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大竹伸朗展(続き)

大竹作品と時間

大竹伸朗展では、デジタル空間と物理空間との境界や、物理空間に残される価値について考える契機をもらいました。

大竹さんの作品は、物理空間に残される価値の一つが「エイジング」や「劣化」であることを強く感じさせます。これは「時間の経過」を意識する体験に他なりません。

エイジングや劣化は、フィジカルなモノ(物質)を通じての体験です。確かにモノは劣化し、我々はそこで時間を感じられるようになり、ふだん気づかない時間の流れに自分を投影することができます。
こんな手続きを経てこそ、自分と向き合うことが可能になります。


タイパが奪う時間経験機会

しかし、「時間の経過」を感じさせるのは、劣化によりモノの哀れを感じるようなマイナスの体験ばかりではありません。

手間ひまをかけた経験は、すべて「時間の経過」を伴うものです。そして、そうした経験を通じて獲得した知恵、スキル、人間関係などを通じて、我々は「時間の経過」を事後的に、間接的に感じることができます。

しかし最近、こうした時間の経験が切り売りされるようになっています。
「タイパ」と呼ばれる時間省力化の潮流です。


省いた時間にこそ価値がある

タイパによって毀損され、喪失するものは二つあります。

一つは、価値の高い経験をする機会を失うことです。
タイパとは、経験の入口と出口は変えず、そのプロセスを省力化するものですが、省力化して捨てられたものにこそ価値があったとすると、話は変わってきます。

極端な例をあげると、この記事を大竹伸朗展に行かずして書いているケースです。鑑賞体験を言語化し公表するという一連のプロセスには、何重もの大きな悩みや小さな喜びが伴いますが、その喜びを放棄するということになります。

また、デジタル化やIT化によって無自覚に価値を失っているケースもあります。
例えば、音源のデジタル化によって失われたのは、倍音による無限の響きです。
可聴帯域だけでよいという狭い了見で音源を作った結果、直接的なコンテンツだけが伝わり、その周辺にあった理解はできない優れたみのや、いつか重要になるかもしれない情報が捨象されてしまいました。

「経験のパッケージ」を大切に

もう一つは、「経験のパッケージ」を失うことです。
経験には、コトの始まりから成果の確認まで、一連の体験がパッケージされた体験フォーマットが重要な役割を果たしています。

例えば、ゴルフに行くには、まず仲間を集めて日程を調整し、ゴルフ場を選ぶという手続きを踏み、当日の天気や体調、そして自分のパフォーマンスによって体験の質が決まります。こうしたプロセスを経て、たまに80台がでると喜びは格別です。
経験を積むことで、自分なりの体験フォーマットが出来上がり、失敗なく比較的簡単に質の高い経験ができるようになっています。

これに限らず、経験というのは、料理する、運動する、遊びにくい、仕事する、飲みに行くといった日常的な経験を含め、一連の体験群をパッケージになっていて様式化されたものがほとんどです。
そして、これは効果的に生きている実感を得られる仕組みであり、「生きる様式」といえるものです。

これがタイパによって変質している。
明らかにムダなものが省かれるのであれば問題ありませんが、価値あるものが失われているとすると問題です。
それ以上に、パッケージ自体が毀損しているとすると、我々の体験の質は確実に低下していきますし、その回復には時間がかかりそうです。

現実空間の反撃

究極の「タイパ」は死ぬことにあるので、タイパは社会的に全景化することはないと思いますが、行き過ぎたタイパには抵抗していく必要があります。

そんなこともあり、「空間レシピ」の新企画「現実空間の反撃」の役割を再認識したところです。