空疎と評されることもしばしばあった。『近代絵画』ではその苦痛を吐露しているようにも取れるが、小林の文章はますます詩的な文体へと変わっていく。これはここでは詳しく触れないが、中原中也との出会いや、長谷川泰子との同居によるものだと考えていたし、それも正しいに違いないが、池澤夏樹の指摘を見て新たな視点を得た、と言っても同じものを見つめていることには違いないのだが。
小林秀雄の場合もまた、21歳にして代表作の『悪の華』の大半を書き上げたボードレール、20歳にして詩作を放棄したランボーなど、“未熟な者の不安と煩悩”の現れとしての詩に魅了された一人だった、小林もまた圧倒的な詩の才能を持った友人の前に膝を折り、ヒステリックな女性に翻弄され、関西に逃亡した乱脈な青年時代を送ったわけだが、人生の理不尽さを経験的に知った彼は、故郷喪失など様々な苦痛に耐え忍び、近代という圧倒的な不確実性の時代を、苦痛を感じている自己の絶対性に依ることで生き抜いた。彼の魅力の一つである生き様が文学を“鹿爪めいた”ものにしてしまったとしたら、なんと不幸なことだろう。
では、吉田健一が文学をどう捉えたか。それを明白にするためには政治と文学について述べておくのが良いかもしれない。ということで廻り道をする。
政治と文学については様々な文学者がその区別を語って来た。特に戦後は中野重治らを中心に政治と文学論争が巻き起こったのだが、戦時中にもこのような議論は起こっていた。その中でも有名な文章を引用しておこう。福田恆存の『一匹と九十九匹と』という文章だ。
政治と文学は個人と社会の繋がりという人間の条件なわけだが、殊戦争の時代はこの二つが接近した。故郷を喪失しバラバラになった個人は大きな物語を求め、国家はこれを利用した。実は九十九匹であった一匹が戦争に動員されるのである。文芸銃後運動はその良い例だ、なるほど徒党は個性を殺してしまう。この議論の前提となる観念の問題は、文学に目的が伴うことが所与のこととされている点である。議論そのものが成り立たないのだ。そう主張するのが吉田健一である。池澤夏樹は、わざわざ全集の限られた一冊の中に『『ファニー・ヒル』訳者あとがき』という実に渋い文章を入れており、解説において二大評論である『文学の楽しみ』と『ヨオロッパの世紀末』の入門編と位置づけている。
十九世紀のヨーロッパ、あるいはそれを西洋だとして輸入した明治の日本がイデオロギッシュな固定観念で頭を硬くしていたのに対し、十八世紀のそれは実に闊達な文明であったというのが吉田の考えだ、固定観念が精神の自由を奪い、文学の楽しみも奪ってしまった。確かに二大評論のどちらにも通ずる観念である。
最初の引用をもう一度振り返ろう。
僕が言いたいのはただ一つに過ぎない。文学は実学である。ただ目の前の文章を読み、自分の想像力を広げてくれるものに身を任せれば良い。
また、この言葉を、ただ生きるのではなく、実生活にあふれたいいものを受け入れて生きなさい。と言い換えることで、たとえ文学から離れてしまっても良いように記憶をつないでいきたいと思う。
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